春夏秋冬・26

梅雨におもう

 みなさんこんにちは。梅雨の季節になりましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。以前は、梅雨といえば、雨がしとしとと降り続いたものですが、今やゲリラ豪雨。梅雨も様変わりしてしまいましたね。

 春から夏にかけては草木の新芽が伸び、生命のエネルギーが溢れます。新緑の息吹はなんとも清々しいものです。土に接する機会が少ない現代人は「雨の恵み」を意識することは少なくなりましたが、雨は様々な命を育んでくれています。

 この時期、お釈迦様がおられたインドでは出家修行者たちが一ヶ所にとどまり、外出しないで修行をする「安居(あんご)」というものが行われていました。雨季に行われるので雨安居、またその期間が夏なので夏安居とも呼ばれます。

 日本にも安居は伝えられましたが、「安居」の本来の目的は、雨期には草木が生い繁り、昆虫などの数多くの小動物が活動するため、遊行をやめて一定期間ひとところにこもり無用な殺生を防ぐというものです。

 虫たちの繁殖期に出歩くと、うっかり踏みつぶしてしまうかもしれませんからね。命を尊び、できる限り殺生を避ける。それが仏教の基本精神なのですが、なかなか難しいことです。

 私には、忘れられない記憶があります。虫を殺してしまった記憶です。

 幼い頃は田畑を走り回り、カゴいっぱいに昆虫を集めるのが楽しみでしたが、大きくなるにつれて、だんだんと虫取りもに行かなくなり、何年も経ったある夏の暑い日、夜だったと思います。

 何人かの友達と道端でおしゃべりをしていた時、地面に一羽の蛾がいました。力なく羽をパタ、パタと今にも命尽きる、まさに虫の息でした。

 私は何を思ったのか、その蛾が今にも命を終えようとしている姿を見て、苦しそうだから楽にしてやろうとでも思ったのか、上から足で踏みつけたのです。その時、頭の中で”ブチン”という音が響きました。

 それは靴底で虫の潰れる音ではなかった。耳ではなく頭の中で、命がちぎれる音がしたのです。その重く冷たい”ブチン”という音は、今でも記憶の底にこびりついています。胸にズドンと重たい感覚が広がりました。

 あぁなんてことをしてしまったんだ。頭を抱え膝から崩れおちそうになりました。時が戻せるなら戻してほしかった。虫が苦しんでいることから解放してやりたいという気持ちは単なる自分の傲慢さに過ぎなかったのです。

 自分がとった行動は命のことなんて何にも考えていない愚かな偽善者の姿だったのです。自分がどれだけ浅はかで勘違いしている存在であるかということを教えてもらいました。その蛾が、少年だった私の心に、命の重みを刻んでいってくれました。

 それ以降、虫を殺していないとは言いませんが、無駄な殺生はするべきではないと強く思うようになりました。今まで叩いていた蚊や、新聞紙を丸めて退治せねばと思っていたゴキブリさえ外に出すようになりました。昆虫や小動物たちの命も、大切な命なのです。

 「一寸の虫にも五分の魂」という諺があります。世間では「弱いものにも意地がある」といった奮起を促す言葉として捉えられていますが、由来はそうではありません。

 鎌倉時代に北条政子の甥にあたる北条重時が記した『極楽寺殿御消息』の中に「一寸の虫にも五分の魂」の由来とされている、こんな言葉があります。

 「たとへにも一寸のむしには、五分のたましゐとて、あやしの虫けらもいのちをはをしむ事我にたかふへからす」。小さな虫であっても、命を大切にする思いは人間と変わらないということです。

 雨が多くなるこの時期、外出はし辛くなります。この機会に、普段外にばかり向いている気持ちを少し内に向けてみる。そして、あらゆる生き物の命の大切さを思う。そんな時間をもてたら、それが私たちの「安居」になるかもしれません。

合掌

                             釋了徹