心の青年への手紙・第1通

死から始まる

拝啓

 はじめてお手紙さしあげます。今日、あなたにお手紙さしあげますご縁を有り難く存じます。あるいは今後もまたお話させていただく機会があるかもしれません。でも、それはもう今日ではありません。今日はもう戻っては来ないのです。私たちにとっていちばん大切なものは命です。命とは時間です。ちょうど手のひらにすくいあげた砂がこぼれ落ちるように、時間は一瞬の休みもなく流れ去って二度と戻って来ません。そういった、あなたにとっていちばん大切な時間を、つまり命の一部を頂戴してお話させていただくのですから、本当に大切なことをお話し申し上げたいと思います。

 私たちは仏教徒です(これをお読みくださっている方のなかには仏教徒でない方もおられるかと思いますが、しばしお付き合いください)。仏教とは、仏陀が説かれた、仏陀に成るための教えです。仏陀とは、この世界の真実に目覚めた人のことです。つまり仏教とは「この世界の真実に目覚めるための教え」なのです。私たち仏教徒は、この教えに従って真実に目覚めたいと願っております。

 ですが、日頃耳にする仏教の「お話」はどうも今ひとつよく分からないと思われたことはありませんか。どこか、薬の効能書きだけ読んで肝腎の薬を飲んでいないような、あるいは、缶詰のラベルばかり見ていて中身を味わっていないような、そんなもどかしさをお感じになってはおられませんでしょうか。はなはだ不遜かとは存じますが、有り体に申し上げて、私は不満です。なかでも、むやみに難しい漢語を並べた研究発表のような「お話」や、世俗的な道徳や人生訓のような「お話」には、どうも納得できないものを感じております。…中身を食べてみようと思われるかどうかは皆様方のお気持ち次第としても、せめて私なりに缶詰のフタを開いてお見せできないものか。そんな思いでこれを書き始めました。


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 さて、仏教の歴史上の開祖はお釈迦様(釈尊)です。釈尊は紀元前4世紀頃、現在のインドとネパールの国境近くにあった小さな王国の王子としてお生まれになり、29歳の時に王国も家族も捨てて出家され、35歳で仏陀となられました。この釈尊が王国も家族も捨てて出家なさったのは、命の終わり、つまり「死」の問題に煩悶なさったからだと言われております。

 人はいずれは死なねばなりません。どんなに栄華を極めてもいずれは消え去ってしまうのです。大切な家族も財物も地位も名誉も失う日が来るのです。死ぬ時には全てが失われるのです。しかし、自分が死んでも花は昨日と同じように咲きほこり、鳥は何事も無かったかのように美しい歌声を響かせていることでしょう。生きているということは、生まれてきたということは、年老いていくということは、病に苦しむということは、そして死んでいかねばならないということは一体どういうことなのでしょうか。私たちは、結局は死ぬために生まれてきたのでしょうか。死にたくない。…出家される前の釈尊もきっとそう思われたに違いありません。

 仏教の根底にあるのは、いや、仏教だけでなく世界中の宗教の根底にあるのは、この「死」の問題なのです。私たちは何処から来て何処へ行くのか。何のために生まれて来たのか。本当の幸せとは何か。こういった人生の大問題は「死」を抜きにしては考えられないのではないでしょうか。

 人はいずれ死んでゆかねばなりません。この世のなかで100パーセントの確率で誰の身にも公平に起こる出来事といえば「死」だけではないでしょうか。しかしこの事実から目を逸らさずじっと見つめ続けていける人はごくまれです。そんなことができる人は特殊な天分が備わった宗教的天才だけでしょう。私たち凡人は日々、意識的にまた無意識的に「自分はいずれ死ぬんだ」という厳然たる事実から目を背けて暮らしています。「人生なんて命あってのものだねだ。死んでしまったらお仕舞だ。生きている間にしたいことをして、せいぜい楽しく一所懸命に生きた者が勝ちだ」、「死ぬ時が来たら嫌でも死ぬんだ。今からそんなことをクヨクヨ考えても始まらない」と思っているのが私たちではないでしょうか。

 私たちは誰でも、何十年も生きてくれば、そこに自然と何らかの人生観が生まれてきます。「思いやりや優しさが大切と口では言っても、結局は強い者が勝ちだ」、「正直や真心が尊いといっても、現実にはうまく立ち回った方が得だ」という思いも人生観ですし、「生きがいこそが人生を豊かにしてくれる」というのも、「健康こそが何より大切」という思いもまた人生観なのです。『人は死ねばゴミになる』という本をお書きになった方がおられますが、これは私たち大部分の抱いている代表的人生観かもしれません。

 ですが「人生観」は「この世の真実」とイコールではありません。「人生観」は人によって違います。しかし「この世の真実」が人によって違うとは考えられないからです。私たちは様々な人生観を持ち、それでこの世の真実を覆いかくして、つまり有り体に言えば誤魔化しながら生きているのです。

 それでも私たちの人生には一点だけはどうしても覆いかくせない場所、真実が露呈している場所があります。つまり、どんな人生観を抱き、どんな思いにしがみつこうとも、やはり「私たちは100パーセント死ぬ運命にある」というこの一点だけは決して覆い隠せないのです。「死」は、誤魔化しながら生きている私たちの心の地表に唯一露呈した「この世の真実」なのです。だからこそ、真実への旅は「死」を見つめるところから始まるのです。

 以前、テレビで朝日放送のニュースステーションを見ておりました時に、キャスターの久米宏さんがこんなことをおっしゃっていました。「私たちは仕事がら時折、末期癌患者やエイズ患者の方々にお目にかかる機会がありますが、こういった死を前にした方々は不思議に目が綺麗なんですねえ。澄んでいるんです。私たちは死を前にしないとあんな綺麗な目になれないのでしょうか」と。

 確かにそうかもしれません。でも本当は、筋萎縮症や癌やエイズといった、いわゆる不治の病にかかった方々だけが死を目前にしているわけではないのです。「死」は常に私たちの身近にいるのです。それなのに、私たちの目には差し迫った問題とは映らないものですから、どこか妙に安閑と構えていられるのです。でもたいていの場合、「死」は突然にやってきます。「死」は、ある日突然に現実味を帯びてくるのです。他人ごとではなく、我が身のことになるのです。悲しいことに、そうなった時に初めて、私たちは人生を真剣に考えるようになるのです。

 「死」を前にすれば、どういう原理に従って、つまりどういう人生観を持って生きてゆくかなどということは、全く意味の無いことになります。考えてもみてください。死の床にある人に向かって「生きがい」を説いてみても、それが一体何になるでしょうか。

 最初にこんなお話をいたしますのも、実は私の人生を真剣に考えたいと思うからです。仏教は死者を弔う儀礼のための教えではありません。私たちが真に生きるための教えなのです。しかし仏教の話をあれこれしておりますと、人はよくこう言うんです。「ああ、それはつまり発想を転換するということですね」と。不思議なことに頭の良い人ほどこう言うことが多いのです。発想を転換するということは、右手に持っていたものを左手に持ちかえる、あるいは左手に持っていたものを右手に持ちかえるということでしょう。これは違うのです。仏教は、右手に持っていようとも左手に持っていようとも、まずそれを放せと教えているのです。それぞれが後生大事に握り締めている人生観を手放し、死と向き合って命を真剣に考えること、つまりは生きているうちにひとたび死を経験することから、ようやく本当の「生」が始まるのではないでしょうか。

 とは申しましても、自分の肉体の死は「その日」が来るまで経験できません。ここで「死」を経験すると言っているのは「魂」の次元でのことです。ですがあまり大層なことと考えずに、まずは、心のなかで今日を人生の決算日と想像して、これまで歩んできた道を振り返って見るのはどうでしょう。人生の棚卸しをしてみると、あるいは今まで見えていなかったことに気づくかもしれません。実際、死のまぎわには肉体的苦痛と闘うだけで手一杯で、冷静に人生を振り返って見る余裕などないかもしれません。さしたる肉体的苦痛もなく、時間的にもまだ余裕があると思っている「今」なら、それができるのではないでしょうか。

 目を逸らさずに自分の死を見つめ、自分が死の床から愛する人々を見上げながら考えるであろうこと、感じるであろうことを出来るだけリアルに想像する。あるいはまた、もしも後数日の命だと分かったら、自分はどうするか。何をしたいか、何をしておかねばならないか、何故そうしたいのかを、真剣に考えてみる。これは決して無意味なことではありません。

 死に臨んでも、なお食物や異性や金銭や名誉に思いを残すかもしれません。でも大半の人は、ひとりで死んでゆかねばならない孤独感に苛まれながらも、初めて本当に我欲を離れた目で家族や世界を見られるようになるのではないでしょうか。あの人を助ることもできたのに、この人を喜ばせることもできたのに。自分は一体何をしていたのだろう。そんな、クリスマスキャロルのスクルージの心にも去来したであろうような様々な思いがわいてくるのではないでしょうか。

 それは、愛や慈悲といった言葉がたんなる言葉ではなくなり、平凡に見えた日々の生活がかけがえのない真実であったことに気付く一瞬かもしれません。そんなときには、カーテンに染みる陽の光や、空に浮かぶ雲、頬をなでる風、湿った大地の香り、しおれた草花や枯れた木々にいたるまで、何もかもがいとおしく、輝いて見えるのではないでしょうか。もう一度チャンスをもらえたら、今度こそ本当の「人」になれるような気がする。そんな後悔と懺悔のいり交じった思いに煩悶する自分の姿が目に浮かびます。

 …しかしです。ひとたび想像から醒めてみれば、一種甘美な想像の余韻に涙しながらも、現実には「そんな生き方が到底出来ない自分」に改めて気がつくのです。あれこれ言ってはみても、やはり私たちは自分がいちばん可愛いのです。心から他人のことを思って生きることなどできないのです。一体どうしてなのでしょうか。どうして私たちは無私になって人に命を分け与え、世界に向かって心を開き、物事を在るがままに見ることができないのでしょうか。

 実はこの、「そんな生き方が到底出来ない自分に気づく」ことこそ、死を見つめることから始まった「魂の旅」の最初の一歩なのではないかと思います。私たちは、死を見つめることで「振り出し」に戻ったわけではありません。「出来ない自分」という位置から螺旋階段を登って、「出来ない自分に気づく」というところまで来たのです。「出来ない自分」には変りありませんが、そのことに気づいていないのと気づいているのでは、かなり開きがあると思います。「出来ない自分」に気づかねば、「それはどうしてか」という疑問に進むことはないでしょう。まずは一歩を踏みだしました。次回はさらに歩を進め、「現実」から「真実」への螺旋階段を登ってゆきたいと思います。合掌

〈参考図書案内〉

 私たち凡人も、いわゆる各界の識者とか一流人とかいわれる人々も、死生観に関していえばさほど変わりがないようです。旅立ちにあたって、そのことを確認しておきたいと思われる方は、以下の書物などをご一読ください。

  1. 宇野千代他『死ぬための生き方』,新潮社,1987年,(1130円)

  2. 伊藤栄樹『人は死ねばゴミになる』,新潮社,1988年,(1030円)