春夏秋冬・42

彼岸に想う

 先日ご本山におまいりに行かせていただきました。秋の涼しさが出てくる頃に参らせていただきますと、声明作法の師である藤澤先生のことを思い出します。

 10年以上前になりますが、仲間3人で週に1度先生のお寺にお邪魔してお経やお作法などを教えていただいていました。先生は見た目は強面でしたが、人柄はとても優しく、連綿と受け継がれてきた真宗の声明作法を丁寧にお伝えくださいました。

 当時、私は仏道を歩むということがわからず、自分が何をなすべきなのか迷っていました。そんな中、先生がすすめてくださったのが、ご本山の晨朝法要への参拝でした。

 ご本山では、毎朝7時からお勤めがあがります。堂衆や準堂衆の方々が出仕され、阿弥陀堂で漢音阿弥陀経を勤めた後、御影堂で正信偈・和讃が勤まります。

 先生のすすめを受けて、半年間ほど、毎朝晨朝法要に通わせていただくご縁をいただきました。夏の終わりから秋へと移っていく、ちょうどお彼岸の頃だったでしょうか。この頃は、気候もよく早起きも苦ではありませんでした。

 しかしそこから2ヶ月、冬がやってきました。京都の冬の朝というのは胸がキュッと詰まるような寒さがあります。布団の中から出たくない、、、ただ通うだけなのに毎日おこなうということの難しさを痛感しました。

 ただ、早朝というのは特別な時間です。街は東からゆっくりと色づき、車の音より鳥のさえずりがよく聞こえます。夜明けと共に目を覚ますと、自然とシンクロしているよう気にもなります。朝は素晴らしいと感じる瞬間です。色を取り戻していく世界に白く息を吐き、衣朊の擦れる音を鎮め、凛とした空気が漂うお堂の中に入っていきます。

 毎朝通っていくうちに、いつもおられるご門徒さんとも顔馴染みになり、お話しさせていただくようになりました。そんな中、15年間毎朝欠かさず晨朝法要に通っておられるという方に出会いました。しかも車で1時間半ほどかけて来られていると聞き本当に驚きました。

 阿弥陀堂では、漢音阿弥陀経があがります。私たちがよく耳にするお経の読み方は呉音という発音で読まれます。呉音は南北朝時代の呉地方の発音と言われています。それに対し漢音というのは唐代の西北地方の音です。

 大谷派では阿弥陀経に限って漢音で読まれる場合があります。しかし特別に声明を研鑽した方でない限り、漢音で阿弥陀経をあげさせていただく機会はありません。

 私もあげることができませんので、勤行本を見ながら読もうとしていました。ただその読もうとする気持ちで勤行本を開いている間は、頭が働きっぱなしで心がいっこうに落ち着きません。

 ある時、もう読もうとすることはやめて、聞かせていただこう、勤行本を閉じてお勤めの響きに耳を傾け心静かに座ることにしました。すると上思議なことに、私の体と心にいつも以上にお勤めが響いてくるのです。

 声の響きが波動となり水のように心に体にしみ込んでくる。重なり合う声の倊音が心地良く体を包み込む。その時はいつしか頭のおしゃべりも止み、心の波が静まり、ただただお勤めを聞かせていただきました。今ここにいる。まさにそんな感覚でした。包み込む空気も、触れている畳も、揺らぐお灯明の光も、優しく私をお支えくださっている。そんな気持ちになりました。

 通い始めて半年ほど経った頃、他県のお寺で勤務することが決まり、毎日通うということはできなくなりましたが、晨朝法要に通わせていただく中で、ご本山の阿弥陀堂は私にとっても特別な場所になりました。

 お念仏は、口に出し、聞かせていただく、今、ここに、身を置く、そのことから自ずと道が開けてくる。先生は、道に迷っていた私に、歩むべき方向を示してくださり、この道を進みなさいと背中を押してくださいました。

 風が少しずつ変わり始めたお彼岸の頃、お浄土に帰られた師のことを想います。

南無阿弥陀仏
合掌

                     釋了徹