念仏について、昇空様のサイトでは、ただ念仏申すというようにありますが、曽我量深氏の著書など見ますと、憶念の念仏とか、ただの称名念仏ではないような解釈で書いてあるように思うのですが、念仏はただ称えればいいのでしょうか?
道元なども、ただ称えるのはカエルの鳴くが如しと言っていますし、蓮如も、ただ称えても、助からないと言っています。 本当にただ口に南無阿弥陀仏と称えるだけでよいのでしょうか?
さて、「念仏はただ称えればいいのか」とお尋ね頂きましたので、思いますところに従いまして、簡略にお応え申し上げます。 まず、「お念仏はただ称えるだけ」ですが、声に出す場合にも、出さない場合にも、「そのお念仏に、自ら耳を澄ます」ことが大切です。お念仏は、「称える」ものであると同時に、「聞く」ものです。というよりも、むしろ、「聞く」ために「称える」ものです。「自ら聞く」ことなく「ただ称えるだけ」であれば、あるいは、道元禅師のおっしゃるように「蛙の鳴くが如し」(『正法眼藏随聞記』)かもしれません。 次に、「憶念の念仏」ですが、曽我量深師の『歎異抄聴記』には、「われわれは、念仏をとおして如来の憶念を感ず。…中略… 感ずることはすなわち如来を憶念することである」と、あります。つまり、曽我師がおっしゃっているのは、「何かを憶念しながら念仏せよ」ということではなく、「称名念仏するなかで自ずと感得されるものがある」ということでありましょう。 また、蓮如上人の『御文』には、「…なにの分別もなく、くちにただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり…」(五帖十一通)とあります。ここにはいささか難儀な問題も含まれていますが、要するに、「極楽往生を求める心をもって、称名念仏してはいけない」ということです。 「ただ称えても、助からない」ということではなくて、「助かる」ことを求めている私たちの心が問題なのです。私たちは、「助かる」「救われる」という言葉を、「自分にとって都合の良いことが起こる」という意味に解しがちです。ですが、「自分にとって都合の良いこと」というのは、煩悩の求めるところです。仏法は、お念仏の教えは、煩悩の「求め心」を満たすためにあるわけではありません。蛙(かわず)は相手を求めて鳴きます。もし私たちが、極楽往生を求めて称名念仏するなら、それは蛙の鳴くのと変わりません。 「念仏には、無義をもて義とす」(『歎異抄』第十章)。お念仏はただ称えるだけです。称名念仏に籠められているのは、行者の願いではなく、仏の願いです。このことに関しましては、これまでにも何度もお話してまいりましたが、なかなか納得し難いところですので、次回の秋の永代経法要で、もう一度お話させて頂くことにいたします。
あるいは、ご納得頂けないかもしれませんが、ひとまず、これにてご返信申し上げます。お待たせいたしまして、失礼いたしました。合掌
私は、自分の環境を自分の都合の良いものに変えて救われたいというような、そういう思いは薄いと思います。仏教をいくらか学び、念仏する縁を頂いたせいか、今ある事実を受け止める人生になってきたような気もします。 私の関心は環境云々というよりも、あとから、あとから、自分の心から湧いてくる、人を憎む気持ちや、嫌いだと思う気持ちや、諸々の自己中心の醜い想いから自由になることはできないのだろうか?という事なのです。いくら念仏しても、醜い自分が見えてくるだけで、そこからちっとも自由になれないでいます。 私はこの度の東北大地震の悲惨な光景を目の当たりにしても、自分が同じ目に合わなくて良かったと心のどこかで思っているのです。あの人が自分でなくて良かったと。 可哀想などと口では言っても、内心はきっと違うのです。例を挙げればきりがないのですが…1日を振り返ると、人に言えないような思いばかりです。
仏様は、そのような者をこそ救うと仰るが、そう言われても、私はちっとも醜い自分から救われた気にならないのです。このまま念仏でいいのでしょうか? そのような心はそのままで手を合わせていくだけでしょうか?
さて、「醜い自分から救われたい」ということですが、親鸞聖人は、こうおっしゃっています。「凡夫というは、無明煩悩、われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心、多く、ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、止まらず、消えず、絶えず」(『一念多念証文』)、「悪性さらにやめがたし、こころは蛇蠍のごとくなり」(『正像末和讃』)、「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(『歎異抄』)と。 思いますに、末法の世に生きる私たち凡夫は、生涯、煩悩から解放されて自由になるということはないのでしょう。私たちは、煩悩の身のまま、お念仏を称えるしかないのです。ですが、「いくら念仏しても、醜い自分が見えてくるだけ」というのは、どうでしょうか。前便でもお話いたしましたが、お念仏は称えるというよりも、聞くものです。称えながら何かを考えて(「思考」して)いては、ダメなのです。「醜い自分だ」とかね。そうではなくて、お念仏は、聞くことが大切です。お念仏を聞いていると、だんだん「思考」が止まってきます。 「諸々の自己中心の醜い想い」は、自他を区別(差別)するところから生まれます。つまり、「自己中心の想い」は、自他を区別する私たちの二元論的・相対的な「思考」から生まれるわけです。「考える」ことの基本は「比較する」ことですが、比較することからは、相対的な自分しか見えてきません。自他を比較することから生まれてくるのは、プライドとコンプレックスだけです。どちらも人生の重荷でしかありませんね。 お念仏は、そんな思考を止めるためにあります。お念仏は、相対的な自分ではなく、絶対的な自分(本当の自分、仏)への気づきを深めるものです。絶対的な自分というのは、「あるがまま」の自分のことです。それは、自分にとって都合のよい自分のことではありません。自分の本性を、「あるがまま」に見る。そこに見えた自分のことを、親鸞聖人は、「地獄は一定」とおっしゃっているのです。 かなり前のことですが、「坐禅でも念仏でも、それをしているときは無我になっているが、やめたら元の木阿弥になってしまう。そんなもの何になるか」とおっしゃった方がおられました。それは、どうかと思いますね。私たちは、いわば様々な経験の総体なのですから、無我(本当の自分、仏)を経験したということが大事なのですよ。
これでお応えしたことになるかどうか、いささか心許ない思いもいたしますが、これにてご返信申し上げます。どうぞこれまでにホームページに掲載しております法話をお読み頂き、ご賢察頂きますよう、お願いいたします。合掌
H 様が「瞑想」というものをどのようにお考えか分かりませんが、煩悩のグラウンドである時間の世界から(つまりは思考から)解き放って、人を意味や目的の重荷から解放してくれる道を「瞑想」というのなら、念仏行は卓越した瞑想法と言えます。 紫雲寺ホームページ、心の青年への手紙・第9通《「浄土」への道》に、もう少し詳しく触れておりますので、ご参照くださいませ。ひとまず、これにて失礼いたします。合掌
以来、昇空様のご法話を読み返しては、お念仏の毎日を送っております。お陰様で、本当に心安らかに暮らすことができるようになりました。平成2年帰浄した父、釈道教。昨年暮れ帰浄した母、釈尼清華。友人である僧侶K師。そして昇空様はきっと還相の菩薩としてこの世につかわされ、私を仏法の世界へと導いてくださっているものと考えています。今後とも昇空様のご法話をいただいて、お念仏とともに生きてまいります。広大無辺の現世において、このご縁をいただいたことに感謝いたしております。南無阿弥陀仏 合掌
参考文献ですが、以下の中村元先生の御著書などが、読みやすいかと思います。中村元『ゴータマ・ブッダ』I,II(中村選集、第11巻、第12巻)、同『仏弟子の生涯』(同、第13巻)。ご研鑽・ご精進を念じ上げますとともに、酷暑の候、ご自愛を念じ上げます。合掌
しかし、暗澹たる気持ちでいても仕方ないと、心機一転! 明るい気持ちになった時、偶然以下のページにたどり着きました。「釋昇空法話集【坊外篇】第1話・念仏の道、浄土への道、第四部:信じるから感じるへ」。「今を生きる」について、理屈っぽい私にもとてもわかり易く図付きで解説されていて、ようやくようやく、「今を生きる」が腑に落ちました。 タイトルの「信じるから感じるへ」の通り、まさに今、あたまで考えるのではない「感じる力」を望んでいて、寝る前にお祈りなどをしていました。きっと大いなる存在がこのサイトへ導いてくださったのだと、心から感謝しています。
素晴らしいコンテンツを制作された紫雲寺様にも心より御礼申し上げます。いつか京都に赴くことがありましたら、お参りにいきたいと思っています。ありがとうございます。
まず、どんな宗教でも、必ず行をともないます。ですから、「非行」というのは、行ではないという意味ではありません。そうではなくて、「非行」というのは、自分の考え出した行ではないということ。つまりは、阿弥陀仏の要請しているとおりに行じているということです。 『歎異抄』(第8章)には、次のように記されております。「念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと云云」と。 阿弥陀仏の要請のままに念仏を称えていると、自ずと思考が止まってくる。これは「手段」というのとは違います。私たちは、本来、そういうふうにできているのです。その本来のいのちの働きを、阿弥陀仏の本願として伝えようとしているのが浄土の教えです。 『親鸞聖人御消息』の「自然法爾の事」という文に、「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」とあります。私たち現代人には、この言葉のとおり、阿弥陀仏を擬人化しないほうが分かりやすいかと思います。 あるいはご納得いただけないかもしれませんが、これにてご返信申し上げます。同様の問題に関しまして、次のメールや法話で、もう少し詳しく触れておりますので、ご覧いただき、ご賢察いただきますようお願いいたします。合掌
(1)お便りのコーナー●「1998年6月10日、YM様へ、お便り拝受」、(2)お便りのコーナー●2002年3月17日、京都のSH様へ、Re:質問」、(3)第35話「帰る浄土」、(4)第45話「仏道を歩む」、(5)第46話「彼岸と此岸」。
私事ながら、私が出会った最初の仏教書は、ヘルマン・ベックの『仏教』(岩波文庫、上・下)でした。この本には、非常に感動しました。次に、ウイリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』(岩波文庫、上・下)に出会い、ワクワクして読みました。二十歳の頃だったと思います。このあたりから仏教に関心を持つようになりました。 仏教書も少々読みましたが、決して勉強家ではありませんので、心惹かれる文章だけ拾い読みしたようなものです。ですが、難しい勉強をしなければ仏法で救われないということなら、学問の出来る人だけが救われることになるわけでして、そんな教えには、とても付いていけません。 勉強と聞法は、違うように思います。勉強は、知識を得るためにする。聞法は、自分を知るためにある。書物を読むときにも大切なのは、この聞法の姿勢ではないかと思います。自分を知るために読むのなら、「著者により解釈が微妙に異なって」いることもまた、気づきが深まるご縁となるかもしれません。 ご関心をお持ち頂けるかどうか分かりませんけれど、書物を何冊かご紹介申し上げます。仏教の学習より大事な何かを感じとって頂ければ、有り難く存じます。ご精進を念じ上げます。合掌
(1)寿岳文章編『柳宗悦・妙好人論集』(岩波文庫)/(2)柳宗悦『南無阿弥陀仏』(岩波文庫)/(3)鈴木大拙『妙好人』(法蔵館)/(4)鈴木大拙『無心ということ』(角川ソフィア文庫)/(5)鈴木大拙『真宗入門』(春秋社)
そこで「信知」という言葉について更にお教えを乞うのですが、「信じていたことを、本当に知る、本当に体験するときがくる」ということは、親鸞聖人は将来の事柄として「信知」という言葉を使われたということですか?
現在は信じていることを、知ってもいないし体験していないのですよね。〈「宿業」を阿弥陀様に取られ〉ると信じ、それが体験として実現する時に知が成り立ち、それまでの「信」が「信知」へ発展するということでしょうか? それとも親鸞聖人が言われた「信知」は現在の認識なのでしょうか? 以上、お時間が許されます折にはよろしくお願い申し上げます。
この善導讃の、「煩悩具足と信知して、本願力に乗ずれば」という二句は、おおよそ、二種深信の「機の深信」と「法の深信」を表していると考えられております。問題の「信知」ですが、この箇所以外には、「義なきを義とすと信知せり」(『正像末和讃』)と出てくる程度でして、用例の多い言葉ではありません。解釈例としては、『一念多念証文』に、次のようにあります。 「今信知弥陀本弘誓及称名号」(『往生礼賛』)といふは、如来のちかひを信知すと申すこころなり。「信」といふは金剛心なり。「知」といふはしるといふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり。また「知」といふは観なり、こころにうかべおもふを観といふ、こころにうかべしるを「知」といふなり。 和讃の文脈からすれば、「信知」というのは、頭で「知る」ことでなく、心で「知る」こと、深く頷く、納得するという意味かと思います。『往生礼賛』の「今信知…」という表現から推せば、「信」から「信知」への発展というより、「今」現在に感得されるというニュアンスですが、私は、文字に即して、「信」のあるところに生ずる「知」と解しています。 ちなみに、妙好人の源左に、こんな言葉があります。「聞いとけよ、聞いとけよ、そのうちに聞いたことがほんまになるでな」。聞いてきたこと、聞法してきたことが、ほんまになる。「信知」というのは、こういうことではないかと思います。 ご納得頂けるかどうか分かりませんが、これにてご返信申し上げます。有り難うございました。合掌
私は昇空様と何度もメールをやりとりさせて頂き、道というものは、やはり最終的には自分と仏様との対話以外にはないのだと思いました。それが、ともすれば解釈の違いなどで異安心などと言われるならば私はそれでもいいとも思います。 私は昇空様がサイトなどで説明されている念仏の説明にどうしても違和感を感じてしまいます。念仏は、私にとってみれば、何分称えるとか、思考を止めるとか、ましてや瞑想行といったものではありません。私は念仏を称えて5年程ですが、念仏は自分が称えるのではなく仏様の呼び声だという事が近頃感得できました。私には5分以上は最低称えようとか10分以上だとかそんな意識もありません。ちゃんと正座なりして称えるぞと気張るものでもありません。 念仏が出た時が仏様から呼ばれた時であり、おまかせの心も私のものではありません。それは深い瞑想状態だから感じるとかそのような事でもありません。何十分も称えなければ深い瞑想状態に到れないというようなものならば、それは親鸞の念仏ではなく、浄土宗の念仏だと思います。何十分称えて思考を止めるというより、仏様に信じられているという事が分かることが信心ではないでしょうか? あるいは、そのようなつもりで説明されていないのかもしれませんが、そのような念仏の説き方は誤解を与えるような気が私は致します。
生意気な事を述べるようですみません。 結局、私は私の道を仏様と対話して歩いて行く。それしか納得のいく道はないという事を紫雲寺様のサイトが教えて下さったような気がします。宗教というのは、つまるところ、私と仏様、あるいは神との対話以外にはあり得ないのでしょうね。
先生の法話で、特に心に残りましたのは、
・大海の島のように浮かぶ、私たちの姿と、水中に一体となっている 私たちの姿 というお話でした。いまなお、このお話が私の中でしっかり整理できているかはともかくといたしまして、そいういうことなんだなあというイメージができ、心の落ち着きを得たように思っております。 いま、こころのなかで、思っておりますことは、信心と念仏の構造です。すなわち、信心正因、報恩念仏の教義のことです。歎異抄には、
第一条「弥陀の本願には、・・・信心を要とすとしるべし」 とかかれており、「救い(安心)」に至る因は、信心であると述べられながら、念仏することが、条件のように書かれているようにも読めるところがあります。 法然上人は、ただ念仏することが「浄土往生」への道だと情熱的に説かれます。そして、ご開山は、自分はただ、法然上人の言葉を取り次いだだけであると申され、法然上人の言葉を否定されません。
私の心の中には、「気づき」が「信心」であり、「救い」であると思うのですが、唯円大覚や法然上人が何故、称名(念仏)を力説されるのか、いまひとつ理解できません。これらの関係をどういただければいいのかと考えあぐねているところです。理解のヒントとなるような、書籍などご紹介いただけないかと思っております。ありがとうございました。(NT 65歳)
往生の正因は、信心か念仏か。これは、言い換えれば、「信か行か」ということになりますでしょうか。まあ、教学的には明確な答えが欲しいところでしょうが、実際には、信のない行もなければ、行のない信もないのではないでしょうか。行は信によって支えられ、信は行によって深められる。「信か行か」という問いは、「左足で歩いているのか、右足で歩いているのか」と問うているようなものではないかと存じます。 ご承知のように、法然上人は、「往生之業、念仏為本」とおっしゃって、ひたすら称名念仏をお勧めになりましたが、それは、阿弥陀仏の本願への信があってこそのことでしょう。「念仏為本」とおっしゃったのは、両足で立ちながらも、右足(行)に重心が置かれていたということではないでしょうか。 その反対に、左足(信)に重心が置かれていれば、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」(『歎異抄』第一条)となるでしょう。これを教学的に捉えて、「信心が往生の正因だ」ということになれば、称える念仏の方は「報恩の念仏」と考えるしかないのでしょうが、「念仏まうさんとおもひたつこころ」というのは、「報恩のこころ」というのとは、ちょっと違うように思いますね。 結局、この「信か行か」という問題は、「他力」に収束されていくようであります。「信」から言えば、こうです。『高僧和讃』には、「信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり」とあり、『歎異抄』(第六条)には、「如来よりたまはりたる信心」という言葉がでてまいります。「信心正因」といっても、「私」に真実の信心はないのです。われらが信心は、如来よりたまわるものであって、真実の信心というは、如来の信のことなのです。つまりは、信心とは、他力の働きそのもののことであって、私たちが「信か行か」と言挙げするような事柄ではないのです。 また、「行」についても、同様です。最晩年の御作『正像末和讃』に、こうあります。「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし」、「信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし」と。「ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし」とか、「称名念仏はげむべし」とかいうと、自力作善の行のようにも思えますが、同じく『正像末和讃』の末尾の「自然法爾章」に、次のように記されております。 「…「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり…」と。 ここに、「南無阿弥陀仏とたのませたまひて」とありますのは、私たちが念仏を称えるのも、他力の働きによるということです。「阿弥陀仏」ではなくて、「南無・阿弥陀仏」と称えるゆえんが、「たのませたまひて」ですが、称名念仏とは、他力の働き(行)そのもののことであって、これまた、私たちが「信か行か」と言挙げするような事柄ではないのです。つまりは、「往生之業、他力為本」、「他力正因」とでも言うべきところであります。 かくして、思いますに、真実の信心も、まことの念仏もない、罪悪深重・煩悩熾盛の私たちにできることは、聞法を重ね、念仏を称える生活のなかで、はからいを手放し、「他力の働く場」になっていくことだけではないでしょうか。他力の働く場となっていくにつれて、いのちの真実への気づきが深まってくる。私たち真宗門徒には、そんな、聞法を重ね、念仏を称える、日常生活こそ、修行の場なのだと思います。 「信なくば つとめて御名を称うべし 御名より開く、信心の花」という道歌もありますが、行は大事です。悲しいときも、苦しいときも、お念仏を称える。「そんな念仏は、自力の念仏ではないか」と思われるかもしれませんが、昔から、「自力・他力は初心のうち」と言われているように、自力も他力もなくて、ぜんぶ他力なのです。念仏詩人の木村無相さんの詩にも、こんな言葉があります。「…自力の念仏 そのまんま 他力とわかる ときがくる…」(念仏そのまま『念仏詩抄』)。自力・他力はひとまずおいて、まずは、お念仏を称えることが大事ではないでしょうか。 「信心と念仏の構造について、理解のヒントとなるような書籍などはないか」と、お尋ねですが、そのままに「信心と念仏」というタイトルの書籍がありました。瓜生津隆真著『信心と念仏』(新装版、1990年、弥生書房)です。真宗入門のエッセーのような本ですから、読みやすいかと思います。ただ、ちょっと古い本ですので、出版元の弥生書房でしか扱っていないようです。Amazon.co.jpで検索なさってみてください。
以上、ご納得いただけるかどうか分かりませんけれど、これにて、ご返信申し上げます。有り難うございました。合掌
我々を救済するすべてが如来により用意されており、我々はただそれに気づかせて頂くだけであり、それゆえ、「行も信」も我々が言挙げすることではない。我々、真宗門徒は、聞法を重ね、念仏を称え、日常生活を修業の場として生きていくことである、という先生のご意見に全く同感いたします。 本派では、ご存知のように「安心論題」という形で、教義の確認があり、これにより、親鸞聖人の教えを学んでいくということになっております。不可思議、不可称な人智をこえた無限なものの真実を、親鸞聖人の教えを基礎にして、人間の言葉で表わされたものを、未熟な私が読むところから、「論題」の解釈は非常に理解しづらいものであります。それ故、私に混乱が生じ、先生に質問させていただいた次第であります。 自力・他力はひとまずおいて、お念仏を称えることが大事であるというご教導、誠にありがとうございました。一途に、この道を歩んで生きたいと思っております。 ご推薦いただきました瓜生津隆真著『信心と念仏』は幸いにも入手できそうです。拝読させていただき、又、お便りをさせていただきたいと思っております。ありがとうございました。NT
又、その中の以下の部分が理解できないので、ご教示戴ければと思い、メールしました。・・・概略で結構ですので・・・唯識仏教のことも良くわかりませんが、概念だけでもご教示戴ければと存じます。 私事ですが、昨年、10月25日に45歳の長男を交通事故で亡くし(即死状態)、現在、1年間の供養中の状態ですので、よろしく、お願い致します。もうすぐ、一周忌法要ですので参加者に聞いて戴く予定ですし、「生れ代わり信仰」も微かに信じたい気持です。 <意味が理解できないのは以下の部分です:添付された絵の赤字部分>
●私たちの自我の核である「マナ識」は外界の「五感」と「意識」入って来る、膨大な刺激に振り回されているから「マナ識」の目は上を向いております。
お尋ね頂きましたことへのご返信は、勝手ながら、もうしばらくお時間を頂戴いたしたく存じます。ご注文頂きました法話CD(第4話「死ねば終わりか」)は、本日、クロネコメール便にて発送させて頂きます。遅くなりましたので、お詫びのかわりと申しますのもご無礼ですが、お代は結構でございます。お暇な折りにお聞き頂ければ、幸甚に存じます。
後日、改めまして、メールを差し上げます。ご寛容のほど、お願い申し上げます。合掌
先日お送り申し上げました法話CDは、お聞き頂きましたでしょうか。ご質問を頂きましたので、改めて、ホームページ掲載の法話、第4話「死ねば終わりか」を読み直してみました。「理解できない」とお尋ねいただきましたのは、「心のモデル」に関する箇所でございました。 この「心のモデル」は、「いのちの全体像」とも言える便利な図形ではございますが、これは、ひとつの「たとえ話」でございまして、心であれ、いのちであれ、こんな形をしているということではございません。このモデルを使わずにお話いたしますと、こういうことでございます。 目を開けて、外の世界を見ていると、他人とは違う自分が意識されますから、他の誰よりも我が身がかわいいというこころが働きます。ですが、瞑想で、目を閉じて、何も考えずに意識を内に向けていると、自分も他人もない、本来の「いのち」に気づくようになっていく。ごくごく大まかに申しますと、そういうことでございます。 私たちは、死んでも終わらない。この世の縁が尽きれば、本来の「いのち」の世界(浄土)へと帰って行く。私たちは、浄土から生まれてきて、またその浄土へと帰って行くのです。浄土は、私たちの「いのちの故郷(ふるさと)」です。そのことを教えてくださっているのが、浄土の教え、お念仏の教えです。
お時間がおありのおりに、他の法話もご覧いただければ、幸甚に存じます。それでは、これにてご返信申し上げます。有り難うございました。合掌
日本において「信仰」という言葉は明治時代に聖書の翻訳語として造られた言葉ではなく、元々は仏教用語であり、梵語かパーリー語かは知りませんがインド仏典の「サッダ」(saddha)あたりの訳語として生れた言葉のようですね。「信仰・信向」と書いて、古くは「シンゴウ」と発音したとか・・・。 微和尚の観機あきらかなることを信仰すべし【正法眼蔵 1231〜53】 訳語でしょうが、中国で造られたのか日本で造られたのかはわかりませんが、どうなのでしょう? そして教えて頂きたいのは日本語としての元々の意味が果して文字の通り「信じ仰ぐ」だったのかということです。 「信」はまごころを指す言葉だったともききました。また、「信仰」という言葉の元々の意味は悟りの前段階的心の清浄化作用であり「浄信」(パサダpasada〕)としての意味が強かったとも聞きました。加藤智見著『他力信仰の本質− 親鸞・蓮如・満之』〔国書刊行会〕でもそのような解説がなされていたように記憶しています。 少なくとも元々の意味は、阿弥陀如来といった人格的対象を信じ仰ぐという対他的意味ではなく、むしろ対自的に己の内面を澄明にするといった意味だったようで、阿含経において「信」が「信仰」的意味を持たず、むしろ「信」は副次的なもの、捨てるべきものとしての性格を持つことは禅宗関連の言葉をみても察せられます。 しかしそれなら何故、日本の古い仏教の言葉として「信」のみならず「仰」を加えた「信仰」という言葉があるのでしょうか? 「信じ仰ぐ」という意味なら対象との関係が前提であり、悟りの前段階の内面浄化とは意味が違います。 もし「信仰」という日本語の元々の意味が、何らかの対象を「信じ仰ぐ」という意味ではなく別の意味だったとすれば、それはどういう意味なのでしょうか? やはり何らかの対象(仏しか考えられませんが)を崇敬する対他的意識なしに「信仰」という言葉が大乗仏教において日本語として生じたとは思えません。 しかし加藤氏などの解説を参考にする限り、浄土仏教、特に浄土真宗でいわれる「信仰」の意味とは本来違う意味が、この「信仰」という言葉の原意であったようです。対他的意味ではなく対自的意味のようですね。この「仰(ぐ)」の字に表わされた意味は何だったのでしょうか?
私が申している内容に誤解曲解があると思いますので、その点もご指摘下さり、「信仰」の元々の意味につきまして正解をよろしくお教え願います。(M)
(1)「信仰」という言葉は、中国でつくられたのか、日本でつくられたのか、ということについて。 とすれば、問題の「信仰」という言葉は、中国でつくられたものということになるかと思われますが、そうなると、「信仰」という言葉の、日本語としての元々の意味というものは考えにくいということになりませんでしょうか。ちなみに、「信仰」は「信向」とも書かれますが、「信向」は『漢書』(西暦1世紀後半頃)にも出ておりますので、こちらの方が古い形かと思われます。
(2)「信仰」を訳語とする言葉について。 また、中村元著『仏教語大辞典』の「信」の項のなかに、こういう記述があります。「(4) 信仰した結果、心が澄んで清らかになること。心の清らかさ。心を澄んだ清らかなものにする精神作用。P.パサーダ」と。 パサーダはパーリ語です。サンスクリット語ならプラサーダです。「信仰」という言葉が、このパサーダの訳語として用いられている場合には、確かに、清浄化作用という意味に解せると思いますが、それが、「信仰」という言葉の元々の意味だったかどうかは、にわかには決めがたいことかと思います。(加藤智見著『他力信仰の本質』は未見ですので、誤解があればご容赦ください。) かくして、「信仰」の元々の意味は何かというお尋ねに「正解」は差し上げられないようでございますが、ちなみに申し上げれば、仏教、とくに浄土真宗では、信仰という言葉はあまり用いず、信心と申します。(実際、大派の学者、多屋頼俊・横超慧日・舟橋一哉編の法蔵館版『新版・仏教学辞典』には、「信仰」という項目もありません。)また、浄土真宗では、本当のところは、人格的対象を信じ仰いでいるわけではございません。そのあたりのことにご関心がおありでしたら、親鸞聖人の『正像末和讃』の末尾にある「自然法爾章」などをご覧いただき、ご賢察くださいますようお願いいたします。 以上、さほどお役にも立てず、申し訳ございません。こういった学問的な問題は、専門の学者にお尋ねになるか、こつこつとご自身でお調べになった方が、よろしいかと存じます。ご研鑽、ご精進を念じ上げます。有り難うございました。合掌
先日こちらのホームページと出会いまして法話をプリントさせていただき、毎日読んでいます。繰り返し読んでいますと、色々な気付きがあります。それでも、分からないことも多く、何度質問のメールをしようと思ったことか・・・でも不思議と、次の法話を読むと解決される。ですから、法話を読むのがとても楽しみです。
特別何かお伝えしたかったわけではないのですがただお礼を言いたかったのです。とても勉強されていて、素晴らしい法話だと思います。これからも楽しみにしています。ありがとうございます。MG
|