春夏秋冬・52

足元の泥、ひらく花

風のなかに、すこしずつあたたかな春の匂いが混じるようになりました。
ふと顔を上げると、いつの間にか木々が芽吹き、柔らかな光が足元を照らしています。

毎年四月の八日は、「花まつり」です。お釈迦さまがお生まれになったことを、花々とともにそっとお祝いする日です。

お花で飾られた小さなお堂の中に立つ、幼いお釈迦さまの像。
そこに、柄杓で甘茶をゆっくりとかけながら、心静かに手を合わせる。
皆さんのいつもの通り道にあるお寺でも、ふと、そんな光景を目にされることがあるかもしれません。

お寺にお祀りされている仏様は、きまって「ハスの花」の上におられます。
植物学者の稲垣栄洋さんが書かれた『なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか』という本をめくりながら、私はふんわりと、自分の日々の暮らしを見つめ直すような感覚になりました。

稲垣さんの本によれば、ハスという植物は、きれいに澄み切った真水の中では、あのように大きく、美しい花を咲かせることはできないのだそうです。
ハスが命をつなぎ、大きな花をひらくために、どうしても必要なもの。
それは、水底に深くたまった「泥」なのだといいます。

どろどろとした、にごった泥水。
その見えない泥の中から、ハスは力強く養分を吸い上げます。
暗い泥の中をくぐり抜け、水面に顔を出したとき、あの凛とした、透き通るような花びらをひらくのです。

植物は私たちと違って、自分から歩いて移動することができません。
たとえ芽生えた場所が、どれほど濁った泥の中であったとしても、そこから動かず、逃げ出さず、その泥を引き受けて生きていくしかないのです。

以前、街のコインパーキングで、ふと足元に目を落としたときのことです。
車を停めるための、あの無機質な鉄板のわずかな隙間から、小さな花がひっそりと顔を出しているのを見かけました。
「なんてとこに生まれたんや…」
思わず、そんな言葉が口からこぼれました。
冷たい鉄とアスファルトに挟まれたその隙間で、与えられた命を静かに咲かせていたのです。

私たちはふだん、自分の生きている毎日を、できるだけ「澄んだきれいな水」にしたいと願ってしまいます。
腹が立つこと、誰かをうらやむ気持ち、思い通りにいかない悲しさ、そして、どうしても消えない不安。

そういう自分の中にある「泥」のような部分を、恥ずかしいものだと思い、見ないふりをしたり、別のきれいな場所へ逃げ出そうとしたりして、いつもどこかで息苦しさを抱え込んでしまう。

日々の忙しさのなかで、「いつも笑顔でおらなあかん」「ちゃんとせなあかん」と泥を隠すように無理をして、ふと一人の時間に、どっと疲れを感じてしまうことはないでしょうか。

でも、もしその逃げ出したくなるような「泥」こそが、私という花を咲かせるために、なくてはならない大切なものだとしたらどうでしょうか。

悩みや悲しみ、みっともないほどの執着。そんな泥くさい日々を抱え、逃げ出せずにいるからこそ、私たちは、同じように泥の中で立ちすくんでいる誰かの痛みに、寄り添えるのではないでしょうか。

自分の弱さを抱えたまま、足が止まってしまったとき。
ふと、そんな泥だらけの私を見捨てることなく、ずっと見守ってくれている「あたたかいまなざし」があることに気づくのかもしれません。

仏様がハスの花の上におられるのは、決して泥を避けて高いところにいるからではないのだと思います。
「あなたのその泥だらけの人生を、そのまま受け止めていますよ」
そんな、言葉にならない声が、あのハスの台座には込められているような気がするのです。

花まつりの日。
甘茶をかけられるお釈迦さまは、この泥だらけの世界で、不器用に、でも懸命に生きている私たち一人ひとりを、ただ静かに見つめてくださっています。

無理に、きれいな人間になろうとしなくてもいい。腹が立ったり、落ち込んだり、誰かをうらやんでしまう日があってもいい。
その「泥」のような感情もまた、私が私らしい人生を歩んでいくための、大切な養分になっていくのだと思います。

合掌

                       釋了徹