お便り&お返事 (1998年)

更新:1998年12月1日



はじめておたよりします 1998年1月17日(日)
 いきなりのメール、ご無礼をお許しください。ホームページ拝見いたしました。たいへん興味深いもので、このページを読むことができたことにとても感謝します。
 私は都内に勤務する(生まれ育ちは京都です)、一般人(いわゆる仏教徒と呼ばれる枠には入っていません)です。私はひょんなきっかけで、仏教を聞く会に参加し、仏教にたいへん強い興味を持ちました。(その会では、T先生という方がお話ししてらっしゃいました。)お話しによると、親鸞は「煩悩が私たちの心を惑わす。煩悩をなくせ」という教えを受けられ、比叡山で厳しい修行をなされましたが、煩悩はなくならず、血と涙を流しながら山を下り、ある人に出会って悟りを開かれた、というお話しで、「煩悩はなくならない。煩悩そのものが私たちであるから。」とお話しされていました。しかし、あなた様のページの仏陀の教えは「煩悩をなくすこと」でしたよね。
 その会に私を連れて行ってくれた方に、「悟りを開いても煩悩はのこるのか」という質問をしたところ、「残る」と答え、「じゃあ、どんなに欲をだしてもいいの?」ときくと、「いい」と答えました。??? 考えてみれば、悟りを開きたい、ありのままの世界をみたい、と思ったりするのは「欲」には入らないんでしょうか? はたして、煩悩をなくすことはできるのでしょうか。それとも、仏陀のいう煩悩と、私たちのいう煩悩は別のものなのでしょうか。
 たいへん稚拙、かつ、仏教用語もろくに知らないので、たいへん無礼にあたることを書いていたなら、どうぞお許しください。MK(東京都)



東京のMK様へ
Re:はじめておたよりします 1998年1月18日(日)
 拝復 お便り、拝受いたしました。紫雲寺のホームページにご関心をお寄せ頂き、有り難く存じます。ご質問を頂戴いたしましたので、私の分かる範囲で、お応えしたいと思います。
 さて、「悟りを開いても煩悩は残るのか」というお尋ねですが、煩悩を根絶することが、悟りを開くということの本来の意味ですから、当然ながら、悟りを開けば煩悩は残っていないことになります。
 私の知る限り、仏陀釈尊は自ら「悟った」とおっしゃっていますが、親鸞聖人は自ら「悟った」とはおっしゃっていません。また、親鸞聖人のおっしゃる「煩悩」には罪悪感が色濃く結びついていますが、仏陀の「煩悩」には悟りへの障碍という意味しかないように思います。
 「悟り」とは何か、また「煩悩」とは何かということも大きな問題ですが、ひとまずは近似値として、「悟り」とは「本当の自分になること」、「煩悩」とは「エゴのこと」だと考えておきましょう。
 では、「エゴ」を根絶して「本当の自分」になることは可能でしょうか。釈尊は、縁のある人には可能だとおっしゃいましたが、法然上人や親鸞聖人は、自分にはできないとおっしゃっています。
 では、親鸞聖人は「本当の自分」にはなれなかったのかと言えば、おそらく、そうではないでしょう。聖人は、ご自分の心を支配している「エゴ」を見つめ続けることで、その奥に光り輝く「本当の自分」(如来)に気づき続けていかれた方だったと、私は思います。「エゴ」を根絶することはできなくとも、「エゴ」の霞のかなたに見え隠れする「本当の自分」(如来)に気づき続けていくこと。それが、真宗の教えではないでしょうか。
 さて次に、「悟りを開きたい、ありのままの世界をみたい、と思ったりするのも欲(「煩悩」)か」というご質問ですが、たしかに、そういう欲求が「エゴ」から生まれていることもありますでしょうね。ですが、たとえそれが「エゴ」から生まれた欲求であろうとも、私は「聖なる欲求」だと思っています。
 「悟りを開きたい」という言葉の本当の意味は「エゴを根絶したい」ということです。ですから、もしもそれが「エゴ」に発する願いであったとしても、その願いが成就したときには、結果的に「エゴ」の要素は脱落しているはずです。それがたとえ「エゴ」にとっては予想外のことであってもです。
 世界の不幸は私の「エゴ」から生まれているのです。ですから、私の「エゴ」を根絶するということは、世界に本当の幸せをもたらすということです。仏教的な言葉で言えば、世界を浄土とすることです。とすれば、それはやはり「聖なる欲求」と言うべきものでしょう。
 「聖なる欲求」には真剣に向き合わねばなりません。深刻にはならず、どこまでも真剣に。深刻になれば「エゴ」が肥大化し、ファナティックになっていくこともあるようですから。
 ご質問に適切にお応えできたかどうか、いささか心許ない気もいたします。どうぞ、また、ご感想などお聞かせくださいませ。合掌




貴HPへのリンク願い 1998年1月22日(木)
 紫雲寺様 初めまして、福井の浄土真宗本願寺派末寺で坊守をさせていただいておりますgoshinことHUと申します。
 突然メールを差し上げるご無礼をお許し下さいませ。貴HPにリンクを張らせていただきたく、ご許可下さいますようお願い申し上げる次第です。
 貴HPの「心の青年への手紙」はプリントアウトさせていただいて何度も拝見させていただいております。miteneというプロバイダにある越前の林遊さんのHPからリンクさせていただき、メールのページで林遊さんとのやり取りなども拝見させていただいたことがあります。
 私のHPは林遊さんお墨付きの??情けないHPですが、この度少し思うところがありまして、殆どのページに手を加え、「大悲無倦常照我」というコーナーに「一生涯聞法」というページを作らせていただきました。これは、私自身の為に作らせていただきました。
 そこでは、HPに掲載されているご法話、講話、講義録等の紹介をさせていただきたいと思っております。各HP毎1ページを使って、掲載されているご法話、講話、講義録等の目次を紹介し、リンクできるようにしたいと思っております。まだ、工事中ですが、目次の掲載も含めて、リンクの許可を頂けませんでしょうか? 勿論、リンクは表紙一カ所へのみ張らせて頂きます。
 もし、お時間がとれましたら、一度覗いていただけると、嬉しいのですが、表紙の what's new? から、「大悲無倦常照我」に行っていただき、そこの「一生涯聞法」です。林遊さんお墨付き云々については,、「大悲無倦常照我」の「はじめに」に書いてあります。宜しくお願い申し上げます。合掌。goshin



福井の goshin 様へ
お便り拝受 1998年1月23日(金)
 拝復 お便り、拝受いたしました。紫雲寺のホームページにご関心をお寄せ頂き、有り難く存じます。また、リンクのお申し出、有り難く存じます。紫雲寺のホームページは、いささか面白味に欠けるかとは存じますが、宜しければどうぞご随意にリンクをお張りくださいませ。
 ご案内により、早速、貴寺のホームページ「自分さがしの仏教入門」を拝見いたしました。訪問者カウンターの005400前後の数人は、私と家内でございます。たいそう盛り沢山な内容の上に英語のヴァージョンまであり、ページの維持に相当なエネルギーが注がれているものと拝察いたします。また、寺子屋教室など、貴寺院での様々なご活動の充実ぶりにも感嘆いたしております。いっそうのご活躍を念じ上げますとともに、今後とも宜しくご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。合掌

 追伸 お便りにあります林遊さんとおっしゃるのは、どのような方でいらっしゃいますか。私には、林遊さんとメールを交換したという記憶がございません。

答礼リンク: 「自分さがしの仏教入門」



リンクご許可御礼 1998年1月23日(金)
 紫雲寺ご住職 伴戸昇空様 突然の不躾なお願いに対し、早速にご丁寧なご返信を賜り有り難く御礼申し上げます。リンクのご許可をいただき、その上、坊守様ともども当HPを御訪問下さった由、有り難うございます。
 HPは、どんなに隠しても制作者の人間性が必ず現れてくると存じます。私のHPを「盛り沢山な内容・・」と仰有って下さいますが、私同様「かっこ」だけで軽薄、内容はありません。「いささか面白味に欠けるかとは存じますが」と貴HPのことをご謙遜されますが、「盛り沢山の内容」とは貴HPのご法話であり、本当の「面白味」とは、このご法話の数々だと存じます。私のほうは、内容がないので、他の方の素晴らしいHPへのリンクに、つい力が入ってしますのです。申し訳ありません。
 ただ、「はじめに」でも書かせていただいておりますとおり、自分が10代から20代にかけて「なんの為に生きているのか」「生きている値打ちのない人間ではないか」を問い続け、それに初めて答えて下さった親鸞聖人のみ教えを、同じように悩んでいる若い方々に知っていただきたい一心で、作って参りました。
 そちらの、お便りのコーナーに掲載されている最低山「極悪寺」は、私がインターネットに接続して初めて訪れたHPです。あのHPをみて、自分もこのようなHPを作りたい・・と思いました。
 ところが、あんまり一生懸命になっているうちに、本を読む自分が、いつもHP作成のネタさがし!?をしているのに、気付かされました。自分をどこかよそに置いて、本を読んでいることに愕然としました。それで、これからは、訪れて下さる若い方と共に自分を学んでいけるHPにしたいと「一生涯聞法」のコーナーを作らせていただ次第です。
 前後しましたが、追伸でお尋ねの「林遊さん」ですが、貴HPで確認しましたところ、私の早とちりのようです。1997年10月27日付けの福井のKS様とのやりとりに「mitene」というプロバイダ名が出てきたので、真宗→mitene→HP「阿弥陀さまとごいっしょです」→その制作者「林遊さん」と思いこんでしまったみたいです。本名はM様とおっしゃるのでKS様じゃありませんものね。リンクも、もしかしたら、上記「極悪寺」HPからかも知れません。ごめんなさい、失礼を申し上げました。
 どうか、これからも宜しくご指導下さいますよう、こころからお願い申し上げます。坊守様にもくれぐれも宜しくお伝え下さいませ。有り難うございました。合掌 HU




リンクのお願い 1998年3月15日(日)
 紫雲寺様 「京都の雅」というホームページを開設している近藤と申します。私のホームページでは、地元である清水寺・茶わん坂を紹介しています。
 「京都観光にやくだつリンク」としていろいろなホームページを集めています。紫雲寺のホームページにリンクを貼らせていただきました。よろしくご了承ください。

 発信者:近藤雅子(Masako Kondo)
 E-MAIL: masako01@mbox.kyoto-inet.or.jp
 URL : http://web.kyoto-inet.or.jp/people/masako01



近藤雅子様へ
Re:リンクのお願い 1998年3月23日(月)
 拝復 お返事が遅くなり、申し訳ございません。リンクのお申し出、有り難く存じます。今後とも宜しくお願い申し上げます。合掌




福井の goshin 様へ
更新のご案内 1998年3月28日(土)
 拝啓 ご無沙汰いたしております。お元気でお過ごしでしょうか。
 本日、「釋昇空法話集」のコーナーを更新し、第12話「念仏に生きる」を掲載いたしました。また、各コーナーに最終更新日を記載することにいたしましたので、併せてご案内申し上げます。お暇なおりにでもご覧頂ければ有り難く存じます。また、ご感想などお聞かせくださいませ。合掌



Re:更新のご案内 1998年3月28日(土)
 伴戸昇空様 こんばんは! こちらこそご無沙汰ばかりで申し訳ございません。おかげさまで元気に過ごさせていただいております。
 本日は、更新の御案内をいただき、有り難うございました。1日と15日の更新前後に一生涯聞法にリンクを張らしていただいているHPの更新を確認させていただいていますが、なかなか行き届きません。更新の御案内のいただき、有り難く、心より御礼申し上げます。
 すぐに当方のHPに更新の案内をと思うのですが、4月1日の更新ためにHDの中のトップページやwhat'new をいじってしまったので、ひとまず一生涯聞法のページだけを更新させていただきました。30日中にきちんとしますので、どうかお許し下さい。
 先生のご法話はすべてプリントアウトさせていただき、住職ともども拝読させていただいております。斬新で、ダイナミックな力強いご法話に驚きました。幅広く豊富な読書量、深い緻密な論理の積み重ねなど、敬服いたしております。
 第12話「念仏に生きる」はこれからプリントアウトさせていただきます。どんなお話をお聞かせいただけるのか、楽しみです。ありがとうございました。
 4月1日の更新ためにHDの中のトップページやwhat'new をいじってしまったので、ひとまず一生涯聞法のページだけを更新させていただきました。30日中にきちんとしますので、どうかお許し下さい。
 どうかお大切にお過ごし下さいませ。合掌 HU拝




珍宝院釋法伝様へ
更新のご案内 1998年3月28日(土)
 拝啓 ご無沙汰いたしております。お元気でお過ごしでしょうか。
 本日、「釋昇空法話集」のコーナーを更新し、第12話「念仏に生きる」を掲載いたしました。また、各コーナーに最終更新日を記載することにいたしましたので、併せてご案内申し上げます。お暇なおりにでもご覧頂ければ有り難く存じます。また、ご感想などお聞かせくださいませ。合掌



Re:更新のご案内 1998年3月30日(月)
 拝復 新しい法話、読ませていただきました。更新のお知らせ、ありがとうございました。さて、法話を読ませていただいて、以前から気になっていたことを、少々。
 法話の内容については、リンクを張らせていただくぐらいですから、全く異論はございません。むしろ、現代人に受け入れられるように数々の工夫をされておられるご様子に、感服しております。(実は、全ての真宗サイトに目を通して、優れたものだけをリンクしております。)
 ただ、実際にお同行に聞いていただく場合と、ホームページ上に原稿として掲載する場合とでは、文章の形式を変える方が良いのではないかと愚考いたします。
 実際の法話は、一回限り、時系列にしたがってシーケンシャルに流れていくものですから、聞き手は、耳に入ってくる言葉を適当に拾いながら、何となく話の内容を受け入れます。他方、文字原稿は、一応、文頭から文末へ向けて読みますが、読み手は、途中で戻ることも拾い読みすることも可能です。したがって、文字原稿の場合は、全体の構成を明確にして、文章の構造を判りやすくする方が良いのではないかと思います。具体的には、各パラグラフを「章」「節」などに再構成する方が読みやすいと思うのです。
 否、原稿をそのまま音声ファイルにして、リアルオーディオで聞いてもらうのが、現在の法話の味をそのまま表現するには、一番良いのかもしれません。
 以上、読ませていただきながら、気づいたことを書かせていただきました。今後とも、ご法話を楽しみにしております。
   最低山極悪寺 住職 珍宝院釈法伝



珍宝院釋法伝様へ
お便りに感謝 1998年3月30日(月)
 拝復 ご丁寧なお便りを頂き、有り難く存じております。ご指摘を賜りました点について、ご返答申し上げます。
 (1)「法話」を読み物として再構成するようにとのご指摘に関して:
 ご指摘の通り、講演の筆録のようなものは、読み物としては問題があるかと存じます。ただ、私といたしましては、何となく法座の雰囲気のようなものが伝えられたら有り難いと存じておりますのと、この、遊びの多いハンドルのような文章運びが、私の生理的なテンポでもありますので、どうかご寛容をお願いいたしたく存じます。
 (2)「法話」をリアルオーディオ化するようにとのご指摘に関して:
 これまた、ご指摘の通りかと存じます。私も、ホームページを開設するおりに検討いたましたが、ご承知のような貧乏寺では経済的に困難かと存じ、只今のところリアルオーディオ化の計画はございません。
 と申しますのは、たとえば今回の法話(67分)を音声ファイルにいたしますと、85 MB ( Monoral, Sampling rate 22.050 kHz, Sampling size 8 bit, 非圧縮 ) にもなり、これをストックするには自前のサーバーが必要になってまいります。ただ、いずれリアルオーディオででも提供できるようにと、第1話から全て音声ファイル化してMOにストックいたしております。そんな日が来ましたら、また改めてご案内申し上げますので、当分、ご容赦をお願い申し上げます。
 今後とも、宜しくお願い申し上げます。合掌



RE:お便りに感謝 1998年3月31日(火)
 思いつくままを書き並べたのみにもかかわらず、ご丁寧なる返書、誠にありがとうございます。
 文体については、その人の持ち味というものがありますので、ぜひ、今のままお続け下さい。私自身は、逆立ちしても、昇空師のような緩やかな文章は書けません。したがって、「読みにくい」となるのでしょう。それでも、楽しみに読ませていただいてはおります。まあ、そういう人間もいるという程度にご了解下さい。
 リアルオーディオ化すると、それほどの巨大ファイルになるのですね。しかし、惜しい。貧乏寺の悲哀は、昇空師以上に存じておりますので、無理は申しません。楽しみに待たせていただきます。今後ともよろしくお願い致します。
  最低山極悪寺 住職 珍宝院釈法伝





東京のMK様へ
更新のご案内 1998年3月28日(土)
 拝啓 ご無沙汰いたしております。お元気でお過ごしでしょうか。
 本日、「釋昇空法話集」のコーナーを更新し、第12話「念仏に生きる」を掲載いたしましたので、ご案内申し上げます。以前お尋ねいただいたことへのご返事になるような内容かと存じますので、お暇なおりにでもご覧頂ければ有り難く存じます。また、ご感想などお聞かせくださいませ。合掌



つれづれなるお手紙 1998年4月7日(火)
 伴戸 昇空 様へ (今回は気楽に思ったことをだらだら書いているので軽く読み流してくださいね。)仏教ってすばらしい。こう思う私は変わってるんでしょうか? 同じ年代の子とかに「最近仏教に興味があって・・」とかいう話をすると、きまって「ふ〜ん」「結局、宗教でしょ」みたいな反応です。しかし、なぜか私は仏教の思想に強くひかれるのです。
 少し前に読んだスピノザについて書かれた本にも似たような思想がありました。「人間に自由な精神はない。人が自由だと思うのは、投げられて飛んでいる石が自分の意思で飛んでいる、と思うようなものだ。しかし、すべては必然として起こるのだ、ということを理解すれば人間はもっと自由になれる」。
 心理学についての本や、他の本にも、「無意識下では、生と死の区別が難しい。また、あなたとわたしの区別も難しい」「私たちの個性は大きな海に浮かぶ小さなさざ波のようなものだ。あなたはとてつもなくおおきなつらなりのなかにいる」。
 ある物語から、「自然がきみの思いを思っている、自然がきみのなかで動いている」「わたしだった時、神はいなかった。今は神がいて、わたしはいない」。本当に、何を読んでも同じ様なことが何度も出で来るのには驚かされますよね。
 結局、すべての学問は同じひとつのことを教えてるのかもしれませんね。心理学も、哲学も、歴史も、科学も、物理学も、数学も、芸術も、経済学も。わたしにはまだ、知識としてしか触れることしかできないのですが・・。
 自分のことだけ考えて生きるわけにもいきませんよね。あなたのホームページに書いてあった、外国のかたで事故で体が不自由になり、長い遺書を残して自殺した、というかたの事を考えていましたが、もしそれが自分ならどうだろうかと。「ああ、また今日もあいつの世話だ、あいつのわがままにつきあいながら、今日も私の一日が潰されるんだ」「あいつさえいなければ。いっそのこと死んでくれれば」という視線や感情を毎日浴びながら、それでも生きていけるのかどうか。命の大切さに気付いていけるのか。「世話してやっている」という態度の人達に何を伝えられるのか。それは「世話してやっている」態度の人自身が考え方を変えない限り何も伝わらないものなんでしょうか? 世話してもらっている立場で、「それがあなたの煩悩ですよ」もないですよね。
 このあいだ、電車の中で、わりと空いていたので座っていました。次の駅でけっこう人が乗ってきて、荷物をたくさん持って汗をかいているおばさんが目の前にきました。席を譲ろうとして、はっと考えました。「これが煩悩か?」 良いことをしよう、褒めてもらいたい、という自我じゃないのか? 何をどうしていいのかわからなくなり、ただ呆然と汗をかいたおばさんをみつめていました。前にあなたがおっしゃってたように、煩悩にも良い、悪いがあるのでしょうか?
 あとひとつ、質問があるのですが、あなたの法話集の中で、修行には二通りあって、「ひとつは瞑想をすること、もうひとつは薬物を使用すること」とありましたが、薬物とはどういうものですか?
 話がとんだり、文章がぜんぜんまとまっていなくてすいません。MK



東京のMK様へ
Re:つれづれなるお手紙 1998年4月7日(月)
 拝復 お便りを頂戴し、有り難く存じます。
 さて、私の分かる範囲で、ご質問にお応えしたいと思います。

(1)仏教と人生について:
 宗教は、倫理や道徳ではありません。また、宗教は、権威ではあっても、権力ではないものです。ところが、歴史的に見れば、教団宗教はまさにその反対の道を歩いてきました。つまり、教えを倫理や道徳のレベルでとらえて人々の日常生活を支配し、世俗の権力に酔いしれてきたのです。あなたのお友達が、「結局は、宗教でしょ」という反応をなさるのは、そういった教団宗教への不信からだろうと思います。おそらく、本当に宗教を理解なさってのことではないでしょう。
 仏教は、生活の技術ではありませんから、仏教がなければ生活できないというものではありません。仏教は、特殊な能力のある人間になるための教えではなく、心安らかな「本当の自分」に戻るための教えなのです。つまりは、仏教を学んだからといって、経済的に豊かになるとか、社会的に有名になるとかいったものではないわけです。ですから、本当の仏教は(本当の宗教というものはみなそうでしょうけれど)、「現実的」な利益を追求している人々には無縁のものです。
 現代社会に生きる私たちは、「目に見えるものが全てだ」「生まれてきたのは偶然で、死ねば終わりだ」と考えています。ですが、もしも、「目に見えるものが全てだ」「生まれてきたのは偶然で、死ねば終わりだ」というのなら、そんな陽炎のような人生には、「もともと意味も目的もない」ということになってまいります。
 実際、現代社会では、そう考えられていますね。「人生には、ものもと意味や目的があるわけではない。だから、私たちは、自分で、人生の意味や目的を見つけだしていかねばならない」。私たちは、たいてい、そんなふうに考えているのです。
 しかし、仏教では、こう教えています。「人生には、意味も目的もある。あなたが生まれてきたのは、本当の自分(「仏」)になるためだ。それが、あなたの人生の目的なのだ。また、あなたが、あなたの命を生きていくことで、他の人が気づいていくご縁になる、それがあなたの人生の意味なのだ」と。それは、仏教の言葉で言えば、「往相」と「還相」ということになります。
 あなたが「仏教にひかれる」のは、仏教が、人生の意味と目的を思い出させてくれるからではないでしょうか。私たちは、人間として生まれてきても、必ずしも「人」として生きられるわけではありません。人間には「修羅」から「仏」までの幅があります。修羅は闇の世界、仏は光の世界です。「人」として生きるというのは、この闇から光へと歩み続けることをいうのです。「人」として生きるために、どうぞ、あなたの「気づき」のご縁を大切になさってください。

(2)「心の青年への手紙」(第18通)の記事について:
 事故などで身体が不自由になったら、自分ならどうするかとお考えになったわけですね。おっしゃることは、よく分かります。たしかに、どんなに愛しい人の看病であっても、やはり私たちは疲れるものですね。長い看病生活のなかで身体も心も疲れ果てたとき、「いっそ死んでくれれば」と思うこともあるに違いありません。また、「いっそ二人で死んでしまいたい」と思うこともあるかもしれませんね。
 私事ながら、私の伯母は十数年前に脳腫瘍の手術に失敗し、以来、感情の表出もなく、わずかに身動きするだけの身体になってしまいました。伯父は、自分も癌を患いながら、驚異的な生命力を示し、自分の寿命と競争するように、懸命に伯母の世話をしています。(そんな伯父にとっては、伯母の世話をすることが、「人」として生きるということなのかもしれませんが、いわば部外者である私にそれを云々することはできません。)
 また、私の若い友人の奥さんも、昨年、出産のあと蜘蛛膜下出血で倒れ、何度も手術を繰り返しましたが、結果がはかばかしくなく、伯母と同じような状態で暮らしています。この奥さんの場合は、ご自身のお父上が毎日病院に通い、懸命に世話をなさっておられますが、残念ながら、まだ快復への希望からは遠いところにおられるようです。
 そんな近しい人々の苦しみを見るにつけ、「私ならどうするだろう、私が看病する方なら、あるいは看病される方なら、どうするだろう」と、よく考えることがあります。もし、看病する方なら、「ああ、また今日もあいつの世話だ、あいつのわがままにつきあいながら、今日も私の一日が潰されるんだ」と思うのでしょうか。
 私は、もう、それほど若いとはいえない年齢になりましたが、歳の功というよりも、仏法に出会ったお陰で、若い頃よりは人生がよく見えるようになってきました。今の私には、自分は「本当の自分」になるために生まれてきたのだと、さほど迷いもなく言うことができます。今の私には、「人のために潰される一日」というのは、もうないように思えるのです。それもやはり、私が本当の自分になるための一日なのですから。私は、人と生まれ、仏法に出会った幸せを思います。
 では、私が看病される側になれば、どうなのか。身動きもできないようになれば、もうお任せするしかありませんね。たとえ不快な視線を浴び、刺々しい感情にさらされようとも、一日一日を大切に味わい、「本当の自分」への道を歩みながら、死ぬまで生きる。それ以外にするべきことは何もないように思うのです。
 「世話してやっている」という態度の人達に何を伝えられるのか、「世話してやっている」という態度の人自身が考え方を変えない限り何も伝わらないのではないかと、お尋ねですが、変わらねばならないのは自分であって、相手ではないと思いますね。いちばん自分の思いのままになるはずの自分自身を変えることができずに、他人を変えようとするのは、思いのほか苦しいことです。
 何かを伝えようとする必要はないのではないでしょうか。何も伝えられなくともよいのではないでしょうか。私が変われば世界が変わるのです。たとえば、嵐の夜には気が滅入り、雲ひとつない秋晴れには高揚感が生まれるように、私自身が「嵐の夜」から「雲ひとつない秋晴れ」になれば、周りの人々も幸せになるのではないでしょうか。
 とはいえ、当事者でないうちは、何とでも言えるものです。ただ、当事者でないときの気づきは、当事者になったときに問い直されるものでもあります。私も、遅かれ早かれ、その当事者となるはずです。そのとき、このことについて、あなたとまた話し合えるといいですね。

(3)電車のなかで経験なさったことについて:
 お年寄りに席を譲るべきだったのか、それとも、そんな親切心も煩悩の働きかと悩まれたようですが、何が善で、何が悪かは、私たちにはなかなか分からないものです。たとえば、こんな話を聞いたことがあります。
 ある白髪のご婦人が、電車のなかで若い人から席を譲られました。そのとき、ご婦人は、自分が席を譲られるほどの老人に見えたのかと、一瞬戸惑ったそうですが、譲ってくれた人の気持ちを考えて、黙って座ったといいます。席を譲るという行為は、相手にとって、果たして善いことだったのでしょうか。難しいところですね。
 思うのですが、煩悩についてあまり深刻に考える必要はありません。それより、真剣に「感じる」ことではないでしょうか。その時、その時で、自分にいちばん快いのはどうすることかを「感じる」ことです。ここで言う「快い」というのは、青空のように爽快な気分のことです。座ったままで悩んでおられたのでしたら、おそらく、立った方がよかったのかもしれません。でも、それは、どちらでも良かったのではないでしょうか。
 「自分の気分にまかせるような、そんないい加減なことで良いのか」と、不審に思われるかもしれませんが、心から爽快に「感じた」ことであれば、その感覚に任せて大丈夫だろうと思います。というのはですね、何を快く感じるかは、人が成長していくにつれて変わってくるからなのです。たとえば、週刊誌のゴシップ記事を読んで快く感じていた人でも、心が成長するにつれて、求めるものが変わってくると思うのです。大切なのは、闇の方にではなく、光の方に、本当の自分の方に顔を向けていることだと思います。
 煩悩は善でも悪でもありません。煩悩が無ければ、煩悩を超えた世界も無いのですから。それより、煩悩は、「気づき」へのスプリングボードだとお考えになったほうが良いかと思います。我が身の煩悩に気づくたびに、その煩悩を超えた世界が確かめられていくのです。本当にエゴイスティックな人なら、自分のエゴに気づくこともないでしょう。自分のエゴに気づけるということは、素晴らしいことだと思います。

(4)変性意識状態に入るための薬物について:
 私たちの意識は、物質世界という、いわば周波数の低い領域に合うようにチューニングされています。ちょうどラジオで受信周波数を変えれば違った番組が聞けるように、意識の周波数が変われば、体験する世界も変わってくるわけです。ですから世界には、ある種の植物に含まれる薬物の力によって、その意識の周波数を変えようとするシャーマニズム的な伝統もあるわけですね。
 たとえば、古代インドのヴェーダ聖典に出てくるソーマ(一説に、ベニテングダケ)もそうですが、南米のアヤファスカ(薬成分:ハルミン)、北米のペヨーテ・サボテン(薬成分:メスカリン)などがそうです。有名なカルロス・カスタネダの『呪術師と私』では、師のドン・ファンがカスタネダにペヨーテ・サボテンを食べさせ、ダツラ(デヴィルズ・ウイード)を飲ませる場面がありますね。
 現代の薬物で言えば、例のLSDやケタミンなどがあります。LSDは、1938年にスイスのサンド製薬会社で、アルバート・ホフマンが、麦につく一種の黴、麦角から偶然作り出した薬物です。もちろん今は、いずれも法律で禁止されている薬物です。
 禁止されていないのは、ペヨーテ・サボテンとマジック・マッシュルームくらいでしょうか。ペヨーテ・サボテン(日本名:烏羽玉)は、以前は入手可能でしたが、今は難しいようです。また、マジック・マッシュルームに関しては、菌糸の栽培セットが今でも通信販売で入手可能かと思います。
 ただし、こういった薬物を自分で試したことはありませんし、また、どなたにもお薦めいたしません。それには、いくつか理由があります。まずは、薬物による意識の変性状態は、自分でコントロールできないということです。摂取する人のセット(受け入れ体勢)とセッティング(摂取時の環境)によって、天国のような体験をすることもあれば、地獄のような体験をすることもあるわけです。そのうえ、薬効が失われると意識ももとに戻りますから、その体験は「悟り」とは違った性質のものなのです。
 それに、そういった薬物は、特殊な文化的背景があって初めて、それなりの意味があるわけですから、現代人が好奇心から軽々に摂取するべきものとは思えません。また、薬物による変性意識を「インスタント・サトリ」などといって関心を示す向きもありますが、私にはどうも、効率とスピードばかり考えている現代人の病的嗜好としか思えないのです。
 宗教的な修行は、もちろん健康法ではありませんから、ときには生命を危険に曝すような方法が用いられることもあります。ですが、そういった過激な方法を用いる場合、常に問題になってくるのが、その動機です。たとえば、オーム真理教のように、他の人々に対する優越感を求めて、特殊な能力を身につけようとすることなどです。薬物を用いる人々には、往々にして、そういった極めて利己的な動機が認められます。
 ですから、私自身といたしましては、薬物による変性意識をともなった宗教的伝統があることは認めておりますが、それ以上の関心は持っておりません。やはり、瞑想こそ、恒常的な意識の変性を導く、比較的穏やかで正統的な手段であると思っております。
 瞑想は、何も座してするものとは限りません。たとえば、オランダの哲学者スピノザは、天体望遠鏡のレンズ研きを職業としていましたが、息を鎮めて一心にレンズを研く作業は、まさに瞑想ではないかと、私は思っております。そういった時の流れが止まったような静かな時間をもつことが、私たち現代人には是非とも必要なように思います。

 さて、余計なことまでたくさん書き連ねてしまいましたが、これであなたのご質問にお応えしたことになったでしょうか。どうぞまた、ご感想や、お考えをお聞かせ頂ければ、有り難く存じます。合掌



Re: Re: つれづれなるお手紙 1998年4月8日(水)
 さっそくの返信ありがとうございます。もっとよく理解するために、ゆっくり何度も読み返してみます。またおたよりします。MK





質問 1998年4月26日(日)
 12話のテープ何度も聞きながら(車の中で)、いろいろなところに配慮されており、すこしづつ理解を深めて私の肉にさせていただいています。そこで教えてほしいのですが
 #1、「南無」と問いかけ、「阿弥陀仏」と答える。
というところが今ひとつ理解できません。どういうように理解したらよいでしょうか。 どこからそういう味わいに転じていったのでしょうか。よろしくご教授、お願いいたします。合掌 、MT



大分のMT様へ
Re:質問 1998年4月28日(火)
 拝復 お便りを頂き、有り難うございます。ご質問を頂戴いたしましたので、私の信ずるところに従ってお応え申し上げます。

 さて、「南無」と問いかけ「阿弥陀仏」と答える、とはどういうことかとお尋ねくださったわけですが、これは私なりの六字釋(六字の名号の解釈)を図式的に表現したものです。私の考え方は伝統的な解釈とは多少違うかもしれませんが、以下に簡単にご説明申し上げます。
 まずは、「機法一体」という言葉をご存じでしょうか。「機」とは救済される衆生のこと、「法」とは救済する仏の教法のことですが、その「機」と「法」とが互いに不即不離の関係にあることを「機法一体」と申します。
 この「機法一体」は「南無阿弥陀仏」の六字に具足されていると考えられております。つまり、「南無」の二字は「機」を表し、「阿弥陀仏」の四字は「法」を表す。ゆえに、「南無阿弥陀仏」の六字は、「機」と「法」が「一体」になった姿を表しているというわけです。
 「南無」とは機の信を言います。また、「阿弥陀仏」とは救済の働き(行)を言います。救済の働き(行)が他力であることは当然ですが、機の信も阿弥陀仏の回向による、つまり他力の働きによるというのが正統的な解釈です。
 つまり、「機法一体」というのは他力回向の内容を表したものでして、いわば凡夫救済の原理を「法」の側から見た解釈です。それに対して、救済される「機」の側から見た解釈が、善導の『散善義』に出てまいります「二種深信」です。
 「二種深信」とは「機の深信」と「法の深信」のことですが、これは他力信心の二つの相を言ったものです。ご承知かとは存じますが、簡単に申しますと、「法の深信」とは、箸にも棒にもかからない悪人を、念仏ひとつで救ってくださるのが阿弥陀仏の本願だと深く信じること、つまり「名号のいわれ」を深く信じることです。また、「機の深信」とは、その箸にも棒にもかからない悪人とはまさに自分のことだと深く信じることです。
 「機の深信」なくしては「法の深信」も意味を成さず、また逆に、「法の深信」なくしては「機の深信」が無意味となりますから、「二種深信」と言っても、信心に二種類あるというのではなく、この二つは一体のものだというわけです。
 親鸞聖人も蓮如上人も、「二種深信」という言葉は使っておられないように思いますが、『歎異抄』を見ますと、どの話も内容的に「機法一体」と「二種深信」に集約されてくるように思えます。
 このあいだの彼岸会の法話『念仏に生きる』は、以上に述べました「機法一体」と「二種深信」を踏まえての話だったわけです。「機」と「法」は、いわば表が白で裏が黒の一枚の紙のようなものでして、内省を深め、黒い裏面の「機」を煮詰めていくと、つまり「機の深信」を極めていくと、ついには表の白い面に回り込み、「法」に至りつく。そういった真宗の正統的な理解に近い話を一度しておきたかった。それが、このあいだの法話だったわけです。
 ですが、実は、私の信心の焦点はもう少し違ったところにあります。それは、第1話から第10話までお聞き頂いておりますので、既にご承知かもしれませんが、おそらくは、その点にお気づきになられたからこそ、「どこからそういう味わいに転じていったのか」という疑問を抱かれたのではないかと思います。ここまでは、おおよそご理解いただけましたでしょうか。

 さて、凡夫の信は他力回向によるというのですから、「二種深信」は他力によって得られるものです。ですが、現実的な見方をすれば「機の深信」は深い内省の賜物ですから、ここに「機の深信は自力に通ずる」という、いわば異安心と称せられる解釈の生まれてくる余地もあるわけです。
 まあ、異安心の問題はひとまずおくといたしましても、親鸞聖人のように、「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」「煩悩具足のわれらはいずれの行にても生死をはなるることあるべからざる」「念仏は行者のために非行非善なり」「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫と仰せられた」「さるべき業縁のもよおさばいかなるふるまいもすべし」「そくばくの業をもちける身」「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもて、そらごと、たわごと、まことあることなき」(『歎異抄』)といった深い宗教的内省に至り着ける人は極めて希ではないでしょうか。
 たしかに「信」は他力回向によって得られるものだと思います。私自身、「信」の問題に苦しみ、それが他力によって得られるものと知ったとき、逆説的かもしれませんが、不思議と目の前が明るくなったような経験をしたことを憶えております。
 とはいえ、現象的に見れば「機の深信」は内省的なものです。宗教的内省が深まっていくのは、間違いもなく他力の働きだと信じておりますが、同時に、そういった内省が深められるかどうかは多分に宗教的天分の如何によって左右されるものと思えてなりません。
 かつて、ある説法者が、「真宗は易行道だといっても極楽往生を本当にやる者は、祖師もいわれるように千万人に一人だ」と言われたそうです。また、鈴木大拙師は、「真理を体得することは容易ではありません。(中略)殊に真宗はわかりにくいのです。その困難さは他宗派以上です。真宗を説く人々は真宗は最もやさしい成仏の道だと言いますが、私は至難の道だと思います」(『真宗入門』)とおっしゃっています。
 こういった率直な意見を知るにつけても、「信」の深化が如何に各人の宗教的天分に依存しているかということを、改めに考えずにはおれません。とはいえ、誰が宗教的天分に恵まれているかは、実は分からないのですね。というのは、天分というものは縁によって開花するものでもあるからです。そして、その縁こそ、他力によって与えられるものだと思うのです。「信とは、往々にして、ありそうに見えるところに無くて、無さそうに見えるところにあるものだ」という言葉がありますが、これはそのあたりの事情を言ったものと思います。
 しかしです、何度も前言を翻すようでいかにも心苦しいのですが、「機」の側から「信」を極めること、つまり「機の深信」を極めるということは、やはり難中の難に思えます。少なくとも私にとってはそう思えるのです。私には、御開山のように「機の深信」を極めることはできそうにありません。できそうにないどころか、到底できない相談にも思えるのです。
 いささか開き直った物言いに聞こえるかもしれませんが、私は御開山ではないのです。個性も違えば、天分も違うのです。それでも、私は救われたいし、救われる道があるに違いないと信じています。私は娑婆を超えた世界を信じています。また、他力を信じています。否、信じているというより知っていると言った方が近いかもしれません。
 その確信にも近い思いは、私自身の「法」の体験から生まれています。体験というのが不遜であれば、木漏れ日のように垣間見たと言えば許してもらえるでしょうか。その道は、いわば「法の深信」からのアプローチです。「機の深信」からのアプローチに成功するのが「千万人に一人」なら、私は「法の深信」からアプローチして、もう一人救われる人間を増やしたいのです。その「もう一人」とは、他ならぬ「私自身」のことですが、もしもこんな私が救われるとしたら、きっと誰でも救われるに違いありません。

 このあいだの法話で、私は次のようにお話しいたしました。

 「聞法とは、仏の教えを聞くことです。仏の教えを聞くというのは、仏の目から見れば、この私の姿がどう見えるのかを、学ぶことです。それが聞法なのです。

 仏の目から見ればどう見えるのか。それを常に問いかけていく生活が、信仰の生活です。仏の目から見ればどう見えるのか。その問いかけが『南無』です。そして、その問いかけへの答えが『阿弥陀仏』なのです。

 『南無』と問いかけ、『阿弥陀仏』と答える。この、『南無』と問いかけ、『阿弥陀仏』と答える生活のなかで、いつしか、『南無』と『阿弥陀仏』がひとつになってくる。『南無』と『阿弥陀仏』が『南無阿弥陀仏』となってくるのです。

 『南無』が『阿弥陀仏』となったとき、『私の目』は『仏の目』となっている。『仏の目』は『南無阿弥陀仏』。『私の目』も『南無阿弥陀仏』。ですから、『南無阿弥陀仏』という六字の名号は、闇から光りへと、救われていく私の姿であるとともに、闇が光となった、救われた私の姿でもあるのです。

 私たちは、聞法を始めたそのときに、仏の目をもらったのです。南無阿弥陀仏という、お念仏として、仏の目をもらったのです。南無阿弥陀仏という仏の目をかかげ、その仏の目で人生を見ていくこと、それが、念仏に生きるということです」と。

 正直に申しますと、私はこの直前まで「機の深信」の話をしていたのです。ですが、ここで秘かに「法の深信」へと話の方向を転じました。ここで違和感をお感じになったとすれば、おそらくは、その秘かな意図を敏感に察知なさったからではないかと思います。
 端的に言えば、「南無」と問いかけ「阿弥陀仏」と答えるとは、「法」に問うということです。「法」に問うとは、「法」に向かって心を開くということです。「法」に向かって心を開くとは、仏(阿弥陀仏)に向かって心を開くということ、「本当の自分」に向かって心を開くということです。言葉を変えて言えば、それは「法の深信」を極めていくということでもあります。次回の話からは、その方向で、私の信ずるところを、もう少し明瞭にしていきたいと考えております。

 こんなお応えで、はたして御納得頂けるものかどうか分かりませんが、適切なご質問を頂きましたこと、真に有り難く存じております。どうぞ、今後とも宜しくお願い申し上げます。合掌。





お礼と質問 1998年4月29日(水)
 28日に回答、ありがとうございます。プリントアウトしてじっくり読み返しています。
 お返事の中で「信」「信じる」等の使い方がどのようにされているのか、お聞きしたいところです。一般的な「信じ込む」、とか「信頼する」というような受け取りかたでは仏教はいただけないような気が致します。「信」の使い方の心持ちをご教授ください。合掌 MT



大分のMT様へ
Re:お礼と質問 1998年4月30日(木)
 拝復 お便り、有り難く拝受いたしました。今回は「信」についてお尋ね頂きましたので、多少存念を申し上げます。
 「信」という文字は、「人」と「言」(ことば)から成り、人の言葉と心が一致すること、つまり「まこと」を意味しています。ところが、宗祖のお言葉にもあるように、われら凡夫の心に「まこと」は無いというのが、真宗の立場です。そこから、信心というものは弥陀の回向によって得られるものだという発想になってくるわけですね。
 『真宗辞典』の「信心」の項にも、こう書いてあります。「まことの心の意。また疑いなき心の意。即ち仏の真実心を疑いなく信ずる心をいう。而してまことの心と解釈するときは仏の真実心のこととなり、疑いなき心と解釈するときは、衆生が仏の真実心のあらわれである名号のいわれを、疑いなく真受けにする心のこととなるのであるが、衆生が疑いなく信ずる心となるのは、仏の真実心が衆生の心に徹底して生じたもので、衆生自身に起する心ではないのである。(中略)また、『最要鈔』に「信心をばまことのこころとよむうへは、凡夫の迷心にあらず、まったく仏心なり、この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心とはいはるるなり」とある」と。
 こんなふうに宗教の世界で「信」と言う場合、そこではたいてい、「不信」や「疑惑」と対立関係に無い絶対的な「信」というものが想定されていますが、私は「信」という言葉の使い方を、もう少し緩やかに考えています。
 では、どう考えているのかと申しますと、前回の法話でもお話しいたしましたように、私は、「信」とは「疑惑を伴わない知識」だと考えております。そして、その知識が実際にこの身に体験されたとき、「信」は「信知」となると考えております。
 かつて、キュプラー・ロスが、「私は死後の世界があると信じています。いいえ、信じているというより知っているのです」と言っていました。ロスは、『死ぬ瞬間』にある人々との対話や、そういった人々の観察から「死後の世界」を「信じる」ようになりましたが、それはまだ「信」でした。ところがその後、ロスは、ロバート・モンローの研究所で霊体離脱を体験したといいます。これは私の想像ですが、ロスが「知っている」と言い始めたのは、この体験の後ではないかと思います。
 ロスの、この「信じている」「知っている」という言葉の使い分けは、私の考え方と共通しているように思います。ただ、私は、日常の会話や文章で、それほど厳密に「信」という言葉を使っているわけではございません。その点、ご了承頂きますように。合掌





はじめてお世話になります 1998年6月9日(火)
 御縁を喜んでおります。ホームページ拝見させていただいております。諸氏のご質問に丁寧にお答えされておられますが敬意をもって、一緒に勉強させていただいております。御礼申します。
 さて、私こと、今年四月よりある学習会で「親鸞聖人御消息」をテーマに学ばせていただいておりますが、その中で「有念無念の事」という章で(註釈版735頁)「正念といふにつきて二つあり。一つには定心の行人の正念、二つには散心の行人の正念あるべし、この二つの正念は他力のなかの自力なり。・・・この善は他力のなかの自力の善なり・・・ 略・・・」。この他力のなかのの自力というおことばの理解に苦しんでおります。勿論この場合の自力は19願・20願を指しておられるものだということは解りますが。
 勝手なメールの発信お詫びいたします。 YM 生 合掌



YM様へ
お便り拝受 1998年6月10日(水)
 拝復 お便り、拝受いたしました。紫雲寺のホームページにご関心をお寄せ頂き、有り難く存じます。ご質問を頂戴いたしましたので、私の分かる範囲で、お応え申し上げます。
 伝統的な解釈に従って申しますと、「他力のなかの自力」とは、「他力を標榜しながらも、その実は自力である」、「他力にお任せすると言いながらも、任せきれずに自力が混入すること」を言います。下世話な言い方で申しますと、「他力の看板を掲げながらも、中身は自力」ということになります。ですから、「他力のなかの他力」とは、看板に偽りなき、正真正銘の他力ということになりましょうか。
 「他力のなかの他力」「他力のなかの自力」という言葉は、第十八願を、いわゆる絶対他力の「王本願」と見る立場から生まれてくるものです。「他力のなかの自力」とは、ご指摘のように第十九願・第二十願を踏まえて言われていることでしょう。ただ、第十九願・第二十願も、やはり法蔵菩薩の願ですから、そういう意味では、これもまた「他力」です。同じく「他力」に摂せられながら、願船の上であれこれ自前の工夫をしている人もいる。それが、「他力のなかの自力」と言われる人です。
 教学的に言えば、「他力のなかの他力」の人は「真仏土」に生まれ、「他力のなかの自力」の人は「化身土」に生まれるということになっておりますが、これをもう少し日常的な表現で言えば、「他力のなかの自力」の人は、他力にも不安があり、自力にも不安があるということで、中途半端な「安心」しか得られないということになるでしょうか。

 ところで、「他力」と「自力」は、実際にはそれほど截然と分けられるものではありません。たとえば、「念仏往生の本願を信ずる」のが絶対他力の信心と申しましても、「念仏」(行)に重きを置けば「自力」に傾き、「本願」(信)に重きを置けば「他力」に傾くことになってまいります。
 法然上人にも親鸞聖人にも、この揺れが見られます。たとえば、法然上人は、称名念仏の多寡や人間の器量によって信仰に差異のないことを説いておられましたが、その一方でご自身は、一日に唱える称名の数を定め、称名を行として励まれた節があります。その称名の回数は歳を追うにつれて増え、晩年には六万遍、七万遍にもなり、来客と面しているときも、声が小さくなっただけで称名念仏が途切れることはなかったと言います。
 『三昧発得記』や『選択集』を見ますと、法然上人は、善導を三昧発得の聖者と仰ぎ、三昧発得することを重視しておられたことが分かります。「三昧発得」とは、たとえば三日・五日・七日と日時を限って集中的に称名念仏を実践する(これを「別時念仏」といいます)ことによって、『観経』に説かれているような見仏体験をすることです。これは定心の念仏と言われるものです。
 三昧発得できるかどうかは、行者の器量次第ですから、法然上人は、そういった三昧発得を期待するような定心の念仏を一般の人々に勧められたわけではありません。むしろ、心の乱れたままでも念仏すれば自ずから心も清浄になると考えておられ、いわゆる散心の念仏を勧められたようです。ですが同時に、できるだけ多くの者に三昧発得の見仏体験を得させたいと、別時念仏を勧めてもおられるのです。
 もちろん他力の信心においては、往生そのものは弥陀の誓願を信ずることにかかっているのでして、三昧発得で見仏体験ができなければ往生できないとか、見仏体験できれば往生できるということでは決してありません。法然上人も、その点でははっきりしておられます。往生は信心にかかっている、往生は他力の働きによるのです。
 こんな言い方が正しいかどうか分かりませんが、法然上人は、善導にならった三昧発得の見仏体験によって、他力信心への確信を得られた方ではなかったかと思います。いわば、自力の念仏行によって、弥陀の誓願が真であることを確信された。その確信のなかで、逆説的ですが、定心の念仏が往生の必要条件ではないことを感得された。ただ、法然上人ご自身は、その確信を生き生きと保持し続けるために、三昧発得の見仏体験という法楽から生まれる霊的エネルギーを必要とされた。私には、そう思えてなりません。
 さて、一方、親鸞聖人は、法然上人の「信」と「行」のうち、「信」の方面を純化していかれました。三昧発得とか見仏とかいったことは往生とは関係のないこと。弥陀の誓願をたのみ、往生させて頂けると信じて、念仏申さんと思い立つ心の起こる時、すなわち摂取不捨の利益にあずかるのであって、称名念仏の数の功徳で往生が定まるわけではない。「行」を捨てて「信」を純化せんとすれば、「念仏申す」ということは強調できませんので、「念仏申さんと思い立つ心の起こる時」ということになるのは当然の流れでしょう。
 ですが、親鸞聖人晩年の御作である『正像末和讃』には、「弥陀大悲の誓願を、ふかく信ぜんひとはみな、ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀仏をとのうべし」(54)、「信心のひとにおとらじと、疑心自力の行者も、如来大悲の恩をしり、称名念仏はげむべし」(66)とあり、微妙に風向きが変わってまいります。
 また、『教行信証』の化身土巻の横超釋には、「横超は本願を憶念して自力の心をはなるる、(専修といふはただ仏名を称念して自力の心をはなるる)、これを横超他力となづくるなり」とあります。括弧()でくくった部分は真跡底本にはありませんで、万延本のみに見られる記述ですが、これは非常に大切な内容と考えます。(なお、この横超釋は、本派の『浄土真宗聖典』(注釈版)では pp.394f. にでてきますが、万延本は参照されておりません。)
 思うのですが、「行」のない「信」もなければ、「信」のない「行」もないのではないでしょうか。「行」に支えられて「信」が深まり、「信」に支えられて「行」が正される。いわば、自力と他力の間で揺れを繰り返しながら、不動の位置にまで振幅が収束されていくのが信仰ではなかと思います。
 何が「自力」で、何が「他力」なのかは、なかなか私たちの意識では捕らえ難い、甚だ微妙な問題です。ちなみに愚見を申し上げれば、伝統的な「他力浄土門」「自力聖道門」という分け方も、あまりに図式的すぎるのではないかと思います。と申しますのは、実際には「自力」で悟れる道などありえないと思われるからです。たとえば自力聖道門と言われる禅宗でも、それが頓悟であれ漸悟であれ、自力が鎮静化していき、自力無効となったとき、不意に感得されるものです。他力は常に働いているのです。ですが、その他力の働きに気づけるのは、騒々しい自力の音が鳴り止んだときなのです。

 いささか余計なことまで書き連ねてしまいました。ご寛容をお願い申し上げます。これでご質問にお応えしたことになったかどうか、いささか心許ない思いもいたしますが、どうぞまたご意見・ご感想など、お聞かせ頂ければ幸甚に存じます。今後とも宜しくお願い申し上げます。合掌。



ありがとうございました 1998年6月17日(水)
 紫雲寺さま 御礼のメールおくれてすみません。先日は私の拙い質問に対して多大のスペースをもって、ご解説下さり有難うございました。
 日々のお念仏相続の生活の場において、自分を問うということが、み教えの根幹だとは承知しておりますが、なかなかそのように参りません。今後とも多くの善智識様のご指導をいただき、み仏の大悲を感謝しながら過ごしていきたいと思っております。
 今後とも宜しくご指導をお願い致します。 合掌 YM生

おわび 先日すぐ御礼のメールを差し上げたのですが届かなかったようです。済みませんでした。





リンク許可依頼 1998年6月19日(金)
 紫雲寺様 拝啓 時下ますますのご清栄のこととおよろこび申しあげます。
 真宗大谷派大阪教区・蓮如上人五〇〇回御遠忌記念事業部会・インターネット委員会でリンク集を担当しております澤田と申します。
 突然のメールで大変恐縮ではございますが、以下の内容についてご許可並びにご協力をいただきたく、メールを差し上げました。
 このたび大阪教区では、蓮如上人の御遠忌を機縁といたしまして、ホームページを立ち上げることとなりました。つきましては貴ホームページを、わたしどもからリンクさせていただきたいと存じます。
 まだ試運転中ですが、ホームページのタイトルは『銀杏通信』、URLは http://www3.osk.3web.ne.jp/~ichou/ です。またすでにリンク集も仮に設置しています。正式オープンは8月1日を予定しております。
 それから私どものリンク集で、貴ホームページの紹介等に不備がありましたら、お手数ですがメールをいただければ、すぐに訂正させていただきます。まだ紹介の文言は仮のもので、変わる可能性があります。変更いたしましたら、すぐにメールにてお知らせさせていただきます。
 ご不明な点がありましたら、下記澤田までお問い合わせ下さい。また、ご意見ご要望等がありましたら、遠慮なくメールあるいは掲示板に書き込んでいただけたらと存じます。それでは今後とも、よろしくお願いいたします。合掌。

真宗大谷派大阪教区蓮如上人五〇〇回御遠忌記念事業部会
インターネット委員会
 事務局:教化センター ichou@osk4.3web.ne.jp
 リンク担当:澤田 見 sawaken@marinet.or.jp



澤田 見 様へ
Re:リンク許可依頼 1998年6月19日(金)
 拝復 紫雲寺のホームページにご関心をお寄せ頂き、有り難く存じます。また、リンクのお申し出、有り難く存じます。拙いホームページですが、よろしければ、どうぞご随意に、リンクなさってください。今後とも、どうぞ宜しく、お願い申しあげます。合掌

答礼リンク: 「銀杏通信」





教えて下さい 1998年7月7日(火)
 「教外別伝 不立文字」とは、どういう意味ですか?教えてください。 TK



TK様へ
Re:教えてください 1998年7月7日(火)
 拝復 お便りを頂戴し、有り難く存じます。お尋ねの「教外別伝・不立文字」というのは、禅宗の宗義を表す有名な言葉です。『岩波・仏教辞典』には、以下のように解説されております。

教外別伝・不立文字 きょうげべつでん・ふりゅうもんじ
 不立文字,教外別伝,直指人心(ジキシニンシン),見性成仏(ケンシヨウジヨウブツ)の四句より成る.禅の宗義をあらわす代表的なことば.教説の外に,体験によって別に伝えるものこそ禅の真髄であり,経論の文字をはなれて,ひたすら坐禅によって釈尊のさとりに直入する意.達磨の語として伝えられているが,達磨より下って六祖慧能(エノウ)から盛んになった南宗禅で,特に強調された(禅源諸詮集都序(上)).なお,室町時代の七十一番歌合64番に配された禅宗対律家の問答がこの二句に立っていることは,当時一般的にも,この二句が禅宗の宗義の象徴と見られていたことを示す.この禅宗は不立文字・教外別伝なり.教文に滞らず,ただ心印を伝ふ[興禅護国論(6)]教外別伝にして言ふも言はれず,説くも説かれず[謡・放下僧].→直指人心・見性成仏(ジキシニンシン・ケンシヨウジヨウブツ)

 この『岩波・仏教辞典』は、なかなか便利なものでして、基本的な用語はたいてい分かると思いますので、お手元にお備えになることを、お薦めいたします。合掌



Re:Re:教えてください 1998年7月7日(火)
 早々のご回答感謝致します。社則では計れない内容を上司に判断を求めたところ、「教外別伝・不立文字」のメールのみが帰って来て困っておりました。大変助かりました。TK





ご無沙汰しています 1998年7月16日(木)
 前略 ご無沙汰しております。過日はありがたいご教示をいただきまして有り難うございました。日々お念仏をいただいて過ごさせていただいておりますが、真宗教義は難しく、とても私には及びがたい気がします。再度のことで恐縮ですが、本日は常日頃理解に苦しんでいることに、出来ましたらご教示いただけましたら幸いに存じます。
 聖人は「愚禿」と名のられ、法然さまは「愚痴」と申され、仏の救いは、この機がなければならないとお教えになりましたが、一般に私どもは「愚」ということについての理解は「バカ」という領域で受けとめており、どういう意味でおっしられているのかと考えていました。
 最近「信文類」の大信釈や入出二門偈の末尾に「凡数の摂にあらざるなり」というお言葉を見つけました。聞くところによると、これが聖人や法然さまのおっしゃる「愚」ということであると教えられるのですが、いまひとつよく解りません。お忙しい中恐縮ですが、このことについてご教授いただけたらとおもいます。ご無礼ご容赦願います。
 @ 称名 @ YM生



YM様へ
お便り拝受 1998年7月17日(金)
 拝復 お便りを頂き、有り難く存じます。ご質問を頂きましたので、私の分かる範囲で、お応え申しあげます。
 まずは、「愚禿」の「愚」の問題でございます。この問題に限らず、信仰の問題は、たいてい「絶対世界」との関係で語られるものでございます。私たち門徒の言葉で言えば、その「絶対世界」とは「阿弥陀仏の真実」のことでございます。
 私たちは、その阿弥陀仏の光に照らされて、初めて自己の姿に気づくわけでございます。別の言葉で言えば、教えの鏡に映して、我が身の姿を見るということでございます。その「絶対世界」の前に立ったとき、この我が身の姿がどう見えるのか。親鸞聖人は、たとえば次のようにお記しになっておられます。
 「誠に知りぬ、悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快まざることを、恥ずべし傷むべし」(『教行信証』信巻)。「悪性さらにやめがたし、こころは蛇蝎のごとくなり」(『正像末和讃』)。
 法鏡に映る我が身の姿に、出てくる言葉は「懺悔」と「悲嘆」ばかりとなる。そこに「愚」の自覚が生まれてくるわけでございますね。ですから、「愚禿」の「愚」とは、娑婆の相対世界の価値観から生まれた言葉ではなく、「絶対世界」に触れたときに生まれた深い自覚の言葉なのでございます。
 念仏者、木村無相氏の『念仏詩抄』にも、次のような言葉がございます。「煩悩具足のぼろ家に、南無阿弥陀仏が住みついて、灯りがついて、ぼろ家のおんぼろが見えまする、南無阿弥陀仏と見えまする」。「灯りがついて、ぼろ家のおんぼろが見えまする」とは、法の光に照らされて、初めて我が身の「愚」が見えたということかと思います。
 「仏法を学ぶとは、自己を学ぶなり」という言葉がございますが、私たちは、彼岸の話を聞かねば、此岸の現実が見えません。どういうことかと申しますと、適切な「たとえ」ではないかもしれませんが、一昔前の共産主義諸国を考えて頂くと、分かりやすいのではないかと思います。
 たとえば、ソ連では、資本主義の国々の情報が、国民に全く知らされておりませんでした。ですから、国民は、自分たちが相当悲惨な生活をしていても、「人生って、こんなものだ」とか、「資本主義の奴らより幸せだ」と信じ込んでいたわけですね。決して資本主義諸国が理想の国だと言っているわけではございませんが、彼岸の話を知らないと、此岸の現実が見えないと申しましたのは、そういうことでございます。
 さて、YM様は、『教行信証』や『入出二門偈』など、御聖教を丹念にお読みになって、私どもより、はるかに専門的なご関心をお持ちのように、拝察いたしますが、私は学者ではございませんので、煩瑣哲学的な教学には、あまり関心がございません。ひとつには、難しい専門用語のジャングルに分け入って、目的地に到達できるほどの器量が私にあるとはとても思えないからでございます。その点、ご寛容をお願い申しあげておきます。
 なお、どのような方とメールを交換させて頂いているのか、今ひとつイメージが湧きませんので、ご無礼かとは存じますが、YM様の個人情報を、御都合のよい範囲でお明かし頂ければ、有り難く存じます。今後とも、宜しくお願い申しあげます。合掌



有り難うございました 1998年7月18日(金)
 早速のご教授有り難く拝受いたしました。先生のご解説のように私たちに目覚めを呼びおこすお慈悲は「絶対の世界」「真実の世界」を知らしめるためのお働きであると、うなづけます。法の真実の前に我が身の我執の愚かさが照らされ「自己の愚かさ」が見せられるとは仏法を学ぶまでは考えたこともありませんでした。これが功徳というものでしょうか。
 先生お尋ねの私のことですが、ただの平凡な人生を送っておるものです。・・・(略)・・・ 元来読書好きでしたが、不思議なご縁と申しますか、三十代の頃、たまたま書店で手にした「歎異抄」(確か金子大栄師の講説であったと思います)でした。その第十三条の業の問題にふれました。仏法への目覚めはこうしたことがキッカケであったと思います。・・・(略)・・・ 今後とも宜しくご指導をねがいます。有り難うございました。



YM様へ
Re:有り難うございました 1998年7月18日(金)
 拝復 早速、ご丁寧なご返事を賜り、恐縮に存じます。実は、お名前と都道府県名ていどをお教え頂ければと考え、お尋ね申しあげました。ご無礼を、お赦しくださいませ。今後とも、宜しくお願い申しあげます。
 なお、甚だ勝手ながら、医師でも教師でもない身に「先生」はご遠慮申しあげたく存じます。正直に申しますと、「先生」と呼ばれるたびに、落ち着かないものを感じまして、いささかこの言葉にアレルギー気味でございます。ご賢察をお願い申しあげます。合掌





はじめまして 1998年9月22日(火)
 釋昇空様  はじめまして、横浜在住のMと申します。最近、ホームページでの御法話をみつけまして、四話ほど拝読させて頂きました。たいへん感激し、また興味深く思いました。このホームページを訪れる前に、「やさしい、しんらん予備校」(…中略…)というサイトで浄土真宗の教義に触れて、いままでの固定観念(暗い、救われない衆生、哲学的でない)が揺るがされ、昇空様のホームページで完全に打ち壊されました。
 この年(44才)になるまで可もなく不可も無い人生を送ってきました。しかし考えてみると、大学時代から20年間優柔不断で自分・他人に迷惑をかけていたと思います。これも自分がずーと迷ってばかりいたせいです。これからも間違いなく迷うでしょう。でもちょっとでも良いから現世でも如来様に救っていただけたらと思っています。
 まだ素直じゃないのですが、まがりなりにも「南無阿弥陀仏」と唱えてみました。これも他力のなせるわざと考え、素直じゃないのは自分が「罪悪深重」であると思います。
 そこで、是非御法話のテープや季刊紙を購入したいのですが、どのようにすればよろしいでしょうか?直接、御寺の方へ現金書留で申し込めば可能でしょうか? 不躾な質問で申しわけ有りません。是非御教え頂きたく、よろしくお願い致します。KM



横浜のKM様へ
お便り拝受 1998年9月22日(火)
 拝復 お便り、拝受いたしました。紫雲寺のホームページに関心をお示し頂き、有り難く存じます。また、「法話テープ」と季刊紙『菩提樹』について、お問い合わせ頂き、有り難く存じております。
 「法話テープ」は、バックナンバーが現在12巻ございますが、明日(9月23日)に第13回目の法話をいたしますので、都合13巻になります。頒価は各巻1000円となっております。「紫雲寺のホームページ」の「掲示板」のなかの「出版物のご案内」のコーナーをご覧頂きますと、各巻のタイトル等が出ておりますので、ご関心をお持ち頂ける巻をご注文下さっても結構です。
 ただ、出来ましたら、第1巻から順次お聞き頂けたら、話の流れがお分かり易いのではないかと思います。(…中略…)なお、お支払いは、「法話テープ」をお手許にお届けいたします際に、郵便振替用紙を同封させて頂きますので、それにてご送金頂ければ結構でございます。
 季刊紙『菩提樹』の方は、バックナンバーが現在22号でございますが、10月1日に第23号を発刊いたしますので、都合23号までとなります。頒価は、いちおう一部100円ということになっておりますけれども、郵送料の方が高くなってしまいます(…中略…)。
 ご注文下さるようでしたら、23号までお送りいたします。御一瞥のうえ、御感想、御意見など、お聞かせ頂ければ、有り難く存じます。また、お読み頂いたうえで、今後も継続してお読み頂けるようでしたら、改めてご連絡下さいませ。合掌





ありがとうございます。御法話テープつきました。
    1998年10月5日(月)
 昇空 様 ありがとうございます。先週金曜日にテープ届きました。本日、郵便局にて払込みさせて頂きます。また別に寄付をさせて頂きたいのですが、構わないでしょうか?
 早速、本日通勤時間に1話拝聴させて頂きました。私もエスカレーターに乗させて頂きたく、早朝に念仏を唱えさせて頂いています。まだ5日位ですが・・・。
 ホームページの掲載されている法話のほうですが、こちらは全部拝読させて頂きました。感動致しました。
 昇空さまは、論理的なお方ですね。ええと、ちょっとここからは誤解なさらないでお読み頂きたいのですが・・・。
 もちろん仏教を含め宗教は論理を超えなければいけない所があるわけですが、それだけでは私は納得できない人間でした。何かを信じるためには、納得できる考え方が必要でした。経験ですら信じられない自分だったのです。あたまでっかちと言われればその通りだったのかも知れません。(まあ頭の方もあんまり良いとは言えないのですが・・・)
 20年も前の学生時代にマーク・トウェインの書いた「人間とは何か」「不思議な少年」という岩波文庫を読んで、「人はすべての行動がエゴである」ということを提示され、衝撃を受けました。その後すぐに親鸞聖人の歎異抄を読んで、親鸞聖人も同じ事を語られていると勝手な解釈させて頂きました。しかし、そこまででした。もっと大事な「信をつかむ」、または「信をつかまさせて頂く」までには至りませんでした。その時分は恋愛や生き方などについてずいぶん悩まされました。
 しかし喉元すぎれば、というわけで、また根がチャランポランな性格もあって、それから20年大きな悩みもなく過ごしてきました。しかし、子どもができ、また仕事を振り返ってみて、自分の生き方はこれで良いのか・・・。満たされない自分がそこにいました。
 それで、また何かを追い求めるようになったのですが、先ほど書きましたように自分は筋が通らないものはやはり何か受け付けられない。禅宗やキリスト教、ニューエイジ的な書物などいろいろ箸の先を付けてつまんでみても、何か論理的に高くジャンプする必要があり、信じられない、満足できませんでした。
 その時出会ったのは前にも書きました「やさしいしんらん予備校」がきっかけなのですが、親鸞聖人の教えだったのです。実は親鸞聖人の教えは非常に論理的というより、論理を追求して非論理に至る方法、つまりジャンプする方法をお教えになっていると思いました。勝手な解釈かもしれません。また清澤満之師の「我が信念」のなかの
  「どうも人生の意義に就いて研究せずには居られないことになり、
   其研究が遂に人生の意義は不可解であると云う所に到達して、
   茲に如来を信ずると云ふことを惹起した」
という部分です。同じ思いかはわかりませんが、自分もそんな感じになれるのではないかと思いました。
 それで、昇空さまの御法話なのですが、現象を把握し、論理を突き詰めて、楽にジャンプできる内容です。本当に有り難いものに出会わせて頂いたと思います。
  「自分は救われない存在なのだが、一如からの呼びかけがある」
本当にそう思います。自分の「悩み」はその証拠であったと今は思っております。
 まだ信が足りないのですが、私もお念仏によって楽になれたらとどんなに良いかと思います。これからも是非是非、お話や、また出版もお続けになって頂きたく存じます。
 拙い文章で申しわけ有りません。こちらの気持ちを何かの形で表現したいと少し長く思いを書かせて頂きました。今後またメールをしてよろしいでしょうか?
 テープと季刊紙、本当にありがとうございました。合掌 KM



横浜のKM様へ
お便り拝受 1998年10月5日(月)
 拝復 お便り、拝受いたしました。拙い話に過分なお言葉を賜り、恐縮いたしております。また、ご寄付のお申し出、有り難く存じます。『菩提樹』もホームページも、読者諸賢のご厚志にて維持されておりますので、ご厚情、勿体なく存じます。
 今後とも、ご感想、ご意見など、お聞かせ頂ければ幸甚に存じます。合掌





ベッコウアメ 遅いですね 1998年10月23日(金)
 お久しぶりでございます。新しい法話、読ませていただきました。ありがとうございます。
 それにしても、ベッコウアメは遅いですねえ。今日は、遅い時間帯なので、ようやく繋がりましたが、テレホ開始の時間帯(夜11時)には、滅多に繋がりません。「安かろう、遅かろう」では、増えるアクセスも増えません。そろそろ、見限る潮時かもしれません。私の知人は、2人、ベッコウアメから他のプロバイダへ乗り換えました。
 季節の変わり目、ご自愛専一に、お過ごし下さい。
  最低山極悪寺 住職 珍宝院釈法伝



珍宝院釈法伝様へ
お便り拝受 1998年10月23日(金)
 拝復 ご無沙汰いたしております。お便り、拝受いたしました。拙寺のホームページにお立ち寄り頂き、有り難うございます。
 また、プロバイダを乗り換えるようにとの御忠告、有り難く存じます。たしかに、時間帯によっては、ベッコウアメの接続状況は絶望的です。引っ越しを考えたこともございますが、何しろ、少ない予算で、交通の便のよいところに広いスペースを、というのですから、おいそれとはいきません。適当な物件をご存じでしたら、ご紹介ください。
 時候不順なおり、ご自愛ご専一に。合掌



RE: お便り拝受 1998年10月24日(土)
 プロバイダーの件ですが、我が極悪寺のサイトマップをご覧下さい。
 付属施設賽の河原保育所は、Xoomというアメリカの会社に置いてあります。ここは、無料で5MBのホームページ用のスペースを貸してくれます。時々、宣伝のメールが来ますが、それを除けば、特に、こちらに義務はありません。同じく、塔頭妖怪寺は、フリーチケットシアター(日本)という所のスペース2MBを無料で使用しています。こちらは、コマーシャルが入ります。同じく、写真の部屋(ギャラリー)は、アメリカのProHostingに、置いてあります。こちらは、10MBまで、無料で貸してくれます。以上はすべて、メールアドレスがあれば借りられます。(その他を合わせて、実は、私は、インターネット上に、31MBのスペースを確保しています。)
 これらのページを、試しに、呼び出してみて下さい。ベッコウアメより快適なところもあるはずです。少なくとも、私のホームグラウンドであるDTIから呼び出す限り、ベッコウアメよりは快適です。したがって、ホームページのスペースは狭いが、繋がりの良いプロバイダを探して、ホームページは、無料のモノを借りるという手もあると思います。
 フリーチケットシアターを除いて、英語というのは、少々面倒かもしれませんが、一度、ご検討下さい。
 最低山極悪寺 住職 珍宝院釈法伝



珍宝院釈法伝様へ
早速のご教示、有り難うございます
    1998年10月24日(土)
 拝復 プロバイダの件で、早速ご教示頂き、有り難うございました。ご指示に従い、貴寺のサイトマップを拝見いたしました。なるほど、こんな方法もあるのかと、驚嘆いたしております。
 実際に各サイトを確認いたしましたところ、Xoom のフリー・スペースは 現在 11MB のようですが、Prohosting のほうは、いまひとつはっきりいたしませんでした。
 ストック・スペースを別に確保するということになれば、新居選択のポイントは、手狭でも交通の便の良いところということになります。ですが、実際には、どんなに高速のプロバイダでも、例の時間帯になれば、たいていは首都高速並の渋滞になってしまうのではないでしょうか。
 たとえば、現在、メール用に kyoto-inet というプロバイダを使っております。このプロバイダは、アクセスの面でも料金の面でも、ほとんど文句はありませんが、それでもテレホーダイの時間帯には、ご多分に漏れず完全に麻痺してしまいます。
 そこでです。アクセスの便不便は、過渡的な問題で、いずれは改善されることとして、スピード、スペース、コストの面から、今考えておりますのは、bekkoame から big-net に引っ越しするのはどうかということです。
 bekkoame は年会費 20,000 円で、ホームページに使えるスペースは 20 MB ですが、big-net は年会費 15,000 円で、使えるスペースは 50 MB もあります。問題は、スピードですが、何しろ現在使用している kyoto-inet も bekkoame もテレホーダイの時間帯には麻痺してしまいますので、当該時間帯での big-net の接続状況が未だ確認できておりません。
 kyoto-inet は、地元のプロバイダですので、メールボックスとして残しておきたいと考えておりますが、bekkoame のほうは、いずれ big-net に乗り換えるかもしれません。そのおりには改めてご連絡申し上げますが、まあ、それにしましても、big-net の企業としての安定度も確認してからにしたいと思っております。合掌





横浜のKM様へ
ご厚志に感謝 1998年10月23日(金)
 拝復 本日、郵便振替にて、ご厚志を拝受いたしました。有り難うございました。取り急ぎ、御礼申し上げます。時候不順なおり、ご自愛ご専一に。合掌



Re: ご厚志に感謝 1998年10月26日(月)
 昇空さま メールありがとうございます。忙しさに甘えて遅れてしまいました。こころは無くさないようにと心がけてはおります。
 恐らく報恩講さまでお忙しいことと存じます。返信のメールは不要でございます。寄付させて頂きありがとうございました。合掌 KM





はじめてお便りいたします 1998年11月7日(土)
 こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶で、荻隆宣と申します。いつも貴ホームページを楽しく拝見しています。
 実は私もホームページを開設しているのですが、その中で「浄土真宗のホームページを制作されている皆様に副題−身体障害者のアクセスを考える−」というコーナーをこのたび新しく作りました。内容は障害者でも利用できる浄土真宗ホームページの作り方です。11月5日に第1回目をスタートし全8回で12月24日に終了する予定のちょっとしたセミナーのようなものです。残念なことに浄土真宗関係のホームページでこの問題に取り組んでいるものは、現在1件も無いと思われます。
 私もわからないことが多いのですが、私なりに勉強をしながらできるだけわかりやすくコーナーを作っていくつもりです。凡夫の計らいではありますがより多くの方のご意見ご質問ご批判を受けたいと考えています。お時間のあるときでも是非一度ご覧ください。そしてご指導ください。よろしくお願いいたします。
 報恩講でご多忙の事と思います。どうかお体には十分ご自愛ください。 合掌
浄土真宗本願寺派紫雲山浄土寺 荻 隆宣 Ryusen Ogi
http://www.ymg.urban.ne.jp/home/jodoji
jodoji@ymg.urban.ne.jp



荻隆宣様へ
お便り拝受 1998年11月7日(土)
 拝復 ただいま、お便り拝受いたしました。拙寺のホームページにご関心をお示し頂き、有り難うございます。また、ご案内により、早速、貴寺のホームページを拝見いたしました。お便りを頂戴いたしましたこと、取り急ぎ御礼申し上げますとともに、ご院住様の益々のご活躍を念じ上げます。合掌



お返事ありがとうございます 1998年11月8日(日)
 伴戸様 早速のご返事ありがとうございます。生意気なメールにてお恥ずかしい次第です。
 ところで貴HPは素晴らしく、当ホームページからリンクを張りたいのですが、ご許可いただけますでしょうか。もしご都合が悪ければご連絡ください。
 心の青年への手紙、楽しみに拝読させていただいています。合掌
浄土真宗本願寺派紫雲山浄土寺
荻 隆宣 Ryusen Ogi
http://www.ymg.urban.ne.jp/home/jodoji
jodoji@ymg.urban.ne.jp
TEL 0837-25-5007
FAX 0837-25-5008



荻隆宣様へ
Re:お返事ありがとうございます   1998年11月8日(日)
 拝復 「紫雲寺のホームページ」に過分なお言葉を賜り、恐縮に存じます。また、リンクのお申し出、有り難く存じます。いささか退屈なホームページでございますが、ご随意にリンクをお張りくださいませ。今後とも、宜しくお願い申し上げます。合掌

答礼リンク: 「IN PURE LAND」





はじめまして 1998年11月19日(木)
 はじめまして。今日は是非住職さんにお聞きしたい事があって、メールを出します。
 紫雲寺さんのHP拝見しました。実のところ私にはまだ難しく、よくわかりませんでしたが、住職さんのお人柄は伝わってきました。また、実のところこういう言い方はよくないですが、紫雲寺さんのHPにいこうとおもっていったわけではないのです。
 私の出身地は新潟県にある紫雲寺町です。そのまちのHPを検索したら紫雲寺さんのHPにであったというわけなのです。前置きが長くなりましたが、お聞きしたい事というのは、「紫雲寺」という名前についてです。もしなにか意味があるのなら、どういう由来なのか、知りたいのです。むかし、「紫の雲はめでたい」というはなしを聞いたような気もするのですが本当でしょうか?また、紫雲寺さんと我がふるさとは何か関係があるのでしょうか?もし何か御存じでしたらお教え下さい。
 紫雲寺町の紹介を少しだけさせてもらいますと、人口八千人強、田んぼと松林と海という自然にあふれた、小さな町です。250年ほど前は紫雲寺潟という潟があり、そこを干拓したそうです。(町には干拓音頭なるものもあります。)
 いま、私はふるさとから遠く離れた所にいますが、いつも心にある大切なまちです。もし「紫雲寺」について何か御存じでしたら、お忙しい所恐縮ですがお教え下さい。紫雲寺さんの名前の由来でもけっこうです。よろしくお願いします。
 では、寒さも厳しくなってきましたのでお体だけは大切に・・・
  紅葉が今さかりの法政大学多摩校舎より。HK



神奈川のHK様へ
Re: はじめまして 1998年11月21日(土)
 拝復 お便りを拝受いたしました。拙寺のホームページにお立ち寄り頂き、有り難うございます。お返事を差し上げるのが遅くなり、失礼いたしました。以下、私の分かる範囲でお応え申し上げます。

 (1)「紫雲」の意味について:
 「紫」は本来(暴走族御用達の色ではなく)神仙や帝王に属する高貴な色と考えられておりまして、「紫雲」は「瑞雲」を意味します。つまりは、おおせのとおり「紫の雲はめでたい」わけです。
 浄土教の伝統で申しますと、「紫雲」は臨終時弥陀来迎の証として「めでたい」ものと考えられております。伝説によれば、念仏行者の臨終時には、極楽浄土から阿弥陀如来が「紫の雲」に乗って来迎されると言われております。ですから、臨終に際して「紫雲」がたなびくという不思議な現象が起これば、それは阿弥陀様がお迎えに来られた証だというわけですね。
 ただ、真宗では「平生業成」を説きまして「臨終時来迎往生」ということを申しません。どういうことかと申しますと、信心を得て安らかな心で生きることが大切であって、臨終時にお迎えが有るか無いかはさほど問題ではない、というのが真宗です。ですから、私たち門徒は「紫雲」に拘らないということになります。新潟の「紫雲寺様」も拙寺も、真宗大谷派ですから、そういう意味では、何とも判然としないものを感じますね。

 (2)新潟県の紫雲寺町と「紫雲寺様」について:
 あなたの故郷、新潟県の紫雲寺町と「紫雲寺様」については、多少存じております。私自身は、紫雲寺町のホームページを拝見しただけで、訪れたことはございませんが、何年か前に妻の両親(福井県・般若山専教寺)が参詣させて頂き、紫雲寺町の美しい自然と町民の方々に、深く感銘を受けたと申しておりました。私共も、いつか訪れたいと思っております。

 (3)「紫雲寺様」と拙寺の関係について:
 紫雲寺町のホームページによりますと、「紫雲寺様」は18世紀に建立されたもので、「紫雲寺」という寺号は、「伝説の紫雲寺」にちなんで付けられたものと記されておりますね。つまりは、紫雲寺潟という干潟は、紫雲寺建立以前からあったということでしょうけれど、残念ながら「伝説の紫雲寺」と言われている、その「伝説」については、寡聞にして存じません。
 私の分かる範囲で申しますと、「紫雲寺様」と拙寺には、特につながりはないように思われます。拙寺は、京都に移り住んだ加賀と越前の門徒さんたちの「加越講」という御講から発展した寺院でして、血脈から言えば三重県の山奥にあります「転輪山明行寺」(一向一揆の折りに天台宗より転派)の分かれにあたります。
 拙寺の寺号は、同じく三重県の親戚寺院「紫雲山林証寺」の山号からとったものですが、この「紫雲山林証寺」という寺は、もともとは伊勢市の宇治山田にあったと聞いております。ちなみに、「紫雲山」という山号をもった寺院は他にもあるようでして、先日、「紫雲山浄土寺」という浄土真宗本願寺派の寺院の方からメールを頂戴いたしました。このお寺は山口県にあるそうです。

 ひとまずは、こんなところでしょうか。あまりお役に立てませんで、申し訳ありません。向寒の候、ご自愛を念じあげます。合掌



お返事ありがとうございます 1998年11月30日(月)
 伴戸昇空様 前略 お返事どうもありがとうございました。あまりにも丁寧なお返事にとても感激しています。
 「紫雲」が阿弥陀様にまつわるおめでたいものだということを知り、じぶんのまちが阿弥陀様に守られている様で、何だか嬉しいです。(おおげさな取り方ですけれども・・・)また、「紫雲」のめでたく、穏やかなイメージが「紫雲寺町」のイメージと重なるような気がして、ますますあの町が好きになりました。
奥様のご両親が我が町を訪れてくださったのですね。本当に何もこれといった観光地もないですが、自然と人柄のよさだけは誇れるものとおもっています。ぜひ、いつか近くを通るようなことがありましたら立ち寄ってみてください。私も京都へ旅した際は、ぜひ立ち寄らせていただきたいと思います。
 それでは、この辺で失礼します。本当にお返事ありがとうございました。風邪などひかぬようお体にはお気をつけて。HK







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