春夏秋冬・3

紫・野・昔・日・慕・情・独・語

むらさきの むかしをおもう ひとりごと

 年寄じみたことを言うと笑われるかもしれないが、寺のある紫野あたりの変りようを思うと、わずか三四十年のことであっても昔日の感がある。

 三十年ほどまえまでは、このあたりもけっこう田園的な趣を残していた。道路もまだ舗装されてはいなかった。雨が少し強く降ると寺の前の通りは濁流と化し、そのたびに坂下の駄菓子屋が洪水にみまわれた。

 花のころでも近くの大徳寺には人影もまばらで、観光バスが殺到するさまなど想像することもできなかった。祖母につれられて境内を散歩していると、高桐院の前住が、庭の桜が見ごろだから入っていらっしゃいなどと言ってくれたものだ。

 西賀茂の方へ足をのばすと当時は立命舘の馬場があって、よく柵ごしに馬を見に行った。馬場をとり囲むように灌漑用の小川が流れていた。その向かい側には御土居の跡が小山のように残っていて、わんぱくたちの格好の遊び場になっていた。

 秋になれば田畑には、はさばが実りに満ちてたちならび、わらを焼く煙の香が夕暮にただよった。家路をたどる人々の影が土ぼこりの道路に長くのび、家々からは裸電球の光がもれて、時間は道草をくう子供のようにのんびりと過ぎていった。

 今はもうそれぞれに移ろい行き、残っているのは輝かしい日々の思い出だけだ。ものの価値に気づくのは、時としてそれを失ってからである。美化され神聖化された幼年の日々が、陽光の中にきらめきゆれる。思い出が、静かで美しい田園風景に、感傷的なあこがれをいだかせる。

 満ち足りて無為とたわむれた日々を思いつつ、人目をはばかるように、乾いたため息をそっとつく。…過ぎ去りし時をいとおしむは力無き者のくりごとかもしれない。だがそれは、立ち止まることのできる者だけに許される、ささやかな贅沢かもしれないのだ。