心の青年への手紙・第10通

「法要」の意義

拝啓

 さて今回は、これまでお話し申し上げてまいりましたことの「まとめ」になるような、あまり肩の凝らない「法話」ふうのお話しをさせていただこうと思います。分かっているようで、実はよく分かっていないこと。私たち門徒にとって「法要」とは何か。これが今回のお話しのテーマです。

 「法要は何故勤めるのか」と尋ねますと、たいていは、「死者の冥福を祈るため、追善供養のため」とお答えになります。ですが、これは違います。

 もともと真宗には、「冥福を祈る」とか「追善供養」とかいった考え方がありません。仏教では本来、「自業自得」と申しまして、その人の生きた内容に応じて、死後の世界が決まると考えられておりますから、死後の世界に他人が関与する余地はないのです。

 では、「冥福を祈る」ことも「追善回向」も関係の無い、私たち「門徒にとっての法要とは何か」ということになります。門徒の法要も、「亡くなった人への追慕や感謝の思いをご縁として」集まるものですが、その目的が違うのです。

 門徒の法要の目的とは何かと申しますと、それは「死」を見つめ、「お念仏」に出会い、「今ここ」にある命に気付くことなのです。「死」を見つめるというのは、「自分もいずれは死ぬんだ」ということを思い出すことではありません。ですが、こう言っただけではお分かりにくいと思いますので、もう少し詳しくお話しいたします。

 「死」を見つめるというのではなく、「自分もいずれは死ぬということ」を思い出す程度のことなら、私たちもそこそこの年令になれば、一瞬ではあっても時々はあるものです。「あんなこともあった、こんなこともあった」と過去を懐かしんだり、先行きのことを思って生命保険に入ったりするのは、そんなときなんですね。ですが私たちは、「死」を見つめるということは、まず致しません。何故でしょうか。

 それには、2つの理由があります。まず一つには、私たちはたいてい、「人生なんて命あってのものだねだ。死んでしまったらお仕舞だ。生きている間にしたいことをして、せいぜい楽しく一所懸命に生きた者が勝ちだ。死ぬ時が来たら嫌でも死ぬんだ。今からそんなことをクヨクヨ考えても始まらない」と思っているからなのです。

 つまり、私たちは、「生」は価値あること、「死」は価値の無いこと、と思っているのです。ひとたび「無価値」だと思い込んだことを「見つめる」ことなどできません。ですから私たちは、「死」を見つめるどころか、「自分もいずれは死ぬ」ということを思い出すことすら滅多にしないのです。

 もう一つの理由は、私たちが「死を自分の問題として見られない」ということです。いつも他人事なのですね。もちろん、私たちは「自分もいずれは死ぬんだ」ということを頭では知っています。でもそれは、常に「ずっと先のこと」として意識されているのです。その日が明日だとは、どうしても思えないのです。

 「いずれ死なねばならない。でも、それは明日ではない」。幾つになっても、そう考えているのが私たちではないでしょうか。20代、30代はもちろんのこと、70代、80代、90代、そして100歳になっても、やはり「明日かもしれない」とはなかなか思えないものなのです。

 ですが、「その明日」は必ずやってきます。いままでの人生を思い出してください。その日がきてほしくないという、どんなに嫌な気の重い日でも、やはりやってきたでしょう。たとえば、それは夏休みの最終日や、試験の日や、面接の日や、支払期限の日や、胃カメラを飲む日や、手術の日だったかもしれませんね。どんなに嫌な日でも、やはり、やってきたでしょう。「人生最後の日」もそうなんです。

 では、なぜ、「死を見つめる」ということが大切なのでしょうか。これを考えてみましょう。「死」を見つめても人生に何の意味もないのなら、「死」のことなんか考えない方がよいくらいですよね。ですが、そうではないのです。

 昔から、「生きることを学ぶには、死ぬことを学ばねばならない」と言われています。ですが、「死ぬことを学ぶ」ということが、「生きること」にどうかかわってくるのでしょうか。どうして、「死ぬこと」など学ばねばならないのでしょうか。それはです。死を目前にすると人は偉大な成長を遂げるからなんです。「死」は、生きることの尊さ、世界の美しさ、人間の真実を教えてくれるからなんです。

 私たちは、「当たり前になってしまったこと」や「日常的な事柄」のなかに、かけがえのない尊さや、美しさや、意味を感じ取ることができませんでしょう。たとえば、「空気」です。私たちにとって、空気があるのは、いわば当然のことで、空気があるのは、ただそれだけのことにしかすぎません。

 ですが、何かの事故などで窒息しそうだった人が、ようやく救いだされて新鮮な空気に触れたようなときには、そうではないのです。その人は一瞬にして、空気の尊さや、美しさ、意味に気付くはずです。ですがそれは、その時初めて空気に尊さや、美しさや、意味ができたわけではありません。空気は、私たちにとって、もともと尊く、美しく、意味のあるものだったのですが、私たちがそれに気付いていなかっただけなのです。

 同じことが、夫や妻や子供たち、あるいはその他の様々なことについても言えます。たとえば私たちは、仕事から帰って、家に妻がいるのがあたりまえ、子供がいるのが当然だと思っているでしょう。ところがです。ある日、その居てあたりまえの家族が、病気で死にそうだとか、死んでしまったという場合には違うのです。当たり前すぎて気付いていなかったことに、突然気付くのです。その家族が、夫や妻や子供たちが、自分にとってどれだけ尊く、美しく、意味のある存在だったか、ということにです。

 では、もう少し話を進めましょう。朝目覚めた時、「ああ素晴らしい、今日も生きている」と感じたことがあるでしょうか。生きているのは当たり前すぎて、何も感じていないのではないでしょうか。では、私たちが、「生きていること」の尊さや、美しさ、意味に気付くのはいつなんでしょうか。言うまでもありません。それは、「死」を目前にしたときなんですね。「死が、生きることの尊さ、世界の美しさ、人間の真実を教えてくれる」と言うのは、そういうことなのです。だからこそ、「死を学ぶことは、生を学ぶこと」なのです。

 人は、残された時間が少ないことを知った時に、初めて、命の尊さ、暮らしをとりまく世界の美しさ、人生の真実に目覚めるのです。私たちは、これを学ぶために、何十年という人生を歩むのかもしれません。そして人生の秋になって、ようやくおぼろげに気付き始めるのです。

 ですが、若くして病気で死んでいく子供のなかには、何十年も世間に生きてきた大人たちよりも、精神的にはるかに成熟するものも少なくないと言われています。それは、「死」と直面したことで、命の尊さ、暮らしをとりまく世界の美しさ、人生の真実に目覚めたからだと思います。「生きることの意味」は、世間を長く広く旅することで学べるのではないのです。

 こういう言葉があります。「海底の深淵に達するためには、海面を去らねばならない。山の頂に達するためには、ふもとを去らねばならない。」私たちは幸せを求めて忙しく走り回っています。ですが、それは「海面」の世界であり、「ふもと」の世界なのです。若くして死んでいった子供達は、「死の深淵」を見つめることで、「生の頂」に到達したのではないでしょうか。

 本当の幸せは、歩き回って何かを手に入れることで得られるのではなく、立ち止まって生命の尊さや、身の回りの世界の美しさ、人生の真実に気付くことで得られるのではないでしょうか。そして、「死を見つめる」ことから開かれる豊かな光り輝く真実につつまれて、「今ここにある命」を生きることが、命を全うすること、人生を成就することなのではないでしょうか。それは、いわば、過去から未来へと流れる、時間の横軸に沿って生きることではなく、時の流れを止めて、「今ここにある命」を深く、かつ高く味わうことなのです。

 ですが、私たちは「今ここに」という時間と空間に生きているでしょうか。「この世界の真実」と溶け合って「永遠の今」に生きているでしょうか。実は違うのですね。肉体は今ここにあっても、心が今ここにないのです。

 日常の私たちは、何もしていない時でも常に休みなく頭の中でオシャベリをしています。常に何かを考えていると言ってもよいでしょう。過去を誇ったり悔やんだり、未来に期待したり不安を抱いたりして、決して「今」のこの一瞬に溶けるということがありません。つまり、想像の世界で過去へ未来へと走り回る私たちには、肝腎の「今」がないということです。

 怒りが過去からやってきます。不安が未来からやってきます。自惚れが過去からやってきます。野心が未来からやってきます。そんななかで、一瞬横目で「死」をとらえ、「生きることの尊さ」、「世界の美しさ」、「人生の真実」を垣間見たとしても、その瞬間は長続きしないのです。走り回っている私たちには、「今」は過去から未来への通過点にしかすぎないからです。

 では、どうすれば「今ここ」に生きられるのでしょうか。実は、そのためにこそ「お念仏」があるのです。「お念仏」には、過去へ未来へと走り回る私たちのオシャベリ好きな心を鎮め、「今この一点」のなかに抱きとめる力があるのです。

 私たちが「怒り」や、「不安」や、「自惚れ」や、「野心」に苦しみ、「生命の尊さ」や、「身のまわりの自然の美しさ」や、「人生の真実」に気付けないのは、すべて、私たちの心が「時間」の流れに捕えられて、流され続けているからです。「お念仏行」とは、この「時間の流れ」を止め、「永遠の今」を回復する智慧なのです。

 この「お念仏行」につきましては既にお話しいたしましたが、もう一度簡単にお話し申し上げておきます。「お念仏行」を一言で言えば、「はからいをはなれ、ただ一心に念仏申して、浄土に往生する」ということになります。私たちにとって大切なのは、この「はからいをはなれ、ただ一心に念仏申す」という点です。

 「はからいをはなれる」とは、「念仏なんか唱えて何になるんだ」とか、「念仏を唱えることによって救われよう」とかいう思いを捨てることです。「ただ一心に」というのは、「念仏だけ」ということです。「お念仏」を唱えながら、「反省」したり、「我が身の後生」や「先祖の供養」を願ったりしないということです。「ただ一心に念仏申す」というのは、「心」を「お念仏」で満たすということです。もう少し進んで申しますと、それは「お念仏そのものになる」ということなのです。

 「お念仏」で心を満たし、常に「今ここにある命」を生きることができれば、そこには「死」も、「死への恐れ」も無い世界が開けてきます。それは、「自由であって退屈しない」、「無為であって手持ち無沙汰でない」、「ひとりいて賑やかな」世界です。「お念仏行」を実践なさってごらんになれば、このことがきっとお分かり頂けると思います。

 最初に、門徒の法要は、「亡くなった人への追慕や感謝の思いをご縁として集まるものだ」と申しましたが、この「ご縁」とは何へのご縁かと申しますと、それは結局、「お念仏へのご縁」ということなのです。

 そして、「お念仏へのご縁」は、実は「本当の親孝行へのご縁」でもあります。人は親を亡くしてからでも親孝行ができます。本当の親孝行とは何か、お考えになったことがおありでしょうか。

 親御さんのなかには、「誰に産んでもらったと思っているのだ、ひとりで大きくなったような顔をして偉そうに」などと、子供さんにおっしゃる方もあります。ですが、こういう親御さんは、「命を与えた」ということは同時に「死なねばならない」という運命をも与えたことに気付いていらっしゃるのでしょうか。

 「生」と「死」は常にワンセットになっています。「生」のない「死」もなければ、「死」のない「生」もありません。そんな「死」とワンセットになった「生」を与えた親御さんとして、子供さんに対して本当に心から望まれること、願われることというのは何でしょうか。

 それはです。たとえ「死」とワンセットになっていても、やはり「生まれてきてよかった」と、そう子供さんが心から思って下さることではないでしょうか。だとすると、子供さんにとっても、「生まれてきてよかった」と心の底から思えたときに、初めて親御さんの願いをかなえることができた、本当の親孝行ができたということになるのではないでしょうか。

 「生まれてきてよかった」。これほど光に満ちた尊い思いはありません。それは、生命の尊さ、世界の美しさ、人生の意味が分かったということなのですから。「生まれてきてよかった」。それは「お念仏」の世界です。「生まれてきてよかった」。それは私たち凡夫には、「お念仏」に触れるご縁を得て、初めて体得できる世界なのです。

 そんな世界への入り口はどこにあるのか。それは、まさに「今ここに」あるのです。それが、私たち門徒の「法要」なのです。法要は親戚が集まってご馳走を食べ、世間話をするためにあるのではありません。「死」を見つめることによって「お念仏」へのご縁を頂き、この「今ここにある命」に出会うためにあるのです。ご馳走や世間話は、いわば付録なのです。どうぞ、このことをよく心に刻んで頂き、「法要」のご縁を大切になさって頂きたいと存じます。


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 さて、心のポケットをひっくりかえしてみても人生に対する疑問などかけらも出てこないとおっしゃる方は、もともとこんなホームページなどお読みになってはおられないでしょう。ですが、この一連の手紙では、多くの宗教家たちが力説する「修行」や「社会正義」や「慈善活動」といったものに、ほとんど重きを置いておりませんので、その点でご不満な方もおられるかと思います。以前にも少しお話しいたしましたが、私自身は「現実」のなかでの「努力」というものを余り高く評価してはおりません。ただ、そう申し上げただけでは誤解を招くおそれがありますので、次回はそういった問題をも含めて、再び、私たちの「現実世界」について考えてみたいと思います。合掌