心の青年への手紙・第12通

闇から光へ

拝啓

 前回は、「成りたい」「手に入れたい」と果てしない努力を続けている「エゴ」を解放しよう、世界を変えようとする努力をやめよう、というお話しをさせて頂きました。しかし、あるいは、「成りたい」「手に入れたい」という思いがあって努力したからこそ人類は進歩発展してきたのではないか、そんな思いを否定すれば人類の未来はどうなるのか、と疑問に思われた方もおられたのではないでしょうか。

 ですが、はたして私たち人類は、釈尊が悟りを開かれた2500年前と較べて本当に進歩発展しているのでしょうか。本当は、「成りたい」「手に入れたい」の「エゴ」が肥大してきただけではないのでしょうか。人類の進歩発展とは、いったい何なのでしょうか。また、私たち人類は何をめざして進化しているのでしょうか。今回は、こんな疑問についてご一緒に考えてみたいと思います。

 さて、「成りたい」「手に入れたい」の私たちは、物質的に豊かになれば、より幸せになる、それが「進歩発展」だと、心のどこかで考えているようです。

 ですが、物質的な面で言えば、釈尊が悟りを開かれた2500年前のインドは、今の日本とは比較にならないほど貧しい世界でした。その貧しい世界のなかでも、仏教の出家修業者たちは、ひときわ貧しかったといえます。

 当時の出家に所有を許されていた品物は「三衣・一鉢・陳棄薬」(さんね・いっぱつ・ちんきやく)という3点だけでした。「三衣・一鉢」というのは、身体をおおう布3枚と、乞食(こつじき)に行って食物を入れてもらう鉢ひとつのことです。「陳棄薬」というのは、牛の大小便を腐らせて作った万能薬のことです。この3点だけが、当時の出家者の持ち物だったわけです。

 ところが、或る人の計算によると、現代の日本人は平均して一人2万点の品物を持っているのだそうです。どうやって計算したのかは分かりませんが、確かに私たちの身の回りには品物があふれています。戦前の日本では、部屋の中に占める品物の割合は2割までだったそうですが、今はそれどころではありませんね。タンスやテレビや食器棚、冷蔵庫や洗濯機やと、部屋の中は物であふれかえり、まるで倉庫のなかで暮らしているようなものです。

 人は「三衣・一鉢・陳棄薬」の3点しかなくとも悟れるのですが、私たちは2万点の品物に囲まれていても悟れない。それでいて、私たちは、もっと豊かになったら、もっと幸せになれると思っているのです。しかし、物質的に豊かであれば幸せかと申しますと、どうやらそうでもないようですね。

 ちょっと資料が古いのですが、2年前の『日本経済新聞』に、こんな記事が載っておりました。香港の或る調査会社が、アジアの国々の幸福度というものを調査したところ、「自分は幸せだ」と答えた人は、比較的貧しい国に多かったのです。数字を挙げますと、フィリピンとインドネシアが94%、マレーシア、シンガポール、タイが92%、香港が89%、韓国が85%、台湾が79%、そして日本が最低の64%でした。

 この年の一人当たりの国民総生産を見ますと、94%もの人が「幸せだ」と答えたフィリピンが740ドル、インドネシアが610ドル、それに比べて日本はアジアでトップの26,920ドルです。日本は、実に、フィリピンの36倍、インドネシアの44倍も稼いでいるのです。それなのに、「幸せだ」と答えた人は、アジアで最低の64%なのですね。「富を集めて豊かになること」と「幸せを感じること」とは、必ずしも比例していないように思うのです。

 ところで、こんな「成りたい」「手に入れたい」の世界を最後まで突き進んで行くと、どうなるのでしょうか。私たちはたいてい、「成りたい」「手に入れたい」の世界で迷っている最中ですから、ゴールがどうなっているのか見えてはいませんが、歴史を見れば想像がつきます。それには、歴史に残る偉大な征服者(物質的世界の支配をめざした人)、古代インドのアショカ王と秦の始皇帝の生涯を見れば十分でしょう。

 お釈迦さまが亡くなられて100年ほど後の古代インドに、アショカ王という人がいました。仏教の世界では有名な人ですから、あるいはご存じかもしれませんね。このアショカ王は、兄弟を殺して王位に就き、戦争に明け暮れて、即位8年目にカリンガの戦いで数十万人を殺し、念願のインド統一を果たし人です。

 「成りたい」「手に入れたい」のゴールに到達したアショカ王は、どう感じたのか。アショカ王は、激しい後悔の思いに苛まれて苦しみました。「成りたい」「手に入れたい」のゴールには、堪え難い「虚しさ」しか無かったのです。アショカ王は、その後、仏教に帰依して救われていきますが、秦の始皇帝は別のゴールに到達します。

 秦の始皇帝は、アショカ王とほぼ同じころの古代中国の王様です。13歳で即位した始皇帝は、戦国の六雄と呼ばれる6つの大国を次々と攻め滅ぼし、古代帝国を実現しました。その中国全土を意のままにできた始皇帝が、最後に望んだのは「不死の薬」だったのです。考えてしまいますね。「成りたい」「手に入れたい」という欲望の果てには、人生への絶望か、生への執着しかなかったのです。

 余談ですが、これをご自分で確かめてみたいと思われるなら、方法はあります。長い巻紙と筆を用意して、ご自分が「成りたい」「手に入れたい」と思っておられる事柄を順番に書き付けていくのです。コツはですね、できるだけ具体的に想像して、「思いは常にかなう」という前提でリストを書き進めることです。つまり、ゴールへの最短距離を想像の世界で突っ走ってしまおうというわけです。結果は意外に簡単に出てしまいます。ペルシャの呪いの言葉に、「お前の願いが何でも即座に叶えられますように」というのがあるのだそうですが、おそらくこの言葉の意味がお分りになるのではないかと思います。

 「成りたい」「手に入れたい」の果てには幸せがない。実は、釈尊が出家されたのも、このことに気付かれたからです。物質的な世界を捨てた釈尊は、瞑想のなかで「生命の進化」の流れに気付き、その流れの辺際を究めて「仏」となったのです。仏教が教えているのは、この進化の流れに従って真の幸せに到達することです。別の言葉で申しますと、仏教は、人類の究極的進化をめざしているのです。では、人類は、どこをめざして進化しているのでしょうか。

 「進化」と申しますと、まず思い出すのは科学の世界でいう「生物の進化論」ですが、現代科学では「生物も結局は物質だ」と考えていますので、科学でいう「進化論」は、いわば物質としての「肉体の進化」を扱っていることになります。

 しかし、仏教では生命は物質世界を越えて進化していくものと説き、その進化の道筋を「六道」という6つの領域で表わしています。「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」というのがそれです。これは精神の発達段階を表わしたものですから、仏教の進化論は、いわば「魂の進化」を扱っているものと言えます。

 伝統的な仏教の話を聞いてこられた方々は、「六道」というものを、「死後に行く、どこか別の世界だ」とか、あるいは「私たち人間の様々な心の状態を説明したものだ」とお考えになっているかもしれません。ですが本当は、「六道」というのは、闇から光への「魂の進化」の流れを表わしたものなのです。そして、この流れは、最終的に、一如そのものである仏の世界をめざしているのです。

 ではひとつ、科学の説く「肉体の進化論」と仏教の説く「魂の進化論」を結びつけて、「人類の進化」をながめ、私たちの進むべき道を考えてみることにしましょう。

 さて、私たちの住んでいる地球が誕生したのは、50億年ほど前だと考えられておりますが、その後ほぼ15億年間、地上に生物はおりませんでした。この、地上に生物がいなかった15億年間は、「生命」つまり「魂」にとっての「暗黒時代」だと言えます。この「暗黒時代」が「地獄」に相当します。

 地球に生物が誕生したのは、今から35億年ほど前だと考えられております。私たち人間は約60兆の細胞で出来ていると言われていますが、最初に生まれた生物は、たった1個の細胞で出来た「単細胞生物」でした。

 「単細胞生物」の生活は、ただひたすら「食べる」ことでした。際限なく「食べて、食べて」、エネルギーが余ると、つきたての餅を二つにちぎるような仕組みで分裂を繰り返し、無限に殖えていく。これが原始生物の生活だったわけです。この、ひたすら「食べる」ことに集中している段階が、「餓鬼」に相当します。

 私たちの常識から言えば、「生きている」ということは「いずれ死ぬ」ということですが、こういった最も原始的な生物には、老化による「死」というものがありません。生存に適した環境にある限り、無限に分裂を繰り返して殖えていくだけで、死なないのです。つまり、「死」というものは、進化の過程で生物に付け加えられたものなのですね。

 生物が「死ぬ」ようになったのは、「オスとメス」つまり「性」というものが出来たときだと考えられております。「オスとメス」というものが出来てから、子供を産んで親が死ぬという、私たちにお馴染みの仕組みになったわけですね。それは今から10億年ほど前のことだと言われております。

 その後、何億年もかけて、生物は、魚類、両棲類、爬虫類、哺乳類へと進化していき、最後に人類が登場します。この「性」というものが出来たことで「死」という現象が生まれてから、「人類」が誕生するまでの段階が、「畜生」に相当します。

 「畜生」と「人間」の違いは、「死の自覚」にあります。たしかに、人間以外の生物にも、たいてい「死」という現象はあります。ですが、そういった生物にとって「死」というものが「意味」を持つことはありません。「死」を自覚的に見つめ、「生」の意味を問うことができる唯一の生命体、それが人類だと思います。

 「死」を自覚したことで、人類は何を得たのか。人類は「死」を自覚することで、「宇宙永遠の真理」つまり「一如」への気づきを得たのです。この「一如」への気づきから生まれたものが、宗教です。

 さて、科学の世界でいう「生物の進化論」は、この「人類」の登場で終わります。人類が登場して幕を閉じるというシナリオは、地球の将来を暗示しているようで、どうも穏やかでありませんが、仏教の側の「魂の進化論」では、「人間」の次の段階として、「天」というものを説いております。

 インドの言葉では「天」を「デーバ」と言います。「デーバ」とは、「光り輝くもの」という意味です。「人間」と「天」との違いは、「一如の自覚」にあると思います。

 伝統的な仏教では、「天は自分の欲望が充たされる場所だ」と説かれていますが、「六道」というのは、欲望充足の段階ではなく、魂の成長の段階なのですから、そういう考え方はどうかと思います。

 お釈迦さまも「トソツ天」という「天」から「人間界」に生まれてこられたと言われております。また、弥勒菩薩の浄土もこの「トソツ天」にあると言われております。私は、「天」というのは「一如の自覚」を得るところ、「自分の魂の目的」を明らかに知るところだと思います。

 さて、残るは「修羅」です。「修羅」とは何でしょうか。さきほど、人類は「死」を自覚することで「宇宙永遠の真理」つまり「一如」への気づきを得たと申しましたが、人であればみな一如への気付きを得ているかというと、そうではありません。私たちの多くは、死は自覚していますが、一如への気付きに欠けています。これが「修羅」です。

 死を自覚していながら一如に気付いていないとどうなるのか。それはです、「人」を超えた「天」や「仏」は無いということになります。つまり、「神も仏もない、死ねば終わりだ」ということになるのですね。

 現代人はたいてい、「神も仏もない、死ねば終わりだ」と考えております。私たち現代人にとっては、「現実世界に生きている間の自分が全て」なのです。ですから、たいていは、「生きている間にしたいことをして、せいぜい楽しく一所懸命に生きた者が勝ちだ」ということになってしまいます。

 そんな私たちの人生には「自分の欲望がどれだけ実現できるか」ということしか残っていません。自分の欲望を追求し、自分の欲望を実現することにしか関心がない。これが「修羅」なのです。「修羅」というのは、自分の欲望を実現するために戦い続ける生き物のことです。つまりは、「成りたい」「手に入れたい」と、導火線が燃えるように生きている私たちが「修羅」なのです。

 「修羅」の世界に本当の幸せはありません。「修羅」は闇の世界です。それに対して、「一如」は光の世界です。「一如への気付き」というのは、「一如」の世界から漏れてくる木漏れ日のような光に気付くことを言います。「人を超えた世界に何かがある。光り輝く何かがある」。この木漏れ日のような光に気付いて、闇の世界から光の世界へと振り向き、あの光の世界へと行きたいという思いをおこすこと。それを仏教では「菩提心」をおこすと言います。

 「修羅」を離れて本当の「人」になるには「菩提心」をおこさねばなりません。「菩提心をおこす」というのは、「一如」に向かって歩み始めたいという思いを抱くことです。宗教はここから始まります。菩提心のない宗教は、ただの教養です。そんな宗教は「修羅」の道具でしかありません。

 「修羅」の世界の中心に向かって走っていた私たちが「一如」に向かって方向転換するためには、まず立ち止まらねばなりません。前回にお話し致しました「何もしない」というのは、まずは、そういうことを言うのです。「一如」の世界からの声を聞くには、立ち止まって耳を澄まさねばなりません。それは、ただぼんやりと無気力に何もしないということではなく、積極的に日常の時間を止めるという意味で、「何もしない」ということなのです。それは、私たち門徒にとっては「念仏行」をするということです。

 コンニャクは99%が水だそうです。また、チンパンジーと人間の遺伝子は99%まで同じだそうです。つまりです、全体のわずか1%が水をコンニャクに変え、チンパンジーを人間に変えているのです。一日24時間の1%は15分です。この15分の念仏行が、「修羅」を「人」に変えるかもしれません。合掌