心の青年への手紙・第13通

背中の荷物の中身

拝啓

 徳川家康の遺訓として、「人の一生は重き荷を負うて遠き路を行くがごとし、いそぐべからず」という言葉が伝わっています。これは本当は徳川光圀の言葉だそうですが、それはともかく、おそらく現代でもこの言葉に共感される方は少なくないのではないかと思います。

 ですが、この私たちが背負っているという「重き荷」とは、いったい何なのでしょうか。この荷物を背中から下ろして、軽やかに歩くことはできないものなのでしょうか。できることなら、そうなりたいものです。そこで今回は、この、私たちが担いでいるという荷物の中身についてご一緒に考えながら、軽やかに生きる道を探ってみたいと思います。どうぞ、しばらくの間、お付き合いください。

 さて、私たちの社会は「競争社会」です。まずは、ここから話を始めましょう。競争社会では「勝つ」ということが大切になります。勝つためには強くならねばなりません。つまり、競争社会では「強い」ということが絶対的な価値を持ってくるわけです。他の人より強くなる。相手より強くなる。スポーツでも、勉強でも、何でも、相手より強いと誉められます。

 そういう社会ですから、子供を育てるときにも、何が何でも「敗けない強い子」を育てようとする。ですから、たとえば「いじめ」の問題に対しても、同じ発想しか浮かんでこないのです。このあいだも新聞に、こういう発言が載っておりました。「結局、いじめから逃げないような強い子を育てないといけないということでしょう」と。

 「結局は、強くなる以外に道はない」。競争社会では、これ以外の発想が生まれてこないのです。相手が棒を持てば、自分はもっと長い棒を持つ。相手が石を投げれば、自分はもっと大きな石を投げる。そうしてだんだんエスカレートしていって、最初は石を投げ合っていたものが、最後には原子爆弾を投げ合うようになる。結局は、こうなるしかないのが競争社会だとしたら、競争社会そのもの、つまりは「競争」そのものが間違っているのではないでしょうか。

 私たちは競争社会に生まれ、「競争は絶対だ」と教えこまれて育ちますから、「競争」そのものが間違っているとはなかなか思えません。ですが、それは、資本主義社会に生まれて、「資本主義は絶対だ」と教えこまれて育てば、資本主義そのものが間違っているとはなかなか思えないようなもので、一種の催眠術にかかっているのだと思います。

 実際、催眠術にかかっているのだと考えると、私たちの社会に起こっている様々な問題の意味がよく分かるのですね。どう分かるのか。それをお話しするために、ちょっと、興味深い催眠術の実験のお話しをいたします。

 これは、アーネスト・ヒルガード博士という催眠術の研究家が行なった実験です。博士は、まず、氷水を満たしたバケツを用意します。そして、一人の男性に催眠術をかけて、「このなかに左手を入れても冷たくないよ、痛くないよ」と言い聞かせて、左手を入れさせます。当然、普通でしたら、そんな氷水に手を入れていると、すぐに痛くなってきます。ですが、催眠術をかけられて、「大丈夫だ」と言われている被験者は、何の痛みも感じなかったのです。催眠実験は成功しました。ここまでなら、よくある実験ですが、面白いのはここからです。

 次に、博士は、この被験者の右手に鉛筆を持たせて、「手元を見ずに、右手が書きたがっていることを自由に書かせなさい」と、指示したのです。すると驚いたことに、彼の右手は、「手が凍りそうだ、痛い、痛い、手を出させてくれ」と、書いたというのです。

 つまりですね、心のなかには催眠術にかからない部分がある。催眠術にかかっていたのは心の浅いレベルだけで、心のもっと深いレベルは、何が起こっているのか本当のことを知っていたということです。この実験が私たちの社会とどう関係があるのかというと、こういうことです。

 私たちは「競争は絶対だ」という催眠術をかけられて、競争社会という氷水のバケツに左手を入れさせられている。ですが、心の深いレベルにある「本当の自分」は何が起こっているのか本当のことを知っていて、右手の鉛筆で「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ」と書き続けている。その右手の書き続けている「いやだ、いやだ」という叫び声が、つまりは、私たちの社会に起こっている様々な問題なのではないかと思うのです。

 競争社会は、立ち止まれば追い抜かれるという、忙しくてストレスに満ちた社会です。ストレスがかかると、体内でノルアドレナリンや、アドレナリンといった毒性を持ったホルモンが分泌され、さらには猛毒の活性酸素まで発生するといわれています。こういった毒のせいで免疫系が弱まって病気になりやすくなるのです。

 病気の70%〜90%、成人病のほぼ100%が、このストレスが原因で起こると言われています。実際、1994年に全国で人間ドックを受けた働き盛りの世代で、「異常なし」と診断されたのは、わずか18%だったそうです。「競争はいやだ」と言えないように催眠術にかけられているものですから、身体が病気になって「いやだ、いやだ」と言っているのです。私たちのなかにいる「本当の自分」は、競争などしたくないのです。

 競争社会は、加速社会です。競争によって科学技術が進歩し、生活が便利になると、暇な時間が増えて、のんびり暮らせるようになるかといえば、そうではありません。かえって忙しくなるのです。たとえば、昔なら北海道に出張するということになれば、汽車で何日もかかりましたが、今なら、飛行機で日帰りができます。つまり、便利になったことで、何日分もの仕事を一日でしなければならなくなったのです。

 また、昔なら手紙を書いて何日も返事を待っていたものが、今なら、電話やファックスで即座にやりとりができます。さらにこれからは、コンピューター通信やインターネットが普及して一瞬のうちに世界中から情報が集まるようになっていくでしょう。それはつまり、通信手段の進歩によって、一日で処理しなければならない情報量が、ますます増えていくということです。

 そうなると、コンピューターなしでは情報を処理しきれないので、コンピューターを使えることがビジネスマンの必須条件となっていく。ただでさえ、忙しいビジネスマンが、コンピューターを学ばねばならなくなる。それは遠い将来のことではなく、すでにもう、そういう変化に付いていけずに、コンピューター・ノイローゼになって出社拒否を起こしたり、退職したり、自殺したりするビジネスマンも少なくないといいます。学校でも、学ばねばならない情報が年々増え、それにつれて、いわゆる落ちこぼれや、登校拒否が、急激に増えてきています。

 処理しなければならない情報、学ばねばならない情報が増えるにつれて、生活はますます忙しくなっていく。そして、人は情報量の増加にだんだん付いていけなくなって、会社からも学校からも、どんどん落ちこぼれていくということになるのです。

 今も、情報量は加速度的に増え続けています。いまに、情報量の増加に誰も付いていけなくなる。そんな日が遠からず来るに違いありません。このスピードで情報が増え続ければ、その日は、2012年の12月中に来るという学者もいます。ですが、本当の問題は、情報量が加速度的に増え続けてることではなく、そんな情報を「処理しなければならない」「学ばねばならない」という、この「〜しなければならない」という催眠術のほうにあるのです。

 「〜しなければならない」というのは、私たちに「努力」を要求する言葉です。私たちが、社会の要求に従って、これまで「努力」し続けた結果、その社会自体も私たちも、何やら、とんでもないところまできてしまったように思います。もう、このあたりで、「努力」をやめないと、取り返しがつかなくなるのではないでしょうか。

 もうそろそろ、私たちが背負わされている荷物の輪郭が見えてきたのではないかと思います。私たちは社会から、「幸せになるためには競争に勝たねばならない、競争に勝つためには努力しなければならない」というリュックサックを背負わされているのです。では、そのリュックサックの中身は何か。それはですね、実は、「プライド」(高慢な思い)と「コンプレックス」(屈辱感・劣等意識)なのです。

 この荷物は、競争社会を生きているかぎり、常に増えていきます。競争に勝てばプライドを拾い、競争に敗ければコンプレックスを拾います。私たちは、競争のなかで、心にプライドとコンプレックスをためこんでいきます。つまり、拾ったプライドとコンプレックスを、捨てずに持っているわけです。そうして、私たちの心は、だんだん重くなっていく。生きているのが重荷になっていくのです。仏教が教えているのは、努力して集めたこの荷物を捨てて、心軽やかに生きることです。

 本来、仏教には「努力」というものがありません。仏教で大切なのは「努力」ではなく「精進」です。「精進」というのは、拾い集めたプライドやコンプレックスを捨てていくことを言います。ですが、それは自分の努力では捨てられないのですね。なぜかといえば、自分の努力でうまく捨てられたと思うと、捨てられない人が愚かに見えてくる。自分は偉い、となるのです。そうすると、またぞろ、自分の努力、つまり「自力」に対するプライドを拾うことになってしまうからです。

 そうではなくて、静かな心で「一如の声」の耳をすませていると、「他力」が働き、努力、努力と握り締めている手から力が抜けて、自然にプライドやコンプレックスが落ちていくのです。「精進」とは努力のことではありません。「精進」とは、静かな心で「一如の声」に耳をすませ、「他力」の邪魔をしないことを言うのです。

 釈尊の説法は「対機説法」といわれております。釈尊は、教えを受ける人の素質に応じて教えをお説きになったということです。つまり、仏教は、人はみな持って生まれてきた素質が違うということを前提にした教えなのです。持って生まれてきた素質は、一人一人みな違うのです。このことを仏教では「別業」と申します。

 ところが、競争社会というものは、一人一人みな素質が違うということを無視することで成り立っています。というのは、競争というものは、同じゴールに向かって、同じ1本のコースを走らないと成り立たないからです。本当は、人はみな素質が違って、コースもゴールも違う。ですが、それを認めたのでは競争にならない。

 では、どうして真実を無視してまで競争しようとするのかと申しますと、それは以前にもお話しいたしましたように、「自他を区別する」という煩悩が、教育によって私たちに埋め込まれるからです。この「自他を区別する」という心の働きから、「人と比べて競う」という思いが生まれます。

 もう少し正確に申しますと、実際には、「自他を区別」しただけでは競争は起こりません。競争が起こるのは、「自分」というものに不安があるからです。自分というものに不安があるから、「人と比べて競い」、自分の値打を確かめようとするのです。

 ですが、本当は、他人と比べる必要はないのです。一人一人が尊いのです。それを教えているのが釈尊の誕生偈、「天上天下唯我独尊」です。「天上天下唯我独尊」の「尊」という字は、「無条件で大切だ」という意味です。それは、いわば絶対的な「とうとさ」を表わす言葉なのです。「私」は「あなた」と比べて尊いのではない。他の誰と比べることもなく、無条件で尊いのです。「私」が無条件で尊いからこそ、他の誰もが同じように、無条件で尊いのです。この「天上天下唯我独尊」に気付かれたのが釈尊で、気付いていないのが私たちです。ですから、私たちは、自分というものに不安を感じているのです。

 「とうとい」と読む漢字は他にもあります。たとえば「貴」という字です。こちらの方は、「貝」という字が入っていることも分かりますように、もともとは金銭的に高いという意味で、いわば相対的な「値打」が高いことを表わしています。私たちは、この相対的な「値打」を求めて競っているのです。「自分の値打ちを確かめるために競争しなければならない、自信をつけるためには競争で勝たねばならない」と、本当は社会にも私たち自身にも害になる「努力」を要求しているのは、娑婆の催眠術なのです。

 競争社会は、「みんなが幸せになれるわけではない」ということを保証している奇妙な社会です。競争社会が幸せな社会でないのは、私たちはみな一人一人違うという真実を無視しているからです。真実でないところに本当の道はありません。本当の道でないところを歩こうとするから、「努力」が必要になるのです。

 一人一人の素質の違いを認めて、素質に適った道を歩かせる。そうすれば、必ず、一人一人のゴールに到達するのです。「あなたはあなたの道を、あなたの歩きたい速さで歩けばよい」。それが、私たち一人一人の命の花が咲く道であり、軽やかに生きる仏教徒の道なのです。

 私たちは、一人一人違うという「別業」を持って生まれてきました。「別業」は「宿業」とも申します。真宗では、あまりこういう解釈はいたしませんが、私は、「宿業」というのは「宿題になっている仕事」のことだと思います。どういう仕事かと申しますと、人が「世界の真実」「一如」に気付く「ご縁」になるということです。

 私たちが、同じ時代に生まれきたのは、そして一人一人違って生まれてきたのは、競争するためではなく、互いに「一如」に気付く「ご縁」になるためなのです。一人一人みんなが、他の誰かが「一如」に気付いていく「ご縁」になる。私たちが一人一人違うのは、そのためです。そのことに気付いたとき、「別業」は「宿業」となるのです。

 私は私を生きるしかない。ですが、私が私を生きる、私が私になることが、そのまま、自分の命の花を咲かせることになり、他の人々が「一如」に気付く「ご縁」になる。私は私を生きればよい、私は私を死ねばよい。それが、「宿業」を生きるということです。私たちは、そのために生まれてきたのです。合掌