春夏秋冬・12

健全な精神は健全な肉体に宿る?

 「健全な精神は健全な肉体に宿る」。よく引用される言葉ですが、「健全な精神は健全な肉体にしか宿らない」と言っているようで、どうも落ち着かないものを感じます。私たちはむしろ、健康なときには、肉体の勢いに圧されて精神がくすんでしまっているということはないのでしょうか。

 ヘレン・ケラーのことを持ち出すまでもなく、「健全な肉体」が「健全な精神」の前提条件になっているとはとても思えないのです。病気になって初めて人の優しさに気づいた。車椅子に乗るようになって初めて世界の美しさに気づいた、生かされている自分に気づいた。これは「健全な精神」ではないのでしょうか。

    花が上を向いて咲いている
    私は上を向いて ねている
    あたりまえの ことだけれど
    神様の深い愛を感じる

            わたしは傷を持っている
            でも その傷のところから
            あなたのやさしさがしみてくる

    いのちが一番大切だと 思っていたころ
    生きるのが苦しかった
    いのちよりも大切なものが あると知った日
    生きているのが 嬉しかった

 事故で手足の自由を失い、筆をくわえて美しい詩と画を描き続けている星野富弘さんの作品です。森の小道を飾る木漏れ日のような穏やかな光を感じませんか。これは生命の賛歌です。私たちが生まれてきた目的は、本当に「人」になっていくこと、「生命の真実」に気付いていくことではないでしょうか。辛いことも悲しいことも、全てはそのための手がかりだった。このことに気付くのが本当の「健全な精神」ではないかと思います。

 「健全な精神は健全な肉体に宿る」。この有名な言葉は、ローマ時代の詩人ユウェナーリスに由来するもので、もともとは「健全な肉体に健全な精神の宿ることが願われよう」というものだったそうです。ユウェナーリスは「健全な肉体」の持ち主に一種の傲りを見ていたようで、彼が本当に言いたかったのは、「健全な肉体にも健全な精神が宿るように願う」ということだったようです。それなら、よく分かるような気がします。