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風のなかに、すこしずつあたたかな春の匂いが混じるようになりました。 ふと顔を上げると、いつの間にか木々が芽吹き、柔らかな光が足元を照らしています。 毎年四月の八日は、「花まつり」です。お釈迦さまがお生まれになったことを、花々とともにそっとお祝いする日です。
お花で飾られた小さなお堂の中に立つ、幼いお釈迦さまの像。
お寺にお祀りされている仏様は、きまって「ハスの花」の上におられます。
稲垣さんの本によれば、ハスという植物は、きれいに澄み切った真水の中では、あのように大きく、美しい花を咲かせることはできないのだそうです。
どろどろとした、にごった泥水。
植物は私たちと違って、自分から歩いて移動することができません。
以前、街のコインパーキングで、ふと足元に目を落としたときのことです。
私たちはふだん、自分の生きている毎日を、できるだけ「澄んだきれいな水」にしたいと願ってしまいます。 そういう自分の中にある「泥」のような部分を、恥ずかしいものだと思い、見ないふりをしたり、別のきれいな場所へ逃げ出そうとしたりして、いつもどこかで息苦しさを抱え込んでしまう。 日々の忙しさのなかで、「いつも笑顔でおらなあかん」「ちゃんとせなあかん」と泥を隠すように無理をして、ふと一人の時間に、どっと疲れを感じてしまうことはないでしょうか。 でも、もしその逃げ出したくなるような「泥」こそが、私という花を咲かせるために、なくてはならない大切なものだとしたらどうでしょうか。 悩みや悲しみ、みっともないほどの執着。そんな泥くさい日々を抱え、逃げ出せずにいるからこそ、私たちは、同じように泥の中で立ちすくんでいる誰かの痛みに、寄り添えるのではないでしょうか。
自分の弱さを抱えたまま、足が止まってしまったとき。
仏様がハスの花の上におられるのは、決して泥を避けて高いところにいるからではないのだと思います。
花まつりの日。
無理に、きれいな人間になろうとしなくてもいい。腹が立ったり、落ち込んだり、誰かをうらやんでしまう日があってもいい。 合掌 釋了徹
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