春夏秋冬・31

お念仏に思う

私の現在地

 こんにちは。コロナ禍でこころ騒ぐこのごろですが、お同行の皆様には、いかがお過ごしでしょうか。お念仏は、称えておられますでしょうか? お念仏は称えるもの。お念仏を称えて聞いていると、こころが静かになっていきますよ。

 「雑念」というものは、なかなか止みませんが、御仏壇(おないぶつ)に、お火をあげ、お線香を焚いて、息を整えお念仏を称えていますと、不思議なことに、頭の中の波が、徐々に徐々にスーッと、穏やかになって、お念仏が聞こえてくるような気がいたします。

 いつからかこのような経験により、雑念が次々に湧いてきても、もぐらたたきのように叩いて引っ込めるのではなく、お念仏に身を任せるようになりました。

 「念仏」は、古くから中国の仏教界で行われていた、心の雑念を払いのけ、心を純粋に保って集中させるという、「三昧(さんまい)」の行でした。世間では、「読書三昧」とか「贅沢三昧」とか、ひたすら何かに没頭している状態を「三昧」といいますが、三昧というのは、もともと仏教の言葉で、「何ものかに心を集中することによって、心が安定した状態に入ること」という意味です。

 読書であれ仕事であれ、ひたすら何かに没頭して、そのことによって人生が充実しているのであれば、それはそれで幸せなことですが、実際はなかなかそうはいきませんね。

 私たちは常に頭の中で「オシャベリ」をしています。常に何かを考えていると言ってもいいでしょう。見ながら考え、食べながら考え、話しながら考える。いわば、頭はいつも「思考三昧」にあるわけです。

 この思考(頭の中のオシャベリ)が続いている限り、こころが静かになることはありません。ですが、この「思考三昧」は、はなかなか自分の思い通りになるものではありません。「頭のおしゃべり」を止めて、こころを鎮めるには、どうすればいいのでしょうか。

 仏教では、伝統的に、身を調える(コントロールする)ことで、こころを調える、と言います。身を調えるというのは、まずは身の習慣を変えるということでしょうか。それには、たとえば、贅沢三昧には節約、飲酒三昧には休肝日が要であるように、思考三昧にはお念仏が要です。

 最初に申しましたように、御仏壇(おないぶつ)に、お火をあげ、お線香を焚いて、息を整えお念仏を称えていると、徐々にこころが穏やかになって、お念仏が聞こえてくるような気がいたします。

 お念仏を聞かせていただき、思考三昧になっている頭の声をしずめ、生活の中に心穏やかな時間を持つことが大事なのではないでしょうか。

 ただ、歎異抄の第八条には「念仏は非行非善なり」と書かれています。念仏は、自分のはからいによって行うのではないので、修行ではありません。また、自分のはからいによって努める善でもありませんから、善行とも言えません。念仏は、ひとえに阿弥陀仏の他力本願のはたらきによるもので、自力を超越していますので、それを称えるものにとっては、修行でもなく善行でもないのです。親鸞聖人はこのように仰られたとのことです。

 お念仏は自らの口で唱えるものでありながら、自らが唱えているものではないということです。この聖人のお言葉を味わわせていただきますと、お念仏を行として捉え、三昧効果を期待している自分が透けて見えてきました。

 たしかに、こころを鎮めたいと思って称えるお念仏には、自力の気配がいたします。ですが、こころが静かになって、聞こえてくるお念仏には、自力の気配は無いようにも思うのですが、いかがでしょうか。

 お念仏の教えにご縁を頂きながら、ここが私の現在地であります。これからも、お念仏を称え、聞法させていただきたく存じております。どうぞ、ご一緒に、お念仏を称えてまいりましょう。ありがとうございました。

南無阿弥陀仏

                         釋了徹