お便り&お返事 (2012年)


この「お便りのコーナー」は、平成24年3月20日に終了いたしました。
これまで多くのご縁を頂きましたこと、こころより御礼申し上げます。
有り難うございました。合掌


あなたの心に平安が訪れますように。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏



(● 終了のご案内が遅れましたので、以下のお二方にだけご返信申し上げます。)



教えてください 2012年3月21日(水)
 始めてお便りいたします。69歳の父親です。浄土真宗を学んでいます。仏教のキーワードは「自分を知る」ということに、最近になってわかるような気がしてきた段階です。

 しかし、宿業のことに突き当たる度に嫌気がしてしまいます。私は、次男の左目が見えないことが不憫でなりません。子どもを失って嘆く母親キサーゴータミを、お釈迦様がケシの実のたとえで救ったというお経を学びました。私の場合、死んではいませんが不具の子をもつ悩みも深いし、世の中にそういう親も多いと思います。それなのに、題材として、このような悩みを如何にして乗り越えたか、または、どのようにして指導したかというような説法を見、聞きしたことがありません。

 ただ阿弥陀仏の救いは平等だとあるだけだと思い、愚痴が出ます。私にも「ケシの実」のような、教えがありましたなら教えてください。または、釈昇空様の御説法を願いいたします。「自分を知る」ことの延長上に、安心を得られますでしょうか。K



二文字か、六文字か教えてください。 2012年3月27日(火)
 釈昇空法話集ありがたくいただいています。ようやく第1,2,3,と第9話を読みました。そして、念仏を称えても救われた思いがしなかった理由がわかりました。いままで私が念仏行だと思っていたのは、実は「おねだりの念仏」であったことに気づきました。

 第2話にあります「念仏行のコツ」を読み返しながら、一本5分のローソクを灯して本物の念仏行をスタートしました。まだ長いローソクは無理です。

 一つお聞きします。第2話の「コツ」のところで、「ナム、ナム、ナム、ナム・・・・」と称える。とありますが、「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ・・・」と六文字で称えるとダメでしょうか。よろしくお願いいたします。



K様へ
Re: 教えてください 2012年3月27日(火)
 メールを拝受いたしました。紫雲寺のホームページにお立ち寄りくださり、有り難うございます。ご返信が遅くなり、大変失礼いたしました。

 ご子息の左のお目がご不自由との由、さぞお心にかかってこられたことと拝察申し上げます。「『自分を知る』ことの延長上に、安心を得られるか」とお尋ねを頂きましたので、思いますところを簡略にお応え申し上げます。

 「自分を知る」ということでございますが、少しお考えになってみて頂きたいのです。貴方様は、ご子息のことを「不憫」(不幸)だと思い続けてこられた。とするとです、子供は、親の目を通して、自分を評価するものですから、おそらくは、ご子息も、ご自分のことを「不幸」だと思っていらっしゃるのではないでしょうか。

 「先生、見えんのは不自由やぜ。でも僕なあ、不幸やと思うたこと一遍もありゃせん。先生、不自由と不幸は違うんやな」(東井義雄『喜びの種をまこう』柏樹社刊より)。こう語ったのは、神戸の盲学校の六年生だそうです。親御さんが、不自由を不自由として、それを乗り越えていく喜びを教えられたのでしょうね。

 貴方様が、ご子息のことを「不憫」(不幸)だと思い続けてこられたことは、はたして、ご子息の人生を支える力になったのでしょうか。ことさらどなたを咎めるわけでもございませんが、「自分を知る」ということは、そういうことでございます。

 自分が分かると、自分が変わる。自分が変わると、世界が変わる。「宿業」という言葉も、まずは、「人はみな違うのだということを、きっちり受け止めて、そこから人生をスタートすることなのだ」という程度にお考え頂ければと思います。ご賢察をお願いいたします。

 なお、思うところがございまして、メールでのお問い合わせにお応えする「お便りのコーナー」は、本年3月20日に終了いたしました。そのことをホームページでご案内いたしますのが遅れましたので、今回は、ご返信申し上げることにいたしました。お返事を差し上げますのも、これが最後となりますが、どうぞ、ご法義お大切に、ご精進ください。お尋ねを頂き、有り難うございました。合掌

 追伸:27日付けメールでお尋ね頂きました件でございますが、「ナムアミダブツ」の方が称えやすいということでしたら、「ナムアミダブツ」で結構でございます。どうぞ、静かな時間を楽しむおつもりで、お続けください。




質問 2012年3月25日(日)
 いつもホームページ拝見しております。栃木県のHと申します。

 質問があります。昇空様は、よく法話の中で、人生は自分に必要なことが起こってくるとおっしゃいます。例えばですが、昇空様のご家族が、自分の目の前で突然ライフルか何かで撃ち殺されたとしても、人生は必要なことが起こる、阿弥陀様のお与えと受け止められますか? 相手を憎まずにいられますか?

 あと違う例えですが、船に乗っていてその船が沈没しそうになっていたとします。救命ボートに乗れるのはあと一人。船に残っているのが自分ともう一人あかの他人だとしたら、どうしますか?



栃木のH様へ
Re: 質問 2012年3月27日(火)
 メールを拝受いたしました。紫雲寺のホームページにご関心をお寄せくださり、有り難うございます。ご返信が遅くなり、大変失礼いたしました。

 「こんなとき、仏教では、どうしろと言っているか、あなたなら、どうするか」といったお尋ねを、ときどき頂きますが、仏教は、倫理でも道徳でも、人生のマニュアルでもありませんので、何ともお応えいたしかねます。

 妙好人の源左さんの、こんな話を聞いたことがあります。ある人が、「村の者がお爺さんを妙好人伝に載せるというがのう」と言うと、源左さんは、「いやいや待ってつかんせい、死ぬるまでは何をするか分からんでのう」と応えた。

 「何が起こるか分からないのが世の中。何をしでかすか分からないのが自分」(伝聞)。「さるべき業縁の催せば、いかなる振舞いもすべし」(『歎異抄』)

 何かが起こったときに、どうするかは、実は、そのときまで分からないものでしょうね。そのときに頂いている、気づきの深まり具合に応じて、自ずとすることが決まるのでしょう。

 私たちは、たいてい、「こんなときには、どうするのか、あんなときには、どうするのか」と、頭のなかの運動会に忙しく、人生を終えていくのかもしれませんが、どうかと思いますね。人生にシミュレーションなんかありません。人生は、つねに本番です。

 「人生を、やりなおすことはできないが、見直すことはできる」とおっしゃったのは、どなたでしたかね。「人生には、自分が必要とすることではなく、自分に必要なことが起こってくる」というのは、いのちの真実への気づきが深まって、人生を見直すときのことです。はたしてご納得頂けるかどうか分かりませんけれど、これにてご返信申し上げます。

 なお、思うところがございまして、メールでのお問い合わせにお応えする「お便りのコーナー」は、本年3月20日に終了いたしました。そのことをホームページでご案内いたしますのが遅れましたので、今回は、ご返信申し上げることにいたしました。お返事を差し上げますのも、これが最後となりますが、どうぞ、ご法義お大切に、ご精進ください。ご縁を頂き、有り難うございました。合掌






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