春夏秋冬・33

お釈迦さまを訪ねて

 お釈迦さまは、今からおよそ2500年前の4月8日、現在のネパール南西部にあるルンビニーの花園でお生まれになったと言われています。

 以前、お釈迦さまがお生まれになったネパールのルンビニという町を訪ねたことがあります。ネパールの首都カトマンズからバスに揺られ、ルンビニを目指しました。半日程度で着くと聞いていましたが、エンジントラブルや道の状況で何度も立ち往生し、目的地までは結局1日半程かかりました。幸いにも隣の席に座ったバーレーン人の青年が気さくに接してくれ、長時間の移動も苦になりませんでした。

 その青年は休憩所で私の分まで食べ物を買ってきてくれ、そのうえ食べ方まで教えてくれました。お代を払おうとしましたが彼は受け取ってくれませんでした。私は記念に日本の硬貨をプレゼントしました。すると彼も自国の紙幣を渡してくれ、お互いの国の通貨を交換することになりました。

 人との出会いは旅に安心感を与えてくれます。行ったことのないバーレーンという国に親しみがわき、人の優しさが身に染みた瞬間でした。彼は仕事の為に来たと言っており、ルンビニに着く手前のバイラワという町で降りて行きました。時間はかかりましたが、彼のおかげでこのバスに乗って良かったと思いました。

 ルンビニに到着した頃には日が傾き始めており、早速、宿を探さなければなりませんでした。町の中を散策し、良さそうな安宿を見つけ、そこを拠点に数日滞在しました。町というより、村という方がしっくりくるようなゆったりとした空気感、辺り一帯夕陽に照らされ、鮮やかな茜色に染まっていました。なんて穏やかなとこなんやろうと感じたことを覚えています。

 ルンビニの朝は空気が澄みわたり、虫や鳥の鳴き声が鮮明に聞こえました。ところどころから立ち上る田畑の煙が風の流れている方向を教えてくれます。散歩をしていると、村の方がチャイを振舞ってくれました。日本のミルクティーよりも甘くシナモンの香りが鼻から抜けていき、味は格別でした。

 五感はその時の環境や体調によって感じ方が変わります。旅をすると脳が入れ替わったかのような気分になり、それまでの価値観がカタカタと変わっていくことがあります。旅先で感じる心が自由になる瞬間は、高価な宝石や豪華なディナーより、私に贅沢な気分を与えてくれます。

 ルンビニ園には大きな菩提樹の木があり、そこに多くの僧侶が集まって瞑想をしていました。そのお坊さんたちは優しい表情をしていました。私と目が合うと微笑みながら手招きし、私をそのグループに招き入れてくれました。

 私もそこに座り、しばらくの間、共に座らせてもらいました。木々が揺れ、鳥のさえずりが重なり合い、風が頬をすり抜けていきます。座っている足には大地の温もりが伝わり、旅先とは思えない安堵感がありました。

 当たり前のことですが、人種や文化は違えど、みな同じ人間。みんなつながっているんやなぁと感じた瞬間でもありました。お釈迦さまがお生まれになったネパールのルンビニは、猥雑とした首都カトマンズとは味わいの違う心穏やかになれる場所でした。

 しかし今、安息の地ルンビニは、付近の工業化が進み、大気汚染の脅威にさらされていると聞きました。過去10年間で肺に関連した病気がある人の数が増え、ここに飛んで来る粉塵のせいで皮膚に関連する病気も大幅に増加しているとのことです。風によって汚染物質が運ばれてきている時には、多くの僧侶がマスクを着けて瞑想しています。その映像を見たときは心が痛みました。

 地球の抱える環境問題の多くは、人のつながりを大切にしていた地域社会の崩壊が原因なのかもしれません。人はみんなつながっているはずなのに、人間の脳は自分だけが大事だと思いたがるものです。自分が良ければそれでいい。自分と自分の大切な人が良ければそれでいい。果たしてそれでいいのでしょうか。

 仏説無量寿経に「和顔愛語(わげんあいご)先意承問(せんいじょうもん)」という言葉があります。「和顔愛語」は、穏やかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接するという意味です。「先意承問」は、先に相手の気持ちを察して、相手のために何ができるか自分自身に問いただすという意味です。

 仏教者が日常において実践すべき徳のひとつとして「布施」がすすめられています。物や金銭がないと「布施」ができないわけではありません。誰でもいつでも財がなくてもできる布施行があります。それは、慈愛に満ちた柔和な顔を施すこと、こころのこもったやさしい言葉をかけることです。「布施」とは慈悲の行いであり、「和顔愛語」も大切な布施行であると言えます。

 よい事もわるい事も循環します。誰かがそれを実践した事で、周りにもその方自身にもよい循環が生まれます。私たちが、笑顔とあたたかい言葉で他人と接することができたなら、それだけで相手を心安らかにすることができるでしょう。

 もし、相手を笑顔にしたかったら、まず私が笑顔になりましょう。優しい言葉をかけてほしかったら、まず私の方から思いやりを込めてあたたかい言葉をかけましょう。

 わずかなことかもしれません。でも、それで相手を嫌な気分にさせることはありません。いつか、必ず相手からも和顔愛語がかえってくるはずです。私は、お釈迦さまを訪ねる旅の中で出会った方々から、どのように生きていくべきなのかを教わった気がいたしました。

南無阿弥陀仏 合掌
                       釋了徹