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親鸞聖人のことばに、こんな一節があります。
「悪性(あくしょう)さらにやめがたし 善いことをしようとするとき、自分の中に「見てほしい」「認めてほしい」という気持ちが、ふと顔を出すことがあります。親鸞聖人は、その混じりけを「雑毒」といい、どこまでも純粋ではありえない人間の行いを、「虚仮の行」と言い表しました。この、厳しくも静かな眼差しに、私はふと、幼い頃の記憶を重ねます。 小学生の頃、掃除の時間に雑巾がぐちゃっと置かれているのが気になって、誰に言われたわけでもなく、一枚ずつたたみ直したことがありました。そのことを、少し誇らしい気持ちで、担任の先生に報告したのです。「今日、雑巾を全部きれいに並べ直したんだよ」と。
すると先生は、やさしく笑って、こう返してくださいました。 その瞬間、自分の胸のうちにあった「ほめられたい」という気持ちが、ふわりと浮かんで、少し恥ずかしい気持ちになったのを、今でも覚えています。それ以来、自分の良い行いをわざわざ口にすることは、自然と少なくなっていきました。 いま、私には小学生の子どもがいます。家に帰ると、「今日な、誰々に教えてあげたで」とか、「先生にお手伝いお願いされて、黒板消したよ」と、うれしそうに話してくれます。昔の私と同じで、微笑ましくもありながら、その姿にかつての自分を重ねて、「そういうのは、言わずにやる方がええんやで」と、つい言いたくなる気持ちが顔を出します。 けれども、最近はその思いを飲み込んで、ただ「そうなんや、すごいやん」とだけ返すようにしています。誰かに「えらいね」と言われることが目的ではなくても、誰かのために動いてみようという心が、きっと、静かに育っていくと信じて。 親鸞聖人のことばをそのまま受けとれば、人の行いはすべて「虚仮の行」。でも、だからといって、人が誰かのために動こうとする気持ちまで否定する必要はないのではないかと思います。むしろ、そのまじりけのある行為を重ねながら、自分の中の動機を見つめ、整えていく。そこに、人としての歩みがあるのではないでしょうか。 私たちは皆、自分の中に「蛇蝎のごときこころ」を抱えています。「よく思われたい」「認められたい」と願う心から、完全に自由にはなれません。 でも、そんな自分を知りながらも、それでも人にやさしくしたい、誰かのために動きたいと思えるとしたら、その矛盾こそが、人間らしさなのだと、今は思うのです。 あのとき先生が言ってくださった「言わずにやっておくのがいいんだよ」ということばは、見られないところでの小さな行いが、いつのまにか自分をつくっていくのだという、静かな教えだったのだと思います。 たとえその中に、見てほしいという気持ちが混じっていたとしても、誰かのことを思って動こうとした、その気持ちは、やっぱりほんものだと思うのです。 きっと彼もいつか、自分の中の「まじりけ」に気づく日がくるのでしょう。そのとき、たとえ誰にも見られていなくても、静かに手を差し伸べられるような人になってくれたら、うれしいと思います。 合掌 釋了徹
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