春夏秋冬・36

煩悩の所為

 私は以前、知人から「浄土真宗は修行ってありますか?《と聞かれて、「修行はありません、あるとしたらお念仏を称えることでしょうか《とお答えしたことがありました。「ない《と言ったり「ある《と言ったり、知人はきっと「どっちやねん《と思ったことでしょう。この知人の質問が鏡となり、私がお念仏をどう受け止めているのかが見えてきました。

 お念仏については、『歎異抄』の第八条にこのように綴られています。「念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ《と。お念仏は、称えるものにとって、行でも善でもないのです。自分のはからいで称えるのではないのだから、行ではないのです。

 つまりは、お念仏は自分の修行として称えるものではなくて、称えさせていただくものなのです。ですが、その「させていただく《はいつしか消え、「私が称えている、私の行《となっていたのでしょう。そのことがとっさの言葉にあらわれたのだと思います。

 しかし、他力のお念仏、他力にたのむのだと聞かせていただいてはおりましても、払っても払っても積もっていく塵のごとく、自力をたのむ心が湧いてくるのですね。まさに「煩悩の犬は追えども去らず、菩提の鹿は招けども来たらず《といったような状態です。どこまでいっても煩悩から逃れられない私なんです。

 そんな私に、『歎異抄』の第九条は、「あんただけやないんやで《と寄り添ってくれました。第九条の書き出しに、「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの上審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり《とあります。親鸞聖人とお弟子さんの唯円房との対話です。

 ここで、唯円房が親鸞聖人に二つのことをお尋ねになっています。一つ目は「お念仏しても踊り上がるような喜びのこころが湧き上がってこない《ということ。二つ目は「いそいでお浄土へ参りたいというこころが起こってこない《ということです。親鸞聖人は、それに対し「私もそのことをなぜだろうかと思っていたのですが、そなたも同じ心持ちだったんですね《とおっしゃいました。

 私はここで、えっ、となりました。親鸞聖人が同じように思われていたこと、さらには唯円房が話してくれたことを、親鸞聖人が喜ばれているように感じたからです。この第九条には、師弟のこころが通じ合った瞬間が、生々しく綴られています。おそらく、光顔巍巍と光り輝く釈尊に出あわれた阿難のように、また、専修念仏を勧める法然上人と出あわれた親鸞聖人のように、唯円房は親鸞聖人に出あっていかれたのかもしれません。

 さらに親鸞聖人のお言葉が続きます。「喜ぶはずのこころが抑えられて喜べないのは、煩悩の所為なのです。また、浄土に早く往生したいというこころが起こらず、少しでも病気にかかると、死ぬのではないかと心細く思われるのも、煩悩の所為です。まだ生まれたことのない安らかな悟りの世界に心ひかれないのは、この慣れ親しんだ娑婆の世界は捨てがたく、まことに煩悩が盛んだからなのです。阿弥陀仏の本願は、そうしたあらゆる煩悩を身にそなえた凡夫である私どものために、大いなる慈悲のこころでおこされたのだなぁと気づかされ、ますますたのもしく、往生は間違いないと思うのです《と。

 なんと、踊り上がるほど大喜びするはずのことが喜べないから、ますます往生は間違いないと、喜べないことの原因は煩悩であり、煩悩まみれの凡夫だからこそ阿弥陀仏の救いの目当てなのだとおっしゃっているのです。

 伝統的な仏教の考え方ですと、煩悩というものは、悟りを阻害するものとして否定されます。しかしそうでないんだと、煩悩を断ち切らずして歩んでいく仏道があるんだと、お伝えくださっているのです。

 『正信偈』においても「上断煩悩得涅槃《と語られており、阿弥陀仏の教えというのは、煩悩によって、人間が人間であることの悲しさやおぞましさを知らされ、そのことによっていのちの真実に出あう世界が開かれてくるんのだと示されています。

 また、聖徳太子が『維摩経義疏』で「塵労を如来の種と為す《と語られたことも、このことを如実に示すものといえます。 「塵労《はこころをわずらわせ、疲れさせるこころの塵のことで、煩悩を指します。そのような煩悩すらもまさに仏の種であり、それが救いの目当てであったとお伝えくださっています。

 思えば、その煩悩の所爲で、お念仏の教えにも出遭わせていただくことができたのでしょう。お念仏とともにある生活のなかで、自分の煩悩への気づきを深めて行くところに、浄土への道が開かれてくる。そんな思いがいたします。

南無阿弥陀仏
合掌
                         釋了徹