春夏秋冬・21

あたりまえの反対はありがとう

 先日、ある食堂に入ったときのことです。目の前に置かれたコースターに次のような言葉が書かれていました。

  「あたりまえの反対はありがとう」

 はじめはその言葉がすっと入ってきませんでしたが、「ありがとう」は漢字で「有り難う」と書き、「有り難い」とはめったにないという意味、「あたりまえの反対はめったにない」、そう考えて、なるほどと頷けました。

 「あたりまえ」だと思っていたことが、本当は、「あたりまえ」のことではなかった。そんなことに、ふと気づいたことって、ありませんか。

 私は、何年か前、山歩きをしている時に、履き慣れた靴の靴底が剥がれてしまったことがありました。靴底はたえず衝撃を吸収し体を支えてくれていますが、普段は支えられていることを意識していません。靴だから当然とでも思っていたのでしょう。そうなって初めて支えられていたということに気づきました。

 また、以前、炭鉱ツアーというのに参加した方のお話を聞かせてもらったことがあります。炭鉱の奥深くまで、むき出しのエレベーターに乗り、外気を感じながら降りていく。乗り込む前はどんな世界が待っているのだろうと期待していたのに、地上の光が届かないところまで来ると、だんだん不安になり、果たして戻れるのだろうかと思うようになっていったといいます。

 途中からは未知の世界への期待感は影を潜め 、いっときも早く地上に戻ることばかり思うようになった。かくして最深部に到着し、再び地上を目指し上昇、暗闇を抜け、地上の光が差し込んできたとき、緊張がほぐれ安堵と喜びが溢れた。地上に出ると風は柔らかく、光はあたたかく、鳥の鳴き声や仲間の声が聞こえてきた。なんて素晴らしい世界なんだと思ったということでした。

 普段はなかなかそのようには感じることはできませんが、「あたりまえにあるものを一度失うような経験をしたおかげで、あたりまえにあるもののありがたさに気づいた」とおっしゃっておられました。

 そういうことを思いますと、世界の見方を少し変えてみるだけでも、人生の味わいは変わってくるのかもしれません。

 家族や友人に対してもそうかもしれません。いつもそばにいてくれるものと思っていますが、明日のことはわかりません。明日また目覚める保証などどこにもないのですから。

 もし今、あたりまえのようにいてくれる家族や友人らと共に過ごせているのなら、それはけっして「あたりまえ」のことではなくて、とっても「ありがたい」こと。

  「あたりまえの反対はありがとう」…

 私たちは、気づいていないだけで、本当は、あたりまえのことなど、ひとつもないのかもしれませんね。

合掌

                                釈 了徹