春夏秋冬・37

彼岸におもう

祖母との時間を通して

 「赤い信号、こんなに赤いのね、お店の明かりも明るい、夜はこんな景色なんやね、昼間とは違う世界にいるみたい。はぁ、今日がこんな良い日になるなんて、忘れない日になった、ありがたい、ありがたい、こんな世界を見せてもらえるなんて、嬉しいわぁ《と祖母は何度も感嘆した。夜の8時、祖母は私との15分程度のドライブを全身で喜んでいた。まるで子供のように目に飛び込んでくる世界に感動していた。

 私にとって、夜の町の景色はいつもと同じで、明るさもいつも通りだった。ここ数年で信号がLEDに変わり、発光が強くはなったが、日常の景色が大きく変化したという意識はなかった。祖母はもう何年も夜に外出することはなかったとのことから、始めはそういった物理的な町の変化に反応しているのかと思ったのだが、そうではないように感じられた。祖母の感嘆には”今”を慈しむ気持ちがあふれていたような気がしたのだ。

 祖母は今年94歳になる。10年以上前のことだが、「あなたの脳は60代ですよ《とお医者さんから言っていただいたことがあり、そのことがとても嬉しかったようで、今でも口癖のように話してくれる。また、いつもお世話になっているデイサービスのお仲間に100歳の方がおられ、常々私も見習わなくてはと言っており、祖母はそのようにまだまだ元気であり続けたいという意思を強く持った人だ。それゆえ今まで一度も自分の人生の幕が閉じていくような言葉を聞いたことがなかった。

 ただ、その時はいつもと少し違っていた。最近はどう?と聞くと、ニコッと笑みを浮かべながら、「戦争を経験してきたから、今が一番いいわ《と答えてくれ、色々と話を聞かせてくれた。「おばあちゃんの年になると体調が急に変わって、どうなるかわからんからね。だから、あんたとこうして過ごせるのも今日が最後かもしれん。ありがたいね。ありがとうね《と、これまでは”まだまだ”と言っていた祖母の口から”今日が最後かも”という言葉が出た。なにか、自分の身体を流れるいのちの声が聞こえてきているのかなと想像した。

 さて、今日は彼岸中日。お寺ではお彼岸の法要が勤まった。まん延防止も解除され、県を越えておまいりに来てくださる方も。ご門徒さん方にお会いできたことがありがたかった。お人が集まる中、上思議そうに祖母が尋ねてきた。お彼岸のお勤めは明日かね? 今日やで、と伝えると、またしばらくすると、明日かね?と尋ねてくる。日々そんな調子なのだが、それでも忘れずに大切に持ち続けている記憶がある。

 そのうちの一つに「あんたのお父さんにドライブに連れて行ってもろたことがあるんやけど、その日のことはよく覚えているの。とっても嬉しかったわ《という話がある。何年も前のことらしいのだが、祖母にとってはこないだのことのようでもある。その言葉を聞き、父がお彼岸の法話の席で話していた藤原正遠先生の言葉が頭に浮かんだ。

 あや雲の ながるる如く わがいのち 永遠(とわ)のいのちの 中をながるる

 あぁ、いのちとはそういうもんなんやな。先生が残されたお言葉は、私たちのいのちというものをこの上なく言い当ててくださっているようだ。何度も声に出して読みたくなる言葉であり、目に見えないはずのいのちが、目に見えるような気にさえなってくる上思議な感覚を覚える。

 ひとりの人間の一生はあっという間で、満ちた潮はかならず引き、流れる雲のように、消えていく時はお任せでしかない。上思議なご縁に導かれ、ここに生まれ、家族に恵まれ、大切に感じた瞬間を紡いでいく中で、私たちはみんな”永遠のいのちのひとつの現れ”であると気づかされていくのかもしれない。

 その日の祖母は何も欲していなかった。ただただ、賜ったいのちに感謝していた。親鸞聖人の教えの心臓部分でもある「自力を捨てて他力に帰する《その姿を見せていただいたようにも感じた。自力が廃らないと他力に入らないと話していた父の法話の言葉が、祖母との時間を通して私の中にすっと収まっていった。

南無阿弥陀仏
合掌

                       釋了徹