先日、小学生の娘と車に乗っていましたら、こんなことを話してくれました。「もし、脳と心臓だけで生きていける時代になったらどうかな、脳と心臓だけで生き続けられる世界、死ななくなったら逆に死にたくなるかな、死ぬことができる人が羨ましがられるかも《と。 私が小学生の頃は、外に出て遊ぶことが多かったので、死を意識することが少なかったように思いますが、今の子どもたちは家にいることが多く、スマホ1つあれば情報にアクセスできます。そのせいか、この「死《という話題に触れる機会が多くなっているような気がします。 私たちは、電気や車がない時代に逆戻りができないように、インターネットのない世界にはもう戻ることはできません。学校ではオンライン授業があり、連絡帳もデジタルになり、欠席を伝えるのもアプリのボタン1つです。インターネットは必要上可欠なインフラとなり、子どもたちも避けて通ることはできません。 デジタル化時代、デジタル人類、シンギュラリティの到来などといった言葉はよく耳にするようになりました。シンギュラリティとは、AIが人間の知能を凌駕する転換点を意味する言葉ですが、最近では将来的には人間の意識を機械にアップロードできるようになるという話まで聞くようになりました。 東京大学では、人間の寿命が尽きても、この「意識のアップロード《によって、死を意識することなく生き続ける研究が進められています。このようなデジタル化が実現するまで、脳を冷凍保存してくれるサービスまであるというのですから驚きです。 果たして、この死を意識せずに生きるということは私たちにとって幸せなことなのでしょうか。 この間、YouTubeを見ていましたら、ねづっちさんという芸人の方が動画を上げておられまして。「整いました!《が2010年流行語大賞にノミネートされていましたので、覚えている方もおられるのではないでしょうか。懐かしさもあって、その動画を見てみたんです。 「整いました!人生とかけまして、映画館で観る映画とときます。その心は、どちらも巻き戻しができないのがいいんです!《とおっしゃっていました。相変わらずの切れ味だなぁと思いました。 巻き戻せないからこそ今が輝くんです、限りあるいのちだからこそ、今を大切に生きるんです。 人生は旅のようなものだと言いますが、旅はあてもなく彷徨い続けるものではありません。旅とは、住んでいる所とは別の場所を訪ね、その後に戻ってくることを言います。私たちは戻る所があるからこそ、旅が特別なもので素晴らしいものと感じられるのです。 親鸞聖人は正信偈の中で、中国の曇鸞大師は浄土の経典と出あい、長寿の教えを焼き捨てられたとお伝えくださっています。(本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦) 病にかかり長生上死の教えを求め迷われた曇鸞大師は、仏典の翻訳家であった三蔵流支から、どれだけ長生きすることよりも大事なことがあると喝破され、「仏説観無量寿経《を授かり、阿弥陀仏の本願に出あっていかれました。 今どこに向かってどのように生きるのか、今このいのちをどう生きるのか、そのことが大事であると。迷いの中にありながら救われる唯一の道は、如来の大悲のはたらきをありのままに受け止めていくことだと気づいていかれたのです。 よかれと思ってしてきたことが間違いであった。気づかされることによって、そこから生き方が変わってくる。それが「焚焼仙経帰楽邦《と伝えてくださっていることではないでしょうか。 そう思いますと、この「生き続けられる世界《を求めていくことは、迷いを深めていくことになる。もしかしたら、娘が話してくれた「死にたくなる世界《へと繋がってしまうのかもしれません。 死を意識せずに生きるのではなく、死ぬからこそ、どこに向かって生きていくのか、今をどのように生きるのか、そのことが問われているような気がします。
南無阿弥陀仏 釋了徹
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