心の青年への手紙・第11通

「宗教」に対する誤解

拝啓

 「宗教」というと、まず第一に頭に浮かぶのは何でしょうか。ひょっとすると、「かなわぬときの神頼み」ではないでしょうか。私たちは、闇のなかでもがき続けて万策尽きると、それこそ藁にもすがりつく思いで、普段は認めていない神や仏に祈ることがあります。

 先日も、ある方がこんなことをおっしゃっていました。「商売を軌道に乗せるために出来るかぎりのことをやりましたが、どうしても思うようになりません。こうなれば、あとはもう真剣に信心でもするしかないと思っています」と。宗教とはご利益を願うもの。寺や神社はご利益を授ける場所。おそらく、たいていの人はこんなふうに思っておられるのではないでしょうか。

 たしかに、交通安全のおふだや癌封じのご祈祷などを売り物にしている社寺も少なくありませんし、宗教法人を管轄している文部省でもそういった行為を宗教活動として認めているのですから、ご利益を願うのが宗教だと思われても無理はないのかもしれません。孫の大学合格を願って神社に詣でる。夫の病気平癒を願って仏壇に手を合わせる。身内の方々を思われるお気持ちはよく分かります。ですが本当は、そういったことは宗教とは全く相容れない性質のものなのです。私たちは「宗教」というものを誤解しています。今回は、そんな私たちの誤解についてお話し申し上げたいと思っております。ちょっと社会常識とは違ったことを申し上げるかもしれませんが、しばらくお付き合いください。

 さて、最初からちょっと矛盾したことを言うように聞こえるかもしれませんが、私は必ずしも祈願そのものに現実的な効果がないとは思っておりません。何事であれ、真摯に願えばかなうこともあります。何故なら、以前にもお話しいたしましたように、世界のあらゆるものは深いところで皆つながっているうえに、私たちの心には目に見えない力が備わっているからです。話の公正を期するためにも、ご利益祈願と宗教の違いをはっきりさせるためにも、まずはそういった心の力について見ておこうと思います。

 10円硬貨をはじいて地面に落とし、裏が出るか表が出るかを当てる遊びをご存じでしょう。数学的に言えば、裏が出る確率も表が出る確率も同じはずです。勿論これは、2回投げれば表と裏が1回づつ出るという意味ではありません。何万回も投げれば、全体として裏の出る回数と表の出る回数はほぼ半々になるという意味です。無心に投げ続ければ確かにこういう結果になります。ところが、「表が出ろ、表が出ろ」と念じ続けてこれをやると、不思議なことに表が出る回数が多くなってくるのです。そういう結果になるのは、私たちの心に外界に働きかける力があるからです。

 もっと「ご利益」に近い例を見てみましょう。これは「祈り」の効果を調べるために、スピンドリフトという研究者グループが行なった有名な実験です。まず、浅い容器で苗床を作り、中央に紐を張ってサイドAとサイドBに分けます。次に、サイドAとサイドBにそれぞれ同数のライ麦の種子を蒔き、一方のサイドに対してだけ祈り、もう一方のサイドに対しては祈らないのです。種子が育つと、発芽した数を数えます。多くの人が何度も繰り返して確認したところ、結果的に、何度やっても祈ったサイドのほうがもう一方のサイドよりもはるかに発芽した数が多かったのです。つまり、「祈り」には効果があると確認されたわけです。

 「祈りの研究」は、医療現場でもにわかに注目を浴びることになりました。たとえば、元カリフォルニア大学心臓学教授ランドルフ・ビルド博士は、心臓病の入院患者393人に対して厳密な実験を行い、祈りには大変な治癒効果があることを証明しています。実験では、まず患者を、祈られるグループと祈られないグループとにコンピュータで無作為に振り分けます。次に、患者のために祈る人たちを全国の教会から募集し、患者の名前・病状を教えて、毎日その人のために祈るように依頼したのです。詳しくは触れませんが、結果は衝撃的なものでした。祈られた患者グループと祈られなかった患者グループとの間には、驚くほどの差が生まれたのです。その結果を見て、ある医師はこう述べています。「おそらくわれわれは『一日に三回祈ること』と処方箋に書くべきなのだろう」と。

 「祈り」には相応の効果があるようです。それは人の死を願うような邪悪な祈りの場合でも同じです。わが国には鎮護国家の名のもとに、いわゆる宗教家たちがたびたび呪咀を行なってきた陰湿な歴史があります。第二次世界大戦末期にも、霊的国防と称し、全国の社寺が加持祈祷によってルーズベルトやチャーチルを呪殺しようとしたことがあったと聞いています。また今でも、鞍馬山山中のお堂の裏には五寸釘の刺さった藁人形が散乱していると聞きますから、どうやら「丑の刻まいり」も昔語りではなさそうです。こういった呪咀が延々と伝えられているのも、やはりそれなりの効果があるからなのでしょう。

 「丑の刻まいり」については興味深い実験をした人がいます。『41歳寿命説』などで有名な、あの西丸震哉氏です。西丸氏は、まず、古式の作法の要点を整理して簡略なシステムを考案します。次に、「友人のなかで別段たいして社会に役立つ人間になりそうもないのをひとり選びだし」、事前に健康状態を確認しておいてから、夜中にこっそり藁人形に虫ピンを1本づつ刺す作業にとりかかりました。秘かに観察を続けていると、1週間目あたりから効果が出てきて、15日目にはもう危ないという状態にまでなったために、すぐに実験を中止したというのですが、何とも乱暴な話ではあります。

 西丸氏の友人でなくて幸いですが、これにはまだ後日談があります。西丸氏の知人のなかに、この実験を最後までやって相手を殺してしまった人がいたのです。ただし、その人は、その後はどんな仕事をしてもうまくいかず落ちぶれてしまいます。「死んだ瞬間に相手はだれが自分を殺そうとしていたのかを知ることになり、それからあとはジワジワと復讐される、こちらが殺られる番だ」と分かったそうです。「人を呪い殺すと共倒れの形となるわけで、結局こういう方法が知られていながら、あまり活用されずにすんできたのは、やったほうもやられるからなんでしょうね」というのが、その人の体験的結論です。昔から「人を呪わば穴ふたつ」といいます。間違ってもお試しになりませんように。

 では、そろそろ本日の本題にとりかかろうと思います。私たちは、「商売がうまくいきますように」、「病気が治りますように」と祈ります。これが「祈願」です。祈願とは現実的な効果をねらった行為です。しかしです。実は、その「現実的」な効果こそが、本来の「宗教」とは全く無縁のものなのです。宗教とは、そういった現実的な効果をめざしているものではないのです。では、宗教とは何か。私たちにとって宗教といえば、たいていは仏教のことですから、ここではこの身近な仏教を基準にして考えてまいりましょう。

 まずは、仏教とはどんな教えかというところから始めます。目の前に大きな川が流れていると想像してみてください。川のこちら側を「此岸」といい、川を渡った向こう側を「彼岸」といいます。仏教では此岸のことを「娑婆」と呼んでいます。娑婆とは、煩悩の火が燃えさかる迷いの世界(いわゆる現実世界)のことです。一方、彼岸は、煩悩の火が消え去った悟りの世界です。仏教が私たちに教えているのは、この煩悩の燃えさかる此岸を離れて、川向こうの穏やかな悟りの彼岸に到達せよということです。

 ですが、娑婆を離れて彼岸に到れといっても、「現実」を否定しようとしているわけではありません。現実を否定しているのは、仏教ではなくて、むしろ私たちの方なのです。「現実を否定している」と言って分かりにくければ、「今の自分に不満を抱いている」と言えばどうでしょうか。私たちは常に、「今の自分」ではないものに「成りたい」、「今の自分」が持っていないものを「手に入れたい」のではないでしょうか。

 本当の現実は「今の自分」にあります。ところが私たちは、「成りたい」「手に入れたい」という欲求の方を自分の現実だと考えがちです。「今の自分」という現実を否定し、「成りたい」「手に入れたい」という欲求を肯定しているのが私たちです。仏教はちょうどその逆です。仏教は「今の自分」という現実を肯定し、「成りたい」「手に入れたい」という欲求を否定しているのです。つまりは、「成りたい」「手に入れたい」という「祈願」を否定しているのが仏教だということです。

 仏教がめざしているのは心の平安ですが、「今の自分」に不満を抱いているかぎり、心の平安は得られません。「成りたい」ものになっていない、「手に入れたい」ものを手に入れていない「今の自分」を否定しているかぎり、自分は常に惨めです。

 では、「成りたい」ものになり、「手に入れたい」ものを手に入れれば、それで心の平安を得られるかというと、決してそうではありません。娑婆に生きる私たちの欲求には、かぎりがないからです。何かを手に入れたら、次は他のものが欲しくなるのです。「衣食足って礼節を知る」という言葉がありますが、これも結局は、「食べられたら、次は、誉められたい」というだけのことではないのでしょうか。

 私たちは、病気になれば治りたいと思います。ときには、神仏に祈ってでも治りたいと願うのです。では、治ったらどうするというのでしょうか。治ったら社会に復帰する。つまりは、欲望の戦場に帰っていくだけではないのでしょうか。仏教は、その欲望の戦場から離れろと教えているのです。そんな仏教に、戦場へ帰してくれと「祈願」するのは筋違いではないでしょうか。

 仏教は、娑婆を離れて彼岸に到れと教えています。ですがそれは、町を離れて山に篭もれといっているわけではないのです。娑婆は私たちの「心」にあるのですから、たとえ人里離れた山に篭もっても娑婆を離れたことにはなりません。そうではなくて、仏教が教えているのは、私たちの心のなかにある「煩悩」を希薄にしていけということなのです。

 「煩悩」とは、自他を区別して、他人と区別された「自分」の利益をはかろうとする心の働きのことです。言葉をかえて言えば、「煩悩」とは「エゴ」のことです。仏教がめざしているのは、そんな「エゴ」からの解放、つまりは「自他を区別する心の働き」そのものの解消なのです。

 「エゴ」は「自分」の利益のことしか考えていません。「エゴ」の頭には「自利」しかないのです。そんな「エゴ」の努力を、仏教では「自力」と言います。他人と区別された自分の利益は、自分の力(自力)で勝ち取るしかないのです。だからこそ、「エゴ」の支配する娑婆(現実世界)では「自力」(努力)が賛美されるのです。(私が努力というものを余り高く評価しない理由もここにあります。)

 言葉の上で言えば「自利」の反対は「他利」です。ですから、ややもすると「自利」は悪で「他利」が善だということになりがちです。人助けこそ仏教の実践だと考える人もいます。しかしです。「他利」とは他人の利益をはかることなのですから、これもまた「自利」の場合と同様に、自分と他人を区別して初めて成り立つものなのです。つまり本当は「自利」も「他利」も、ともに「エゴ」の表われだということです。そんな「自利」からも「他利」からも、ともに離れるのが仏教の道です。

 たとえて言えば、時計の振り子が右に振れているのが「自利」であり、左に振れているのが「他利」なのです。振り子を動かしているのは「エゴ」です。右にも振れず左にも振れず、静かに止まっている。これが仏教のめざす「中道」なのです。「自」とか「他」とかいった「個」を離れることで「全」になる。それが仏教の「利」です。まことの「利」には「自」も「他」もないのです。

 とはいえ、「自利」はともかく、「他利」が「エゴ」だというのはお分りにくいかもしれませんので、少し具体的な例について見ておきたいと思います。「他利」的行為の代表といえばボランティア活動でしょうから、これを例にとって考えてみます。ただし、誤解を重ねないために前以てお断わりしておきます。ここでは決してボランティア活動が「社会的」に無益な行為だと言おうとしているのではありません。そうではなくて、ただ、「エゴ」は「他利」にもかかわっているという例を見ておきたいだけなのです。

 では、ちょっとご一緒に考えてみてください。神戸大震災のような大災害が起こると、全国からボランティアが集まります。しかし、どうして遠くから集まってくるのでしょうか? 助けを必要としている人々がいるのを知ったら、ただ手をこまねいているわけにはいかないからです。なるほど、ごもっともです。では、そういった遠くから出かけてきた人々の住まいの近くや家族のなかには、助けを必要としている人はいなかったのでしょうか? …「エゴ」を見つめる私たちは、ここでハタと答えに窮します。

 身体の不自由な祖父、寝たきりの祖母、年老いた父や母。助けを必要としている人々は身近にいくらでもいるのではないでしょうか。寝たきりの祖母の世話を嫌ってボランティアやアルバイトに精を出す孫、年老いた父親の面倒を兄弟に押しつけてボランティアやカルチャーセンターに出歩く子供。世間では珍しくもない話です。…ですが、「エゴ」を見つめる私たちは、思わず考え込んでしまうのです。自分の問題として。

 家で寝たきりの姑の世話をしていても、口うるさいばかりで特に感謝してくれるわけでもない。四六時中顔をつきあわせて、食事だ洗濯だと雑用ばかりに追い回され、人とも会えず、疲れていても逃げられない。身内のことだから、いくら頑張っても賞められるわけでも、お金になるわけでもない。鏡に映る疲労にくすんだ顔に、焦点の合わない目ばかりが揺れて、思わず大声でわめきだしたくなるほど悔しくなる。

 ところがボランティアだと、相手は他人だから相応に遠慮もしてくれれば感謝もしてくれる。お金をもらうわけではないので立場は上だし、相手に拘束されているわけでもない。現場によっては刺激も多い。他人からも立派だと賞められ、社会の役に立っているのだという実感もある。活動時間が終わればその場を去れるのだし、ボランティア仲間と楽しくオシャベリもできるのだ。…「エゴ」を見つめる私たちは、小さな溜息を漏らすのです。悲しみも喜びも「エゴ」の手の内にあるのを垣間見たからです。これで、もうお分りでしょう。

 仏教というものは、ある意味で、非社会的なものだと言えます。仏教の目は、本来、外にではなく内に向けられているからです。仏教は、外の世界を変えることではなく、私たちの内にある心を変えることをめざしているのです。ですから、目の向けられている方向からも、仏教とそうでないものとを見分けることができるように思います。社会に働きかけようとする目は、社会人の目ではあっても、仏教徒の目ではないのです。この点は、社会人である私たちには、なかなか理解しがたいところかと思います。

 自分は変わらずに外の世界を変えようとするのが「エゴ」です。自分が変わること以外なら何でもしようとするのが「エゴ」です。「エゴ」は努力家です。努力で「成れない」「手に入らない」と分かれば、神仏にすがってでも「成ろう」「手に入れよう」とするほど、「エゴ」は努力家なのです。

 「祈願」というものは「エゴ」の戦略のひとつです。ですが「エゴ」というのは、「エゴ」を希薄にしていき、ついには消し去ってしまおうという仏教が、自分の役に立つと思い込んでしまうほど愚かなものでもあるのです。これでもまだ、「ご利益祈願」は宗教だとお考えでしょうか。

 「エゴ」には、「成りたい」「手に入れたい」しかありません。そのために果てしない努力を続けているのが「エゴ」なのです。思えば「エゴ」とは悲しいものです。もうそろそろ、そんな「エゴ」を解放してやってはいかがでしょうか。「エゴ」を解放する。それは、世界を変えようとする努力をやめること、つまり「何もしない」ということです。

 「何もしない」などとと申しますと、あるいは閑人の戯言のように思われるかもしれません。「成りたい」「手に入れたい」という思いがあって努力したからこそ人類は進歩発展してきたのではないか、という声も聞こえてきそうです。ごもっともです。たしかに生活は便利になってきました。ですが、2500年前に釈尊が悟られたときと較べて、本当に人類は進歩発展しているのでしょうか。本当は「成りたい」「手に入れたい」の「エゴ」が肥大してきただけなのではないでしょうか。次回は、そんな疑問についてご一緒に考えてみたいと思います。合掌