心の青年への手紙・第14通

「食べる」ということ

拝啓

 私たちは一年に約1000回の食事をし、約1トンの食物を胃袋に流し込みます。「食べる」ということは、私たちにとってきわめて重要なことです。言うまでもありませんが、私たちは食べないと死ぬからです。生きるためには食べねばなりません。ですが、食べるということは、同時に、他の生き物の生命を奪うということでもあります。今回は、普段忘れがちなこの点に光をあてながら、「食べる」ということの意味をご一緒に考えてみたいと思います。

 さて、「私たちは食べないと死ぬ」と申しましたが、バブルがはじけても相変わらずグルメと飽食の時代が続いている現代の日本では、本当に死活の問題として日々の「食」を考えている人はきわめて少ないのではないでしょうか。「うまいものが食べたい、腹いっぱい食べたい」と、食物に囲まれていながら奇妙な飢餓感に苛まれている私たちは、たいてい、生きるために食べているというより、食べるために生きているようなものです。

 そんなグルメと飽食の時代に生きる私たちは、食べるということに大きな関心を持っています。ですが、不思議なことに、それは食物を大切にするという思いとは結びついていないようなのですね。食物を捨てても「勿体ない」という思いがない。「食べる」ことを重視しながら「食物」を軽視している。どこか変だとは思われませんでしょうか。

 「勿体ない」というのは「物の本体を失する」という意味です。食物の「本体」とは何か。それは、食物となった動物や植物の生命のことです。食物を捨てると、動物や植物の生命が無駄になる。それが「勿体ない」ということの意味です。「生きるために食べる」のではなく、「食べるために生きる」ようになった私たちは、この食物の「本体」つまり食物の「生命」に鈍感になってしまったのではないでしょうか。

 地球上の生物は、太陽の放射エネルギーを父とし、地球の水を母として生まれました。しかし、私たち動物は、地上を自由に移動できる能力と引き換えに、太陽の放射エネルギーを直接摂取する能力を失ってしまいました。そんな私たちが生きていくには、他の生き物からエネルギーをもらう以外にないのです。別の言葉で言えば、他の生き物の生命を奪う以外に、私たちの生きていく道はないということです。

 それは、たとえ、動物の肉は食べないという菜食主義者(ベジタリアン)であっても同じことです。動物だけでなく植物にも「生命」があるのです。ですから、植物を食べるということは、植物の生命を奪うということです。

 菜食主義者が肉を食べないのは、動物にも人間と同じような感情や意識があるからだといいます。動物にも感情や意識がある。それはそのとおりだと思います。犬でも飼っておればよく分かることです。しかし、動物だけでなく、植物にも感情や意識があるとしたらどうでしょうか。畑から引き抜かれた大根が恐怖に堪えられず気絶しているとすれば、菜食主義者は大根も食べなくなるのでしょうか。なかなか信じられないかもしれませんが、最近の研究によると、どうやら植物にもそんな感情や意識があるらしいのです。そういった研究を少しご紹介しましょう。

 植物にも感情や意識や知性があるということは、昔から園芸家などの間で言われていたことですが、それが科学的に確認され始めたのは1960年代のことです。ニューヨークに、世界中から警察や公安関係者が「うそ発見機」の技術を学びにくる有名なポリグラフ検査官養成所があります。1966年の或る日のこと、校長のクリーヴ・バックスターが、ふとした興味から、オフィスにあった鉢植えのドラセナ(竜血樹)の葉に「うそ発見機」の電極をつないでみたことから、全てが始まりました。ドラセナは、予想に反して、感情的興奮を経験している人間ときわめてよく似た反応を示したのです。

 そこでバックスターは、人間の場合と同じようにドラセナを威嚇すると強い反応を示すのではないかと考え、マッチの火でドラセナの葉を焼いてみようと思いついたのです。すると、そう思った瞬間に、ドラセナにつないだポリグラフの記録ペンが大きく動いたのです。ドラセナはバックスターの意図を感知して反応したらしいのです。あとで、バックスターは、葉を焼くふりだけしてみましたが、反応はありませんでした。植物には、人が本気かどうかを識別する能力があるようなのです。

 その後の研究で、様々なことが分かりました。そのいくつかを箇条書きにしてみましょう。植物は人の嘘を見抜くことができる。植物は人を識別でき、世話をしてくれる人が外出すると、ずっとその人の心の動きに同調して反応し、無事帰ってくると安堵して生気を取り戻す。植物は嫉妬することもある。植物の嫌いな人や動物に対して不安の反応を示す。生物の「死」に敏感に反応する。強い恐怖を与えると「死んだふり」をしたり失神したりする。その他、カシの木は木樵(きこり)が近づくと身震いし、ニンジンはウサギを見ると震えるというようなことまであるといいます。

 関心のある方は、『植物の神秘生活』(工作舎,1987年)などをお読み頂くとして、植物にも動物と同じような感情や意識や知性があるらしいということが、少しはお分り頂けたのではないかと思います。アニミズムなどの原始的宗教を信じている、いわゆる未開な人々は、果実を採る場合にも樹木の了解を得てからにするといいますが、存外、そういった生き方のほうが生命の真実にかなっていて、私たち現代人のほうが「未開」なのかもしれません。菜食主義者も、心にとめておくべきことではないかと思います。

 菜食主義というと、世間では「不殺生」(アヒンサー)の戒律を守る宗教的な生き方のように考えられておりますが、私は、それが必ずしも宗教の根幹にかかわる問題だとは考えておりません。たしかに、「宗教的」な食物と聞いて、私たちがまず思い出すのは、いわゆる「精進料理」でしょう。私たちは、肉や魚を食べることを禁止しているのが宗教だと思い込んでいるところがあります。ですが、実際には、私の知るかぎり、最初期から肉食を禁止しているのはインドのジャイナ教だけでして、ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でも、もともと肉食を禁じているわけではありません。

 仏教でも最初は肉食を禁じていませんでした。初期の出家修行者たちは乞食(こつじき)で暮らしていました。彼らは、どんな食物を施されても、それに満足して、肉でも魚でも何でも食べていたのです。出家修行者たちにとって大切なのは修行だけでしたから、食物に対する趣味や主義などありませんでした。食物に関して彼らが心がけていたのは、殺生を避けること、節食を守ること、食物にからんで心が乱れないように用心することくらいでした。

 当時、インドではバラモン教が盛んでした。バラモン教では、牛を犠牲とした祭祀が行なわれ、牛肉が頻繁に食べられていました。しかし、牛が殺されて減ると農耕に支障をきたすことになります。労働力としての牛を失いたくなかった農民たちは、そんなバラモン教に背を向け、不殺生を説く仏教に流れるようになりました。脅威を感じたバラモン教では、不殺生の教えを採り入れ、信者の回復に努めました。現在ヒンドゥー教と呼ばれているのは、大雑把に言えば、仏教から不殺生の教えを採り入れて変貌したバラモン教のことです。

 インドの仏教徒が菜食主義者になるのは、そんなバラモン教(ヒンドゥー教)が影響力を強めた5世紀以降のことです。いわば、不殺生の教えが菜食主義となって仏教側に逆輸入されたわけです。この菜食主義的な仏教が中国に伝えられ、肉食を禁じる戒律が生まれます。その中国仏教が日本に伝えられたのです。そのため、仏教と言えば「精進料理」というふうになったわけです。ジャイナ教は別としても、肉を食べるかどうかということは、本来、宗教にとって根本的な問題ではなかったのです。

 ちなみに、釈尊が不殺生を説きながら肉食を容認されたというのは、理解しがたいことかもしれませんが、これには理由がありました。ひとつには、釈尊は不殺生を説かれましたが、その本意はバラモン教の行なっていた宗教的屠殺の否定にあったわけで、肉食の否定にあったわけではなかったことです。もうひとつは、釈尊の属しておられたシャカ族が、狩猟や牧畜の民ではなく、稲作を中心とした農耕の民だったことです。釈尊の生まれ育った環境では、牛は大切な労働力であって、動物の屠殺が日常化していたわけではありませんでした。屠殺に精神的免疫のない人は、屠殺を実行したり目撃したりすると心に動揺をきたすものです。釈尊が不殺生を説かれたのは、そんな心の動揺が瞑想修行の妨げになるからであって、肉食を嫌悪されたからではなかったのです。

 もともと、菜食主義者が肉食を嫌うのは、私たち人間と似た感情や知能を示す動物を殺すことへの恐怖感や罪悪感、殺した動物の「死体」を食べることへの生理的な嫌悪感からでして、その理由は、どちらかといえば宗教的というよりも感情的なものです。動物を食べても、植物を食べても、生き物の生命を奪うことに変わりはない。私たちは他の生き物の生命を奪わなければ生きていけないのです。

 そんな私たちが、生き物の生命を大切にして「勿体ない」ことはしないでおこうとすれば、どうすればよいのでしょうか。それはです、本当に必要なだけしか生き物の生命を奪わない、本当に必要なだけしか食べない、これしかないと思います。それが、食べないと死ぬ私たちにとって、最も意味のある不殺生ではないでしょうか。

 では、「本当に必要なだけ」とはどれだけなのでしょうか。厚生省が勧める一日に摂取すべきエネルギー量は、成人だと約2000キロカロリーということになっています。これには個人差もありますし、労働量や運動量によっても違います。また、成人男性が安静にじっと寝ている状態でも、一日に約1400キロカロリーが必要だと言われております。ですが、これは栄養学から見た、つまり「頭で考えた」理論上の数値にすぎません。

 以前、こんな研究報告を読んだことがあります。ある医師が、三島の滝沢寺の禅僧14人について、3日間、1日に摂取する食物の総カロリー等の栄養調査をしたものです。それによると、禅僧たちが食べた1日平均の総摂取カロリーは1436キロカロリーでしたが、総消費エネルギーを計算すると2204キロカロリーとなり、1日平均768キロカロリーのマイナスになったというのです。この計算でいけば、1ヵ月に体重が6キロづつ減少して、1年足らずで体重はゼロになるはずなのですが、実際には、禅僧たちは体格も立派で、病気もせず、作務や座禅に励んでいるというのです。

 玄米正食やマクロビオティックで世界的に有名な故桜沢如一氏も、かつてインドに滞在中、1日にわずか700〜800キロカロリーという少食を2年間も続け、きわめて元気に活動しておられたと聞きます。1日に何カロリー必要かなどという「頭で考えた」ことは、あまり意味がありません。実際には、厚生省が聞けば驚くどころかまともに相手にもしてくれないような少食で、元気に人並み外れた活動をしている人が少なくありません。

 たとえば、松下電器の社員である高木善之氏は、1981年に交通事故で瀕死の重傷を負って臨死体験をしてから生活が変わり、1日に数百キロカロリーくらいの食事しかしなくなりました。それにともなって排泄や汗もきわめて少なくなり、身体が汚れなくなって、睡眠も日に3時間くらいで充分というようになりました。それでいて、きわめて健康で、連日超激務をこなしているといいます。また、有名なインドの聖者サイババも、きわめて少食で、ほとんど眠らないといいます。こういった少食の人に共通しているのは、健康で、疲れ知らずで、活動的で、頭の回転が速く、睡眠時間がきわめて短いということです。

 人類にとって、原始時代からごく最近まで、うっすら飢えているのが普通の状態でした。何十万年も普通だったという状態は、私たちにとっても自然な状態であると思います。そういう状態のときにこそ、感覚も精神も鋭敏になり、肉体も活動的になるものです。釈尊も、何を食べるかは問題とされず、飽食をたしなめ、節食を勧めておられます。それは、瞑想修行でも、精神と肉体を明晰に保ち、完全に目醒めさせておくことが何よりも大切だからです。「食べる」ということは、ただ生きるためにではなく、心身をフルパワーで全開にしておくためにこそ必要なのだと思います。そのことに気付いた人にとっては、本当に必要な食物は、ごくわずかなのです。

 現在、日本の食糧自給率は50%以下になっているといわれています。食糧自給率というのは、食糧の国内生産量を国内消費量で割って100を掛けた数値ですから、私たちは生産する量の倍以上も消費していることになります。しかし、「消費した」というのは「食べた」ということではありません。「消費」のなかには、日々捨てられている膨大な量の食品も含まれているのです。

 消費量を増加させている理由は他にもあります。それは食品の質です。最近、野菜も米も肉も自然な味を失い、軒並みに不味くなっていることにお気づきでしょうか。高度経済成長前夜の1954年とバブル崩壊直後の1991年で比べてみると、野菜に含まれているビタミンやミネラルが半分以下になって、糖分だけが増えているのです。これは、単純に計算すれば、かつての倍以上の野菜を食べないと必要な栄養が補えなくなっているということです。

 「勿体ない」消費に刺激されて、「勿体ない」生産が進み、それがまた「勿体ない」消費に拍車をかけているのです。私たちが「食べる」ということの本当の意味に気づいて、「勿体ない」という思いを回復するなら、それだけでも消費量は大幅に減少するに違いありません。食糧問題は、「食糧」の問題ではなく、私たちの「心」の問題なのです。

 さて、最初に「私たちは食べないと死ぬ」と申しましたが、では、食べていれば死なないかといえば、そうではありません。食べていても、いずれは死ぬのです。このことをじっくり考えてみるだけでも、私たちは「食べるために生きている」のではなく、「生きるために食べている」のだということが、納得できるのではないでしょうか。

 それにです、臨死体験をした人たちの話によると、あの世に行くと光の存在が現われて、「価値のある人生だったか」と尋ねるのだそうですが、そんなときに、「はい、うまいものを腹一杯食べてきました」というのでは、いかにも悲しいではないですか。

 本当に必要なだけしか食べないという「節食」は、禁欲の苦行ではありません。長い断食のあと、スジャータの捧げる乳粥をお受けになった釈尊は、衰え黒ずんだ血管に赤みが走るのを全身で感じ、生きていることに歓喜なさったに違いありません。本当に必要な食物は、心身を覚醒させ、世界の美しさ、生命の真実への感受性を高めてくれます。「節食」は、私たちの生命と世界に、喜びと輝きを取り戻す道なのです。合掌