春夏秋冬・32

夢告

 私たちは1日の4分の1は横になって眠っています。

 できることならぐっすり眠りたいものですが、浅い眠りを繰り返しすぐに目覚めてしまう日もあります。そんな日に限って、眠っている間に見た夢の内容を気にしたり、意味づけをしたりして、一喜一憂することがあります。

 どんな夢を見るかは体調による部分はあるにせよ、コントロールするのはなかなか難しく、おおかた眠った後はお任せするしかありません。

 夢は目覚めてすぐ書き留めておかない限り、大抵の場合は忘れてしまいます。しかし、ずっと忘れることのない夢、その後の人生を変えるような夢があるのかもしれません。

 神仏が夢において何らかの意思を示し告げることを、「夢告」と言います。「夢のお告げ」や「神が夢枕に立った」などという言葉は今でも使われますが、平安時代から鎌倉時代にかけて、神仏からの「夢告」を求めて、神社や寺院に参籠することが盛んに行われました。

 宗祖親鸞聖人も、比叡山を下り、京都の六角堂に籠もられた際、夢告を受けられたと伝えられています。六角堂は、慈悲の象徴である観音さまをまつられたお寺で、その化身である聖徳太子が建てたといわれています。

 親鸞聖人はここで100日間、ただひたすらに誰でもが救われる道を求め続けられました。100日間の参籠の終わり頃、疲れ果ててうとうとと意識のもうろうとしていたときに、枕元に不思議なことに観音さまが聖徳太子となって現れたのです。

 聖徳太子は「あなたの悩むことはよくわかる。宿縁によって、たとい戒律を破ることがあっても、一生の間わたしがその仏道者の身を包み守り、臨終には導いて極楽浄土へ生まれさせよう。これはわたしの誓願であるから、一切の群生に説き聞かせなさい」と聖人に命じ、聖人は「数千万の人々にこのお告げを聞かせなければならない」と思ったところで、夢から醒めたとのことです。

 その後、親鸞聖人は、ひたすらに法然上人のもとに通い続けられ、法然上人のもとで、修行者だけでなく百姓も町人も武士も商人も含めて、あらゆる人のたすかる浄土の教えに出あっていかれたのです。

 親鸞聖人はそのご生涯において、この時の夢告以前に、二度、合わせて三度の夢告を受けられたことが伝えられています。夢告、夢のお告げと言いますと、ある時突如、天からの言葉のように聞き取ったものと思ってしまうのですが、親鸞聖人の場合は常に、ひたすらな参籠を通して聞き取られた言葉でありました。

 宮城しずか先生は参籠を通して受けた夢告について、『和讃に学ぶ ー 正像末和讃』の中で、次のように仰っています。

 「参籠とはただ御堂に籠るというのではありません。深い迷いに陥り、進退に窮した時、その身を挙げて、自らが抱えている問題を見つめ直し、祈り、問い詰めることであったのです。そのため、そのご生涯そのもの、その生き方そのものを教えとして受け止め、学び続けてこられた聖徳太子の前に身をすえられたのです。

 聖徳太子にとりすがられたのではありません。聖徳太子のご生涯、その太子のきびしい歩みに照らし出される我が身に耐えて、担うべき課題を聞いていかれたのです。ねがい求めるべきものはなにかを聞いていかれたのです。そして、その問いつめの末に、聖人を包みとらえた言葉が、夢告の言葉であったのです。言いかえますと、夢告になるまで、問いつづけ、問いつめられたということです」と。

 夢告とは、人生を変えてくれるようなお告げを求めて実践していくものではなく、如来という字に表されるように、自己を問い続けた先に、「如」(真理の世界)から「来」てくださるものなのかもしれません。

 親鸞聖人は教行信証の中で、「他力というは如来の本願力なり」と仰っています。このお言葉は、自力か他力かの二択ではなく、自力を尽くした果てに自力が破れて、他力をたのむ身となった。そういうご自身の体験に基づいた大切なお言葉のように思います。

 私はかつて、「夢告」というものがなかなか理解できませんでした。人生を変えるような夢のお告げが「夢告」だとすれば、それこそ夢のような話に思えて、なかなかうなずけなかったのですが、そうではなかった。

 親鸞聖人のお受けになった「夢告」というのは、どこかの天から言葉が降ってくるというような夢物語ではなく、仏の前にぬかずき、自己を空しくしたときに聞こえてきた、「いのち」の奥底からのメッセージだった。

 宮城先生の御本を読ませていただいてから、「夢告」というものが、私たちみんなに引き当てられる現実感のある事柄として、受け止められるようになった気がいたします。

南無阿弥陀仏

                         釈了徹