春夏秋冬・28

時を経て

 お念仏を唱えておりますと、伸びやかに声が出る日もあれば、喉が蓋されたように声が出にくい日もあります。声が出にくい日は、その理由を探したり、声の出し方をああでもないこうでもないとこねくり回し、雑念に振り回されたりすることもあります。

 初めてお経を声を出して読んだのは、小学生の頃、夏休みだったと思います。従兄弟と一緒に祖父から正信偈のお勤めを教わりました。毎日声に出してお勤めしていると、お経に何が書かれているのかが気になってきました。読むことに慣れてくると、意味が知りたくなる。自然な思いだったと思います。

 ある時、祖父に「お経には何が書かれているの」と尋ねてみました。すると祖父は「意味は考えんでええ」と言いました。(それから十年以上経って、改めて正信偈の現代語訳を読み、その意味を知りました。)

 私は、自分の頭で考えることが大切だから、なんでも、その意味を知らねばならないと思っていました。人生経験を積むとなおそのことを強く思うようになり、祖父が話してくれたその言葉を意識することはありませんでした。

 その後、私は大谷大学で、仏教を学び、大谷派教師資格を取得しました。試験では、ある程度決まった答えを求められますが、宗教はいのちに問いかけていくものです。公式があり、必ず答えが導き出せるというものではありません。

 実際、おまいりに伺うようになり、ご門徒さんと過ごさせていただく時間は、学問としての仏教とは違うものでした。

 以前、小さいお子さんを亡くされた方のお家に伺った時、おかけする言葉が見つからず、何一つ話すことができなかったのです。

 ご葬儀から中陰、そして一周忌までご一緒させていただく中で、様々なお話を聞かせていただきました。大切な人を亡くされた方のお言葉はいのちに触れた実感が伴っており、手を合わされたお姿に頭が下がりました。

 私にできることは、お経を読み、その時を共にすごさせていただくことだけでした。僧侶というのは、教えるという立場ではなく、むしろ聞かせていただく立場なのだと気づきました。

 「意味は考えなくてええ」という祖父の言葉は、頭ではなく体から、まずはそこに身を置くことが大事であるということを教えてくれました。

 最初から自分の物差しで計ろうとした私に、問いを残してくれたのかもしれません。もう祖父に尋ねることはできませんが、ご門徒さんとの時間を通してそのように感じるようになりました。

合掌

                       釋了徹