お便り&お返事 (1999年)

更新:1999年10月4日



こんにちは 1999年5月31日(月)
 突然のメール、失礼します。私は、主に仏教マンガの執筆活動をしているHOと申します。み仏の教えを、なんとか易しく、誰にでも楽しめるマンガで伝えることができないか、と考えておる者です。生まれが浄土真宗の家とあって、親鸞さまの教えに引かれておりますが、これがなかなかどうして、難しき教えで、悪戦苦闘の毎日であります。
 そんな私でございますが、現在ようやく自分のホームページをもつに至り、是非、そちらのホームページと相互リンクさせて頂けたらと思いまして、メールを送らせて頂きました。お忙しいこととは思いますが、私のわがままを聞いて頂けましたら幸いでございます。では、お身体くれぐれもお大事になされますよう。失礼いたします。HO



島根のHO様へ
メールに感謝 1999年5月31日(月)
 拝復 メールを頂戴し、有り難うございます。また、ホームページの相互リンクをご希望頂き、有り難く存じます。「紫雲寺のホームページ」は、ほとんど文字ばかりの、いささか退屈なページかと存じますが、よろしければ御随意にリンクをお張り下さいませ。ただ、当方のページには、リンクのコーナーがございませんので、悪しからず。今後とも宜しくお願い申し上げます。合掌



RE:メールに感謝 1999年5月31日(月)
 紫雲寺 伴戸昇空様 さっそくの返信、ありがとうございます。数日中に、リンクさせて頂きます。

>>「紫雲寺のホームページ」は、ほとんど文字ばかりの、いささか退屈なページかと存じますが、<<

 いえいえ、法話のコーナーは、私も心ひかれるものがございました。今後とも、よろしくご教導下さりますよう、お願い申し上げます。HO





はじめまして 1999年7月23日(金)
 いきなりこのようなメールを差し上げてしまい、たいへん申し訳ございません。私は19歳の学生で滋賀県在住のMIと申します。実は、私は2年ほど前から「自律神経失調症」という病気におかされ、今でも心身ともにたくさんの症状が出ています。ほんとうに苦しくて、たまに「自殺」という言葉が頭をちらついたりもします。でもやはりそれはできず、ちゃんと生きていきたいと思っています。そこで、紫雲寺のホームページを開いて読んでいると、すごく心が落ち着き、癒されたのです。もし都合が良ければ、この2、3週間、その紫雲寺で泊まりこみの修行をさせていただけないでしょうか。自分に精神力をつけ、この病気を克服したいのです。お暇な時にお返事をいただけると嬉しいです。MI



滋賀県のMI様へ
お便り、有り難うございます 1999年7月29日(木)
 拝復 お便りを頂戴し、有り難うございます。まずは、お返事が遅くなりましたことを、お詫び申し上げます。大変失礼いたしました。
 さて、お便りによりますと、自律神経失調症でお悩みとのこと。私にも似たような経験があり、ご心情お察し申し上げます。ちょうどあなたと同じ年齢のころのことです。「いっそ死んでしまえば楽になれる」と思ったこともありましたが、私は結局、生きる方を選びました。そのころのことは、ホームページの「心の青年への手紙」(第18通)“自殺と安楽死について”にも書かせて頂きましたので、一度ご覧になってください。
 ところで、「病気を克服するために紫雲寺で泊まり込みの修行をして精神力を付けたい」とのことですが、残念ながら、ご希望には沿いかねます。理由は二つございます。まずひとつには、拙寺は小さな町寺でして、ご利用頂けるような宿泊施設がないことです。いまひとつには、「修行して精神力を付ける」という方向には、想像なさっているような道は開けていないと思うからです。
 いわゆる自律神経失調症というのは、感情を意志の力で抑圧したところに生じる身体的反応のように思います。もう少し分かりやすく申しますと、こういうことです。何かに対して、感情は「嫌だ嫌だ、離れたい離れたい」と言っているのに、特定の価値観に染まった意志が「ダメだダメだ、逃げてはダメだ」と押さえつけておこうとしている。意志に押さえ込まれた感情は、身体をトラブルに巻き込むことで、敵対する意志の力を弱めようという作戦に出る。それが自律神経失調症というもののメカニズムではないでしょうか。
 その「嫌だ嫌だ」という感情が、身勝手な気儘に基づいているのか、あるいは生命の自然な欲求に基づいているのか、いささか難しい問題ではありますが、一般的に言えば、身勝手な気儘には、意志も荷担していますから、それが原因で身体的なトラブルにまで発展するということは少ないと思います。(ちょっと語弊があるかもしれませんが、厚かましくて身勝手な人間は、結構悩みもなく生きているものです。)
 さて、「修行して精神力を付ける」というのは、この意志の力を強化しようということでもあります。意志の力が強まって、もっと感情を押さえ込めば、どうなるのか。もうお解りでしょう。
 嫌なことに耐える力ばかり強めても、道は開けません。ときには、嫌なことを、「嫌だ」と認めることも大切です。私たちに必要なのは、強い精神力ではありません。精神力は、もうすでに身体を壊すほど強いのです。大切なのは、精神力ではなくて、自分を見つめ、世界を見つめる、穏やかな目ではないかと思います。実りある夏休みをお過ごしになられるよう、念じ上げます。合掌





ホームページを拝見いたしました 1999年7月26日(月)
 京都市在住のNMと申します。代々の真宗大谷派の家系です(と思います)。なぜか、正信偈の全文を検索したい気持ちになり、いろいろ検索していましたところ、偶然に貴院のホームページにたどり着きました。当初の目的を外れて、大変楽しく拝見させていただきました。ボリュームの多そうなページですので、全部を読破させていただくには、随分時間がかかりそうですが、これからもまめに拝見させていただくつもりです。これも、他力のお陰なのでしょうね。今後も大変楽しみにしております。NM



京都のNM様へ
お便り、拝受 1999年7月26日(月)
 拝復 拙寺のホームページにご関心をお示し頂き、有り難く存じます。今後とも、宜しくご指導賜りますよう、お願い申し上げます。
 インターネットで、「正信偈」の本文をお探しになっておられたとのことですが、もうお見付けになられましたでしょうか。間に合うかどうか分かりませんが、以下に「正信偈」の全文をお送りいたします。お役に立てば幸甚に存じます。合掌
 「正信念仏偈」(略)



ありがとうございます 1999年7月27日(火)
 正信偈全文をわざわざお送りいただき、本当にありがとうございます。各ホームページで探しておりましても、全文をシンプルにまとめてあるページがみつかりませんでしたので、大変たすかりました。
 父が亡くなって20年になろうとしています。小学生のころ父と入浴の際に、世間では百を数えるまでとなるところを、「帰命無量寿如来〜」と復唱させられていました。マージャンでパイをつもるときも、「南無阿弥陀仏!」ですから、相当信心深かったと思います。
 船井郡園部のJ寺(真宗大谷派)の現住職であるYM氏は亡き父の従兄弟にあたり、先日、その母(私にとっては大叔母)の葬儀に参列致しました。法事などでは、年配の方は全て正信渇を暗唱されます。最近(当年で満37歳になります)になって「これは私も暗記しなければならない」と感じだしました。血でしょうか?
 今後の益々のご活躍をご祈念致しております。





テープをわけていただけますか? 1999年9月24日(金)
 初めてHPを拝見いたしました。仕事場で、暇になると真宗関係のHPをながめていますが、久しぶりに“しっかり”読んでしまいました。おまけにプリントまでして……
 綿密な校正が行き届いた文章で、しかもお人柄がしのばれました。一度ご住職の声を聞いてみたいと思いました。法話13「今を感じる」のテープを、お送りねがいますでしょうか?
 自己紹介を兼ねて、わたしの文章を添付いたします。もし批判にたえるようでしたら、ご意見をください。 *門徒ではございません。 KT
 添付書類「聞法のポイント」(省略)



埼玉のKT様へ
Re:テープをわけていただけますか? 1999年9月25日(土)
 拝復 お返事が遅くなり、申し訳ございません。拙寺のホームページにご関心をお寄せ頂き、有り難うございます。また、過分なお言葉を賜り、恐縮に存じております。
 ご注文頂きました法話テープ「今を感じる」は、9月27日(月曜日)に発送させて頂きます。特に何ということもない「声」でございますが、また、ご感想など、お聞かせ頂ければ有り難く存じます。
 添付書類としてお送り頂きました「聞法生活のポイント」という長文の御論考、有り難く拝読いたしました。真摯に求道なさっておられる御様子、感嘆いたしております。お考えの通り、確かに、信仰の核にあるのは宗教体験には違いないと思います。ただ、私自身の問題として、宗教体験を求める心の奥底に、功利的な思いや、好奇心や、畏れが一切無いかと言われると、私にはいささか躊躇われるものがございます。
 あるいは、ご不快をお感じになるかも知れませんが、ご指摘のような、「ただ死後の安楽だけを願って合掌念仏している」ような人にも、「心に響かぬ話を繰り返しているだけ」のような人にも、そこには人としての悲しみが滲み出ているように思えます。私と同じ、凡夫の深い悲しみを、そこに感じます。
 今回の永代経法要(9月23日)には、そんな歯切れの悪い凡夫の信心の姿、私自身の姿を、お話し申し上げました。近日中にホームページに掲載させて頂く予定でおりますが、ひとまず、法話原稿のコピーを、ご注文のテープに同封してお送り申し上げます。御一瞥賜りますれば幸甚に存じます。今後とも、宜しくご指導賜りますよう、お願い申し上げます。合掌



テープを楽しみにしております 1999年9月27日(月)

> 私自身の問題として、宗教体験を求める心の奥底に、
>功利的な思いや、好奇心や、畏れが一切無いかと言わ
>れると、私にはいささか躊躇われるものがございます。

 これはわたし自身の問題でもあります。これも御こころの中としていただいておけばよいかと。ただほっとくばかりかと…………
 テープを楽しみにしています。 KT





「常照我」を拝読いたしました 1999年9月30日(木)

テープ及び法話原稿ありがとうございました。

◆「常照我」原稿22ページ

 >私には、分からないながらも、感じている世界がある。
>とはいえ、常にその世界を感じているかと言えば、そうで
>はないのですね。小さな安心を得て喜んでいるのも束の間
>で、いつままにやら、またぞろ、生活にまぎれていく。
>……信心を頂いたら、それで迷いは無くなるかと言えば、
>そうではないのですね。信心を頂いていても「迷っては気
>づき、迷っては気づき」の繰り返しです。ですが、「迷っ
>ては気づき、迷っては気づき」を繰り返しながら、信心が
>深まっていく。
>……信仰の生活とは、気づきの生活です。気づきというの
>は、大慈大悲の光のなかで世界を見るということ、仏の目
>で世界を見るということです。光は、常に私たちを照らし
>ている。

 聞き手を前のお話ですが

 >今回の永代経法要(9月23日)には、そんな歯切れの
>悪い凡夫の信心の姿、私自身の姿を、お話し申し上げました。

ということでございますので、ご住職のありのままのお姿かと推察いたします。真宗は今も生きていることを改めて感じました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
 失礼とは思いましたが、同じ信に生きるものとして、こころの対話が生じることを内心期待しながら、拙文を添付させていただきました。……わたしの法友である住職へあてたメールです。*わたしはただのサラリーマンです。*師についての聞法も現在はしておりません……。KT
 「添付文書」(省略)



埼玉のKT様へ
お便り拝受 1999年10月3日(日)

 拝復 お便り、有り難く拝読いたしました。清沢満之師のような歯切れのよい文章は、私のような凡庸な胃袋では消化しきれませんので、何とも申し上げられません。私は、ただ、平凡な日常のなかで、凡庸な者にも許された信を喜んでいるだけでございます。揺れながら回っている独楽のように、歯切れ悪く揺れながらも、揺れていることに命の働きを感じる。それが全てです。「常照我」でもお話し申し上げましたように、「心安らかに、光のなかで、人生を経験するために生まれてきた」のです。生まれてきてよかったと、喜んでおります。今後とも、宜しくご指導賜りますよう、お願い申し上げます。合掌



RE: お便り拝受 1999年10月4日(月)

 いつもご住職のお便りは、あたたかなお人柄と、ご信心の生活を感じさせていただけます。傲慢なわたくしの生き方を、照らしていただきました。ありがとうございました。またご意見を頂くかもしれません。その節はよろしくお願いいたします。KT







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