実は妻はプロテスタントに信心し、私もそれを傍らで見ているにつけ、信仰仲間をもつ大切さ、皆さんと同じ場所で信心する大切さを、痛感するようになりました。日程等決まりましたら是非お知らせ頂きます様、お願いします。勝手ばかり申し上げましたが、どうぞご容赦下さい。奥様を始め、ご家族の皆様にもよろしくお伝え下さい。それでは失礼します。YH
>>以前、本で読んだ話ですが、仏教評論家の〈ひろ・さちや〉さんは、子どもの頃、おばあさんから「仏様に手を合わせるとき、お願い事をしてはいけない」と言われて育ったそうです。お願い事をしたら、もう一度やりなおしをさせられた。<< 私も子供の頃、家の仏壇には買ってきた(貰い物の)お菓子、学校の成績表などを備えていましたし願い事をするように言われて育ちましたが、最近は何故か頼みごとをするのに抵抗を覚えるようになり、願いごとはしないようにしています。その代わりに自己宣言の場としていますが・・・。 また、最近、私の友人が教行信証の復刻本を入手し、親鸞聖人の息遣いを感じながら書物を拝読していると伝えてきました。私も、浄土真宗の関連資料を読む中で、信楽峻麿師の著作に共感を覚えましたが、信楽師の考え方はどうも浄土真宗の主流ではないような記述を目にしました。もちろん、長い歴史の中で、いろいろな流れがあるのは理解できますので、いろいろな考え方に接してみようと考えていますので、伴戸昇空様の法話もその一助としています。佛教ではありませんが、今年のNHK教育の「こころの時代」は「福音書のことば〜旧約聖書から読み解く〜」ですので、こちらも視聴し、その他禅宗、テーラワーダ等について、あれこれと考えています。 普段は****を生業にしているのですが、どうも私は自然科学と宗教・思想との間を行きつ戻りつしながらバランスをとっているような気がしています。
また「日曜学校の大人版」を企画中とのこと。詳細が決まりましたら、HP上でご案内くだされば幸いです。長々と失礼致しました。これから暑い季節が訪れますが、どうぞご自愛下さい。F 拝
私がお仏壇の前に坐るのは、何も考えない時を持つためです。何も考えないことなどできませんから、お念仏を称えます。少しづつですが、「私」に執着しているエゴが見えてきます。 >>普段は****を生業にしているのですが、どうも私は自然科学と宗教・思想との間を行きつ戻りつしながらバランスをとっているような気がしています。<< 「バランスをとっている」のは誰なのか。問題は、そこなのでしょうね。 御遠忌記念の「紫雲寺日曜講座」にご関心をお寄せくださり、有り難うございます。来年のことですので、まだラフスケッチ程度の計画しかできておりません。計画が固まりましたら、ホームページでもご案内いたします。どうぞよろしくお願いいたします。合掌
*ご意見1: このモデルによると、信心の有る無しに拘わらず全ての者が浄土往生することになる。これでは、何のために「浄土の教え」があるのか分からなくなる。 「浄土の教え」は、死後往生のためというよりも、今生で回心を得て心安らかに生きるためにあります。このことに関しましては、ホームページの法話集「第4話、死ねば終わりか」の後半等をご覧下さい。 *ご意見2: このモデルではアラヤ識までが「私」の世界だと考えられるが、それが仏の世界とつながっていると考えるのは間違っている。「仏の世界」は煩悩を抱えた「凡夫の世界」とは次元が異なる。 「一切衆生、悉有仏性」という言葉は、誰もがいのちの奥底で「仏の世界」とつながっているということではないのでしょうか。曽我量深先生は、「法蔵とはアラヤ識のことだ」とおっしゃったそうです。このモデルに関しましては、法話集「第43話、自分に出遇う」の後半、法話集【坊外篇】「第1話、念仏の道、浄土への道」の(2)「命の構造」等をご覧下さい。 *ご意見3: 日ごろの法座では、どちらの講師も「信心がなければ浄土往生はできない」とはっきり言われる。仏縁のない者が浄土往生するという理屈はどうやって成り立つのか。 信心に、「私の信心」、「貴方の信心」は、ありません。信心は授かるものなのです。誰に仏縁があるのかは、私たち凡夫に分かりませんが、「一切衆生、悉有仏性」というのは、誰にでも、潜在的に仏縁があるということではないでしょうか。 仏の慈悲は一切衆生に向けられているものと頂いております。念仏は浄土往生のための交換条件ではないでしょう。「念仏を称える者だけが救われる」という思いは、あまり堅く握りしめないほうがよいのではないでしょうか。親鸞聖人のお手紙でしたか、「安心を得た人は、他の人のためにお念仏を称えなさい」とあったように思います。法話集「第41話、いのちのなかま」等をご覧ください。
ご納得頂けるものかどうか、心許なく存じますが、只今いささか身辺慌ただしく、これにてご返信申し上げます。皆様の仏教勉強会が稔り豊かでありますよう、念じあげます。合掌
「一切衆生、悉有仏性」についてお尋ねいたします。この言葉について貴信では、「誰もがいのちの奥底で『仏の世界』でつながっているということではないでしょうか」とお示しいただきましたが、私も同感です。同感というより、私にとってそうであってほしいという思いです。以前、手次ぎ寺の勉強会でこの言葉について話し合ったことがあります。参加者の一人から次のような発言がありました。 この言葉について親鸞聖人はどのように受け取っておられたか。親鸞聖人は、教行信証の真仏土巻において、衆生の仏性について涅槃経などからの引文を多数採られてはおられる。しかし、親鸞聖人のお受け取りは、真仏土巻三十七に「惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。・・・・安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。」と述べられているように、凡夫にとっては今生では見ることのできないものだと受け取られている。浄土真宗の信心においては、「一切衆生、悉有仏性」ということは考えない方がよいのではないだろうか。衆生に仏性があるとするならば、聖道門のようにそれを磨きだそうと行ずるのが自然ではないか。現に、法座では、「一切衆生、悉有仏性」ということをほとんど聞かない。 他の参加者にとって理解の及ばない発言でしたのであまり議論になりませんでしたが、ずっと気になっていました。昇空さんはどのようにお考えですか。お暇のときにご教示ください。
私は大谷派についてはよく存じませんが、大谷派の伝道教学では、、「一切衆生、悉有仏性」ということについてどのように扱っているのでしょうか。併せてお教えいただければ幸甚です。YY
ただ、『唯信鈔文意』に次のごとくあります。「『涅槃』をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり」と。ここにある「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり」というのは、『涅槃経』の「一切衆生、悉有仏性」と同じ趣旨かと存じます。 いささか図式的ですが、煩悩に支配されたこころの領分(マナ識)を「偽りの自分」、煩悩に支配されていないこころの領分(アラヤ識あるいはアマラ識)を「本当の自分」として考えますと、仏教の理屈が分かりやすいように思います。以下に一部を再録いたしました「法話集【坊外篇】第1話の2.命の構造」や、法話集の「自力と他力」をご覧ください。 「仏性」とは、私たちの内にある「如来」のことです。親鸞聖人の『浄土和讃』(諸経意)にも、「如来すなはち涅槃なり、涅槃を仏性となづけたり」とあり、続けて、「大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり」とあります。親鸞聖人は、「罪悪深重、煩悩熾盛の我が身」には「仏性」は無い、法蔵菩薩が誓願を成就されて阿弥陀如来となられたことが、自分の「仏性」 なのだと、おっしゃっているわけですが、「いのちの全体像」を見ましても、確かにそうですね。「罪悪深重、煩悩熾盛の我が身」とは、「マナ識」(我:偽りの自分)のことですから、こ こには「仏性」はない。「仏性」は、誓願が成就されている世界にある。つまりは、「仏性」とは、この「アラヤ識」(無我:本当の自分)のことを言うわけです。(以上、法話集【坊外篇】第1話の2.命の構造」より)
これにてご返信申し上げます。今後と、よろしくお願いいたします。合掌
「門徒さんの勉強会なんかでも知識と理屈の競い合いになってはどうかと思います」は、私へのお諭しとして受け止めさせて戴きます。 今回のご法話では、「相対と絶対」について懇切に教えて戴きました。また、これまで何度読んでも解らなかった「自然法爾章」が昇空さんの釈でいくらか理解できたように思います。
私は、父が3年前に亡くなってから母と二人で、毎朝正信偈をお勤めするようになりました。母は終わると必ず「ありがたいことでございます」と申しますが私はどうしてもその言葉が出ません。お勤めをしていても仏様と向き合っていないのでしょうね。まだまだです。ご法話に感謝申し上げます。 合掌 YY
ご法話の内容に関して、質問させていただきたい事があります。ご法話拝見して、率直に思う事は、立派な考え、感じ方だなということです。 こうあるべきと言われているような…そんな感じを受けます。 私は大乗仏教、ことに親鸞の仏教は、全ての人が救われる教えだと認識しています。ご法話の内容のようには思えなくても、感じられなくても、救われる教えだと思います。 それが条件ではないはずだからです。
昇空様は、どのようにお考えですか? ご法話の様な、考え方、感じ方が模範解答とお考えですか? 念仏する者が皆、そのように思えなければ救われないという事ですか?
「救い」というのは、自分の都合の良いように問題が解決することではなくて、自分の思うようにならなくとも、「うん」と頷いて、また歩きはじめられることだと思っております。 人生に模範解答というものがあるのかどうか、私は存じません。ときには立ち止まりそうになる自分自身へのエールを込めて、お話させて頂いております。「こうあるべき」というように聞こえましたら、お詫び申し上げます。
どうぞ、ご自身のご信心をお大切に、ご精進ください。有り難うございました。合掌
2010年9月23日の永代経法話の中で、「問題は、死後のことではなく、今生のことなのです。念仏の教えに出逢うというのは、今生を生きるためにこそ大切なのです。」という部分に共感しました。どうも浄土真宗というと浄土のことばかりが強調されるように思います。 私も以前は誤解していましたが、浄土のことばかりで、実際に生きる役には立たないと思っていました。しかし、最近流行のテーラワーダ仏教でも強く強調されるように、”今生を生きる”という点に気づけば、佛教の新たな面が見えてくるように思いますし、浄土真宗もそういう面を主張すべきだと(人事ながら)思います。
先日、教行信証の復刻本を拝見する機会(友人が入手)がありました。そこには繰り返し修正を続けた親鸞聖人の執念を感じるとともに、時間を越えて訴えてくるものを感じました。講義を前に、教行信証に触れてみたいと思います。伴戸昇空様お勧めのテキストがありましたらご紹介下されば幸いです。今後ともどうぞよろしくお願い致します。KF 拝
「日曜講座」へのご参加、こころよりお待ちいたしております。ただ、真宗門徒向けの、身心養生的な内容ですので、ご関心をお持ち頂けるかどうか分かりません。『教行信証』には、とりたてて触れる予定はございませんので、お気楽にご参加ください。 「今生を生きる」という点、「…浄土真宗もそういう面を主張すべきだと(人事ながら)思います」とご指摘くださいましたが、真宗教団はどう考えるかは別といたしまして、私自身は何事をもことさら「主張する」気持ちがございません。「仏法に出合えて良かったね」と、ご一緒に喜べたら、それが全てです。ただそれだけでございます。
どうぞまた、お立ち寄りください。有り難うございました。合掌
>>「『日曜講座』へのご参加、こころよりお待ちいたしております。ただ、真宗門徒向けの、身心養生的な内容ですので、ご関心をお 持ち頂けるかどうか分かりません。 『教行信証』には、とりたてて触れる予定はございませんので、 お気楽にご参加ください。」 どうぞよろしくお願い致します。 >>「『今生を生きる』という点、『…浄土真宗もそういう面を主張すべきだと(人事ながら)思います』とご指摘くださいましたが、真宗教団はどう考えるかは別といたしまして、私自身は何事をも ことさら『主張する』気持ちがございません。『仏法に出合えて良かったね』と、ご一緒に喜べたら、それが全 てです。ただそれだけでございます。」 なるほど。私も、「ははぁ、そうだな。うまいこというな」等という瞬間が楽しくて、佛法の教えに触れていることが多いです。もちろん、怒り心頭に達した時、虚脱感に襲われたときに仏教書を紐解くこともあります。 ともあれ「…浄土真宗もそういう面を主張すべきだと云々」と書いたのは、これまでに多くの人が関わり、紡いできた歴史とテキストに触れることで、何も苦しんでいるのは自分だけではないという生へのフィードバックが得られると思うからです。実際のところどうかは分かりませんが、少なくとも極楽浄土の話が一人歩きして、そのことが原因で、「仏法に出合えて良かったね」という機会が失われているような気がする(もったいない)ためです。 別に僧籍にある訳でもないのに妙ですが、私は仏教的な雰囲気(これも一言では言えないのは承知の上で)、お寺というものが失われていくのが気になっています。きっと私自身、仏法との出逢いを喜んでいるからだと思います。 今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。FK
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