春夏秋冬・18

初心

初心

 「お前は一体何者なのか……どこから来て、どこに行こうとしているのか……お前をお前たらしめている者は何なのか……この大きな命がみえないのか……」

 こんな問いが自分に投げかけられ、驚きを伴った困惑が自分の腹の片隅にフワッと腰を下ろした。そうだ、自分が長い間、大地に両足を下ろしていないような思いに苛立ちながら、八方に走って大声で叫ぼうとしながらも、口を開けたまま言葉にならなかったのは、この問いなんだ。

 いや、そうじゃない。何とかこの問いに直面せずにすむような方へばかり顔を振り続けていたんじゃないか。自分は、それ自身が全ての意味である偉大な「命」の存在に気づいていたんじゃなかったのか。

 しかし、自分はその「命」のなかに歩みを進めようとはしなかった。この「命」を、まず理屈で解剖してよく知りたいと思った。この「命」のなかの世界の地図をはっきりと作ってから歩み入ろうとしていた。「絶対の世界」に、不信をもって近づこうとしていた。

 理屈を超越した世界を、理屈で解き明かすまでは安心できないと思い込んで過ごしてきた不幸を思う。さらには、この問いの、私の腹への落ち着き具合が何とも軽げなることの不幸を思う。

 新しい生命の誕生に、その両親の計らいを遙かに超えた大きな「命」を垣間見た瞬間があったじゃないか。「不信」との対立概念ではない「信」、「不満」との関わりをもたない「満足」、生きているというそのことだけが全き意味であるような不可思議な「命」を、木漏れ日のごとく、チラチラとではあったが、何とも眩しいものとして感じた時が、確かにあったじゃないか。あの時は、どうして飛び込んでいけなかったのだろう。

 自らの問いに素直になろう。小さな殻のなかで、しかめっ面の王様でいては、永遠に灰色の壁は崩れ落ちない。心から頭を下げて、一切に問うていこう。「私は一体何者としてあるのでしょうか」と。もう顔をそむけるための理由など探し回るのはよそうじゃないか。



 私は寺に生まれましたが、本当に仏教と出会ったのは二十歳を過ぎてからでした。そして結婚した年の夏に、大谷派の教師(住職資格者)になりました。29歳のときでした。これはその本願寺での教師修練で、最後に提出した課題作文(テーマ:「なんと呼びかけられ、どう応えていくのか」)の写しです。仏教徒としての、また僧侶としての、私のスタート地点つまり「初心」を今一度確認するつもりで、この文を掲載いたしました。あれから19年。いまだ初心を忘れていないと言えば格好よく聞こえますが、スタート地点からほとんど離れていないというのが本当のところでしょうか。南無阿弥陀仏。