春夏秋冬・15

星辰雑話

夜空に想う

 七夕の笹飾りにどんな願い事を書いたのか憶えていない。もう何十年も前のことである。日が暮れると、東の空には、南北に流れる天の川をはさんで織姫と彦星が輝いていた。もっとも、7月のかかりはまだ梅雨の名残で星の見えない夜が多く、七夕を旧暦でむかえる通人もいた。

 旧暦なら今年は8月9日が七夕。宵になれば、東の空高くに織姫と彦星が見え、西の山の端には上弦の月がかかっているはずだ。だが、そこにはもう天の川はない。都会では天の川まで暗渠になってしまい、そこに川が流れていることさえ知る人がなくなっていく。

 10年ほど前の夏、長野の山中で夜を過ごしたことがある。空には無数の星がまたたき、天の川が静かに横たわっていた。空の一角に目を向けると、それを待っていたように、閃光を発して星がひとつ流れた。夜空に荘厳な緊張が広がり、神々しい感動が背筋を駆け昇った。永遠にも等しい一瞬だった。燃え尽きることで永遠をかいま見せてくれた星に、瞳が潤んだ。その気づきを確かめるように、満天の星がじっと私を見つめていた。

 ルンビニーでゴータマを産んだマーヤーも、熱にうかされた目で、おそらくは張られた天幕の隙間から、夜空を見上げて泣いたことだろう。尽きていく命に永遠をかいま見て、その目には涙があふれたことだろう。また、菩提樹下の瞑想から出て大地にひとりで立ったとき、ゴータマの目も潤んでいたに違いない。永遠とひとつになった感動で満たされ、その目には涙が光っていたに違いない。そして、満天の星が、その涙を目撃したに違いない。

 宇宙は意味に満ちている。だが、人は年々その意味から隔てられていく。文明の老廃物が夜空を覆い、天の川は埋め立てられ、星は塗りつぶされていく。人はもう、夜空を見上げようともしない。そこにはもう、無意味な暗闇しか残っていないからだ。

 変わったのは夜空ばかりではない。蛙の鳴き声も、蝉の声も聞こえず、草いきれにむせぶことも、小川に足をつけることもなくなった。だが、決して、宇宙が意味をなくしたわけではない。意味は気づきを待っている。宇宙は、文明の殻を破って生まれてくる永遠への気づきを待っているのだ。

 空を見上げる眼差しには、永遠への気づきが宿っているように思える。空を流れる雲に陶然と心を遊ばせた日々の記憶が、静かに問いかけてくる。このまえ空を見上げたのは、いつだったかと。