春夏秋冬・30

いのちを思うご縁

 昨今の新型肺炎の影響で私たちの生活の仕方は大きく変わりました。マスクや消毒は欠かせないものとなり、人に会うことも制限されましたが、皆さんは、いかがお過ごしでしょうか。

 緊急事態宣言が出された4月ごろだったと思います。家内の母と電話で話していた娘が、電話を切った後、私にこう言いました。「おばあちゃんにね、どうか、どうか無事でねって言われた。なんか戦争中みたいやね」と。

 その言葉を聞いて、ハッとしました。以前、戦争を経験なさったご門徒さんが、戦争はバタバタっと前触れなく始まったとおっしゃっていたことと重なりましてね。思ってもいないことが急に起こってくる。これは娑婆の常ですが、いのちのことにおいてもそうなのですね。

 いのちあるものは、いずれは死ぬ。頭ではわかっていても、我が身の問題としては、なかなかまともに受け止められません.

 平均寿命が伸び、ものが溢れる飽食の時代に生きている私たちは、いのちに対して鈍感になってしまっているような気がします。いかがですか。「自分はまぁまだ大丈夫」。ぼんやりとそんなふうに思っておられませんでしょうか。

 本当は、明日死ぬかもしれないし、あるいはひと月後に大病を患い、半年後には愛する家族と別れなければならないかもしれないのです。いつものように眠ったとしても、翌朝目が覚める保証はありません。

 「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」。これは、親鸞聖人が9歳の時に詠まれた和歌です。「今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」。

 親鸞聖人はご自分のいのちを花にたとえられ、明日自分のいのちがあるかどうかわからない、だからこそ今を大事に、と和歌に想いを込められました。いのちに鈍感になっている私自身に響くメッセージです。

 明日が保証されないからからこそ、今日が大事。なのに、私たちは、どうでしょう。目覚めた朝に、「あぁありがたい、今日も生きている」と喜んでいるでしょうか。目が覚めて、まず思うのは一日の予定。山積した予定に溜息がもれて、空は晴れているのに、心は曇り空、なんてことはないでしょうか。

 今回のパンデミックは多くのことを私たちに投げかけました。「いのち」という言葉がテレビやインターネットで連日報道され、食卓での会話も変わりました。それぞれが日常の生活、仕事の仕方、家族のあり方、生き方を問い直すきっかけとなったはずです。

 ぼんやりと生きるのと、限られた時間と受け止め生きるのとでは、人生の味わいは大きく変わります。居てあたりまえと思って接する家族との時間と、共に過ごせるのはあとわずかかもしれない、そう受け止めて接する家族との時間では、どちらが大事に感じられるかは言うまでもないでしょう。そのことに気づいたら、自ずと接し方も変わってくるのではないでしょうか。

 大切なことは意外とシンプルなのかもしれません。いつもと変わらぬ朝、日常という普段の生活のありがたさ、幸せを感じるのは何気ない瞬間です。本当の幸せとは何か、それぞれが賜ったいのちに問いかけていく、新しい生き方へのご縁をいただいたのかもしれません。

合掌

                           釋了徹