春夏秋冬・38

餓鬼と断捨離

 六道の一つに「餓鬼道《というものがあります。「餓鬼《というのは飢えた鬼と書きます。鬼というのは「遠仁(おに)《とも書きます。仁に遠いということです。仁とは人間の心のことで、他人を思いやる心です。

 「他人のことなんかどうでもよい。あれが欲しい、これが欲しい、もっと欲しい《と、自分のことばかり考え、人間の心に遠く、飢えた鬼。それが「餓鬼《です。

 餓鬼には「無財餓鬼、小財餓鬼、多財餓鬼《の三種類あると仏典に書かれています。無財餓鬼と小財餓鬼の住処(すみか)は、地獄のちょっと上にあると言われていますが、多財餓鬼の住処は、人間界と天界なのです。

 多財餓鬼は、沢山の財産を持ち、山海の珍味をたらふく食べて、宮殿のようなところに住んでいる、豊かな餓鬼です。

 「豊かな餓鬼《などというと変に聞こえるかもしれませんが、「餓鬼《というのは、際限のない飢餓感に苦しむものたちのことなのです。ですから、どんなに豊かであっても、その境遇に満足できずに苦しんでいるものたちは、やはり、餓鬼なのです。

 つまり、人間界や天界に住んで、財産をたくさん持って生活をしていても、それでも満足できないものたち。それが、多財餓鬼なのです。

 で、私たちは、どうでしょうか。あれも欲しい、これも欲しい、もっと欲しい、もっともっと欲しい、と餓鬼道に片足を突っ込んだ生活をしていませんでしょうか。

 思いますに、私たちは、かつて、エコノミックアニマルと呼ばれた頃に、すでに餓鬼道に足を踏み入れていたのかもしれませんが、今や、お金さえあれば、なんでも手に入ると言われる時代です。「今だけ、金だけ、自分だけ《。もう、立派に、多財餓鬼ではないですか。

 この20年ほどでインターネットが急速に普及し、私たちの生活は大きく変化しました。おすすめの商品は個々人にカスタマイズされ、コンピュータのキーをタップするだけで、モノが届きます。もはや検索して探さなくとも、情報は向こうからやってきます。

 便利さを手に入れた人間は、後戻りはできないのです。電気のない暮らし、車のない暮らし、スマホのない暮らし、言わずもがな、もうそこには戻れません。人間の欲には限りがありませんから、私たちの生活は「足し算の連続《です。

 かくして私たちは、資本主義の発展により、より多くのモノを抱え込まされるようになりました。必需品はすでに飽和状態ですが、消費への渇望はおさまりません。

 そんな中、近年、「断捨離(だんしゃり)《という言葉をよく耳にするようになりました。断捨離。仏教の言葉のように聞こえますが、そうではありません。この言葉の生みの親は、やましたひでこさんという方です。

 やましたひでこさんは著書の中で、断捨離とは、単なる掃除、片付けとは異なり、「このモノは自分にふさわしいか《と問いかける行為。つまり、「モノと自分との関係性《を軸にモノを取捨選択していく技術だとおっしゃっています。  「断《とは、入ってくる要らないものを断つ。「捨《とは、家にはびこるゴミやガラクタを捨てる。そして、断捨を繰り返した結果、訪れる状態のことを「離《とする。「離《とは、モノへの執着を離れ、ゆとりある”自在”の空間にいる私と定義づけられています。

 その作業は、「見える世界《から「見えない世界《に働きかけ、結果、自分自身を深く知ることに繋がるとおっしゃっています。私はその話を読ませていただき、断捨を繰り返していくことこそが重要なのだろうと感じました。掃除を通して心の塵を除くことをし続けた仏弟子・周梨槃特(しゅりはんどく)のように。

 モノを手放していくことによって、執着を離れていく。それを何度も繰り返していくうちに、本当に大事なものに気づき、もっと欲しい、という心の声が鎮まっていく。仏教は生活のメソッドではありませんが、「断捨《の目指している境地「離《は、どこか、お念仏から開けてくる世界に似ているようにも思います。

 薬は摂取するばかりではなく、時には抜くことこそが薬となります。断捨をしながら、自己と対話をし、心の塵が払われていく中で、餓鬼道に足を突っ込んだ自分自身の姿が、はっきりと見えてくるのかもしれません。

 足し算の生活から引き算の生活にシフトしていくことが、この混沌とした時代を生きる私たちの進むべき道なのでしょう。両手を合わせて受け取っていくのは、アマゾンから届く段ボール箱ではなく、仏様から届くお念仏でありたいものです。

南無阿弥陀仏
合掌

                        釋了徹