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手に念珠を持つとき、心がすっと落ち着くことがあります。小さな珠をひとつにまとめたその輪は、ただの飾りではなく、仏教の歩みと人々の祈りの歴史が折り重なって、いま私たちの手の中にあるものです。 その源をたどると、古代インドに行き着きます。インドでは「マラ」と呼ばれる珠の輪を手にして、祈りの回数を数えました。「マラ」はサンスクリット語で「輪」を意味し、ひと粒ずつ指で送る仕草が心を落ち着ける助けとなったのです。 このマラは仏教とともに東へ伝わり、中国を経て日本へ。やがて宗派ごとに独自の念珠の形が生まれました。一方、西の方へ伝わった珠の祈りは、キリスト教の「ロザリオ」として広がっていきます。さらにイスラム教にも「タスビーフ」と呼ばれる数珠があり、祈りの言葉を重ねながら指で珠を送ります。 宗教や文化は異なっても、人が祈るときに珠を手にして指で送る姿は、世界のあちこちに見られるのです。かたちは違っても、その奥にある思いは、どこかでつながっているように思えます。 さて、浄土真宗の念珠には「蓮如結び」という特徴的な結びがあります。この結び目があることで、珠をひとつずつ送って数を数えることが難しくなっています。他宗では念珠が回数を数える道具として働くこともありますが、真宗ではそうはなりません。 念仏は、自分で回数を積み上げていくものではなく、阿弥陀仏のはたらきに出遇ったとき、気づけば自然に口からこぼれる「南無阿弥陀仏」としていただいてきました。そう思ってみると、念珠の結びの形もまた、そっとそのことを伝えてくれているように感じます。 思えば、食べものもまた国境を越えて伝わり、受け継がれてきました。たとえばカレー。インドから生まれた料理が、それぞれの土地に合った味わいに姿を変え、世界中の食卓で親しまれています。 祈りの珠もまた、その土地ごとに少しずつ形を変えながら、人々の暮らしに息づいてきたのでしょう。念珠やロザリオ、タスビーフもまた、そんなふうにこころの普遍的なかたちとして、いま私たちの手の中にあるのだと思います。 念珠を手にしたとき、そこに込められた歴史や願いを思うと、珠ひとつひとつがあたたかく感じられます。それは、遠いインドの大地やヨーロッパの教会、アラビアの祈りの場、そして日本で念仏を称えてきた多くの人びとへと、こころを結びつけてくれるものだからです。 小さな珠をそっと指でなぞるとき、南無阿弥陀仏と口にするとき、その声はひとりきりではなく、数千年を生きた人びとのいのちと響き合っている。そのことを思うと、なんともあたたかい心持ちになるのです。
南無阿弥陀仏 釋了徹
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