春夏秋冬・29

一日一回

 みなさんこんにちは。今回は、1日1回「ナムアミダブツ」と口に出すことを一緒に始めてみませんかというお話です。この「一日一回」というのがミソなのです。なかなか称えられないお念仏も、称えられるようになりますよ。

 少し前のことなんですが、息子が保育園に行きたがらなくなったことがありました。本人にその理由を尋ねてみると、保育園の発表会で鍵盤を弾くことになっているのだけれど、鍵盤ができないから行きたくないと言うのです。

 保育園でしか触わることのない鍵盤、うまくできないのも無理はないかと思いましたが、嫌だなぁという気持ちが大きくなってしまわないかと心配になりました。その時、先日読んだ『小さな習慣』という本のことを思い出しました。

 「小さな習慣」というのは、何かを出来るようになりたいと思えば、うまく出来ても出来なくても、必ず「一日一回」だけ実行するというものです。「一日一回」という小さな習慣でも、続けていけば、徐々に本格的な習慣に育っていき、ついには生活の一部になっていくというのです。

 やってみようと思いました。残念ながら私は弾くことが出来ませんが、一緒に鍵盤の前に座ることはできます。その日から「1日1鍵盤」と題し、1日に1回だけ一緒に鍵盤の前に座り、息子が保育園で聞いてきたフレーズを1回だけ復習するようにしました。出来なくても1回だけ。これを毎日続けていくと、少しずつ変化が起こってきました。

 最初の頃、1回弾いてやめていたのが、うまく弾けるようになるまで自分から何度もやってみるようになり、鍵盤やろう!と自分から鍵盤の前に座り、出来栄えを尋ねてくるようになりました。

 そして、先生からも褒められるようになり、発表会当日、立派に演奏を終えた息子の顔は満足感に満ちていました。「一日一回」から始めた小さな小さな習慣が、大きな変化をもたらしたのです。

 さて、話を戻します。お念仏を称えることは、鍵盤の練習とは違って、上手になっていく喜びがあるというわけではありませんけれど、この「一日一回」の小さな習慣は、きっと、お念仏を身につけるうえでも有効です。

 1日1回「ナムアミダブツ」と口にする。私たち真宗門徒にとっては、「ナムアミダブツ」と口に出すことが習慣になって、お念仏とともに日常生活が送れることが大事なのです。お念仏とともにある生活のなかで、いのちの呼び声に気づいていく、気づく力が育っていくのです。

 親鸞聖人は『浄土和讃』の中で、「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけ たてまつる」と詠んでおられます。たとえどんな世界に暮らしていようとも、お念仏する者を必ず救いとり、決して捨てることのないおはたらきを、阿弥陀と申し上げる、という意味です。

 「ナムアミダブツ」と口に出すことが、阿弥陀の光を受けて育つ花の種だとしたならば、1日1回という習慣が土壌に与える水分となります。光に向かって育つには土を湿らせることが重要です。乾いては湿らせる。それを続けていくだけで光に向かって伸びていきます。あとは自然におまかせです。

 「ナムアミダブツ」は、阿弥陀仏の呼び声です。「ひとりではないんだよ。決して捨てない、どうか安心しておくれよ、大丈夫だからね」と寄り添ってくださるその声を、素直にスッと受け入れられるようになり、こころにお念仏の花が咲きます。「ナミアミダブツ」は、人生のたしかな依りどころとなる言葉です。

 人は習慣によって作られ、人生は習慣の織物と言われます。「ナムアミダブツ」と手を合わすことは、いのちの呼び声に耳を傾け、受け止めていく姿であります。「ナムアミダブツ」と口に出すことで、仏の光に照らされて歩む生き方が、「いまここから」始まっていくのです。では、どうぞみなさんもご一緒に。

 「ナムアミダブツ」。

 合掌

                            釋了徹