心の青年への手紙・第18通

自殺と安楽死について

拝啓

 今回は、「自殺と安楽死」を手がかりに、「命の尊厳」についてご一緒に考えてみたいと思います。内容的には、前回まで2回に分けてお話しいたしました「身体と心と魂」の続編となるものです。どうぞ、しばらくの間お付き合いください。

 さて、耐え難い苦痛や恐怖や絶望から逃れるために、人は自ら死を選ぶことがあります。それが自殺や安楽死です。ですが、たいては、死にたいから死を選ぶのではありません。誰だって、できることなら生きていたいのです。生きていたいのですが、そのまま生きていたのでは「自分」が生きられない。そんな袋小路に追いつめられたとき、暗闇のなかに最後の非常口がほの見えてくる。つまり「死」です。

 その非常口を見つめているうちに、だんだん引き寄せられていき、ついには、その扉を開けて出る以外に袋小路から逃れるすべがないように思えてくる。死ぬ以外に「自分」の生きる道はない。そういう状況に追いつめられたとき、人は生きるために死への扉を開くのです。

 「自分」が生きられないというのは、自分の想定する「生の質」(生活や人生の質)が保てない、そんな状況下では生きている意味がないということです。ですが、それは「自分」の想定する価値観に照らして、そう思い込んでいるだけではないのでしょうか。本当は、そういう状況は、人生への破壊的な脅威というよりも、「自分」が絶対視して握りしめている価値観(人生観)への深い問いかけではないでしょうか。そのことに気づけたら、なにかが変わってくるはずです。ですが、私たちはなかなかそんなふうには思えないものです。ですから、硬直した価値観を握りしめたまま、無力感や孤独感にさいなまれて絶望してしまうのです。

 たとえば、「会社の命は永遠です。その永遠のために私たちは奉仕すべきです」と書き残して投身した日商岩井の常務や、「父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と記して自殺したマラソン選手も、そうだったのではないでしょうか。捨てるべきは命ではなかった。私には、そう思えてなりません。

 つきつめて考えれば人生には失敗も成功もないのです。ですが、社会の価値観に縛られて心が硬直していると、その価値観に沿えないことを人生の失敗と思い込んでしまいがちです。たとえば、現代のような物質主義・序列主義で凝り固まった上昇志向の強い社会では、勉強や受験での挫折がそのまま人生の敗北と結びついて、自殺への引き金となってしまうこともあります。

 高校時代に倫理社会の先生からこんな話を聞いたことがあります。受け持ちの生徒が受験勉強に悩んで自殺未遂を起こし、先生がカウンセリングを引き受けられたときの話です。カウンセリングを続けるうちに生徒が少し落ち着いてきたので、先生は、「お前、いちど一人で旅行でもして、気持ちの整理をしてみたらどうだ」とおっしゃった。そこで、生徒は旅行にでかけたわけですが、先生としては、ひとつの賭だったと思います。旅行中に、「やっぱり死のう」ということになるかもしれなかったからです。

 それから何日かたった夜、その生徒が先生の家の玄関口に立っていました。見ると手には土産を持っている。安心なさった先生は、うっかり、こう言われたのです。「よかったな。気持ちの整理が着いたんだから、これからはしっかり頑張れよ」と。その言葉を聞いたとたん、生徒は顔色を変えて先生の家を飛び出し、その足で自殺を遂げてしまいました。先生は、そのときのことが今でも悔やまれるとおっしゃっていました。

 その生徒は、死にたいという思いと、生きたいという思いが、あやういバランスをとったまま、気持ちの整理など着けられずに帰ってきたに違いありません。そこへ、「頑張れ」と言われたのです。「頑張れ」というのは、その生徒にとっては袋小路へ戻れという意味でしかありません。その瞬間、彼の心のバランスは、死にたいという思いの方に一気に傾いたのです。

 自殺した生徒の気持ちが痛いほどよく分かりました。というのは、当時、私もまたその非常口を見つめていたからです。その扉を開ければ、いつでも一切の苦しみに終止符を打つことができる。私の場合は、その非常口を一種の保険として、生きる方を選びました。そんなふうに思えたことは幸運でしたが、閉じ込められていた袋小路が幻であることに気づくまでには、その後何年もかかりました。

 現代社会では高学歴が幸福の条件のように考えられていますが、冷静になって考えてみれば、学歴があったからといって幸せになれるわけではありません。学校でもらうのは「卒業証明書」であって「幸福保証書」ではないのです。つまるところ、どんな価値観であれ、価値観というものは特定の社会での相対的な「思いこみ」にすぎません。プライドからもコンプレックスからも解放されて、そのことが本当に理解できたとき、人は、閉じ込められていた袋小路が幻であることに、ようやく気がつくのです。

 子供であれ大人であれ、自殺を考えるほど思い詰めて苦しんでいる人にとっては、慰めや励ましはあまり意味がありません。苦しみを本当に癒すには、その人を袋小路に追い込んだ硬直した価値観の呪縛を解く以外にないと思います。

 ですが、人生を本当の意味で自分の頭で考えて生きる人はまれです。私たちはたいてい、生まれ落ちた社会の価値観をほぼ無批判に自分の価値観として生きていきます。皮肉なことに、社会の価値観に沿った生き方ができるほどのエネルギーを持った人ほど、そうなりがちです。努力して社会的に成功したと思っている人ほど、硬直した価値観に縛られていたり、その価値観にもとづいて他人を評価したりする傾向が強いようにも思います。本当に大切な気づきが社会の中枢から生まれてこないのも、あるいは、そのせいなのかもしれません。

 それはともかく、私たちの社会は、経済性や生産性、および、それによって保証される快適で便利で刺激的な生活に人生の意味を見る社会です。別の言葉で言えば、肉体的な活動の自由と、その自由を拡張してくれる経済力に最大の価値を認める社会です。しかし、それは同時に、活動力と経済力に劣る人々に過酷な社会でもあります。つまりは、障害者や病人や老人には、生きる意味を見いだしにくい社会です。そのことは、病苦が自殺原因の4割近くを占め、65歳以上の高齢者の自殺率が世界一であることにも、表れているように思います。

 私たちの社会がそういう社会であることは、子供に聞いても分かります。いちどお子さんに、「長生きしたいか、年をとりたいか」とお聞きになってみてください。たいていは、「長生きはしたいけれど、年はとりたくない」と応えるはずです。なかには、「老人になりたくないから、長生きはしたくない」という子供までいます。「人生が楽しいのは若いうち。老人になったらダメになる」。子供らしくない考え方だと思われるかもしれませんが、それは子供が社会から学んだものなのです。

 近年マスメディアでよく取り上げられるようになった「安楽死」もまた、そういう社会の価値観と無関係ではありません。一般に、安楽死を望むというのは、現代医学では治療できない不治の病に苦しむ人が、それ以上生きていても自分の願う「生の質」が保てないと判断して、医師の手による死を希望することを言います。それが本人の意思で為される以上、安楽死も一種の自殺ですが、生きていてもしかたがないという思いの源をたどれば、たいてい、その人の人生に対する価値観(人生観)、ひいては、その人の属する社会の価値観にいたりつくのです。

 それは、こういうことです。一般に、安楽死を望む理由は、耐え難い肉体的苦痛であるかのように考えられていますが、実はそうではありません。1989年にオランダで行われた大規模な実態調査によると、安楽死の最も重要な理由に「痛み」をあげたのは、わずか5%だけでした。最も多かったのは「意味のない苦しみ」(29%)と、「屈辱に対する不安と予防」(24%)で、このふたつだけで全体の半数を超えています。「意味」であれ「屈辱」であれ、それは主観の問題ですから、安楽死を望む本当の理由は患者の主観にある、言い換えれば、患者の価値観にあるということです。

 現代社会のように、体力と経済力に支えられた刺激的な生活こそ人生の意味だということになれば、不治の病で病床に伏す生活には、すでに意味がない。また、状況をコントロールし問題を克服する挑戦的な生き方こそ人生の意味だということになれば、寝返りひとつままならず、排便さえも家族や他人に頼るしかない生活は、屈辱以外のなにものでもない。そんな状況に陥るくらいなら死んだほうがよい。それが私たちの価値観から導き出される判断です。ですが、本当にそういったことが「人生の意味」なのでしょうか。もしそうだとすれば、私たちは自分に都合の良いことだけをとって「人生の意味」だとか「生の質」だとか言っていることになりはしないでしょうか。

 なるほど、刺激的な生活にも挑戦的な生き方にも、意味がないとは思いません。ですが、それこそが「人生の意味」だという考え方には賛成しかねます。では「人生の意味」とは何かということになるわけですが、結論じみたことを申し上げるよりも、同じような状況から全く違った道を選んだ二人の青年の話をご紹介してみたいと思います。一人は、クリス・ヒルというオーストラリアのジャーナリストです。もう一人は、以前にもご紹介しました星野富弘さんです。

 クリスは、裕福な家に生まれ、何不自由ない気ままで奔放な生活を楽しんでいましたが、ある日、ハングライダーの事故で首の骨を折り、胸から下が麻痺して生活の自由を失ってしまいました。リハビリで右手は使えるようになりましたが、旅行ができない、スポーツができない、セックスができない、自力で排便ができないと、出来なくなったことを数えながら将来に絶望し、4回の自殺未遂のすえ、長い遺書を残して5回目に思いを遂げました。以下に、その遺書から、いくつかの文を抜き書きしてみましょう。

 「……なくしたのは身体の自由だけじゃなかった。尊厳と自尊心も同時に失ったのだ。死ぬまでまわりの人の重荷でありつづけるしかない人生。かりに家族や友人が、快くすすんで世話をしてくれたとしても、ぼくはまっぴらだ。絶対に受け入れられない。だれかに何かをたのむたびに、かつて誇りが宿っていたところに焼けた刃を押しつけられるような心地だ。……もちろん、ぼくにも生きつづけたいと願う気持ちがないわけではない。(だが、)いまのぼくは永遠に続く耐えがたい不幸のただなかにおかれ、もはや死ぬ以外に救われる道がなくなった。……ぼくは神を信じない。こんな経験をしたあとで、公正で慈悲深く全能な神など、いったいだれが信じられるというのだ。……」(ヘルガ・クーゼ編、吉田純子訳『尊厳死を選んだ人びと』)。

 次は星野富弘さんです。星野さんは群馬県の中学校の体育の教師でした。クラブ活動の指導中に起きた事故で首の骨を折り、9年間の病院生活を送りますが、結局、首から下の運動機能は回復しませんでした。ですが、クリスと同じように将来に絶望して「死にたい、死にたい」と悩み苦しんでいたときにキリスト教の教えに出会い、徐々に癒され、救われていきました。以下に引用しますのは、星野さんのそのころの回想の一部です。

 「……今までに死ということを真剣に考えたことがあっただろうか。私が死にたいと思っていた時は、もっとも死を真剣に考えていなかったときではなかっただろうか。生を受けた者に最も確実に約束されているのは、死である。私もおそかれ早かれ必ずいつかは死ななければならない。自殺を考えていた時は、神様の定めておいてくれるほんとうの私の死から逃げようとしていた時ではなかっただろうか。死から逃げてはならないと思った。いつかはわからないが、神様が用意していてくれるほんとうの私の死の時まで、胸をはって一生懸命生きようと思った。井上陽水の『人生が二度あれば』という曲が、ときたまラジオから流れてきた。でも私は人生が二度あればなどと考えるのはよそう。今の人生を精一杯生きられない者が、二度目の人生など生きられるはずがあるだろうか。

    木は自分で動きまわることはできない
    神様に与えられたその場所で
    精一杯枝をはり
    ゆるされた高さまで一生懸命伸びようとしている
    そんな木を
    友だちのように思う」(星野富弘著『愛、深き淵より』)。

 いかがでしょうか。といっても、決して二人の人生を評価しようとしているわけではありません。何度も言うようですが、人生には失敗も成功もないのです。ただ、どちらの選択に「命の意味」への気づきが感じられるかと、おたずねしたいのです。それにお気づき頂けたら、ここから先は蛇足のようなものです。

 命には絶対的な意味があります。「命の意味」は「不可思議」です。ほとんどの現代人には無意味な言葉に聞こえるかもしれませんが、私たちの「人生の意味」は、その「不可思議」に気づき続けていくところにあるのです。宗教的な言葉で言えば、それは「神の愛」に目覚めていくこと、「仏の慈悲」に目覚めていくことです。あなたが目覚めていけば、その光を見て他の誰かが目覚めていくのです。また、他の誰かが目覚めていけば、その光を見て、あなたが目覚めていくのです。お互いに目覚めの縁となりあう。そのためにこそ、私たちは同じ時代に生まれてきたのです。

 脊椎カリエスで亡くなった明治の歌人、正岡子規はこう言っています。「私は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。悟りという事はいかなる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事はいかなる場合にも平気で生きている事であった」(『病床六尺』)と。

 私たちが人生に絶望して苦しむのは、身体が病んでいるからではなく、心が病んでいるからです。心が病んでいるのは、その心を支配している価値観が病原菌のように命を蝕んでいるからです。言い換えれば、そういう価値観は命の自然な在り方にそぐわない、命にとって異質なものだということです。そういう異質な病原菌から解放された心に絶望はありません。そのことを教えているのが、世界のさまざまな宗教なのです。

 現代社会の価値観(人生観)は、現代社会の生命観から生まれています。現代社会の生命観というのは、これまでに何度もお話ししてまいりましたように、「生まれてきたのは偶然で、死ねば終わりだ」という考え方です。言葉を替えて言えば、「命には絶対的な意味などない」というのが現代社会の生命観です。そこには、本当の意味での「命の尊厳」はありません。自殺をはじめ現代の様々な問題は、私たちの人生に「命の意味」が欠落しているところから生まれているように思います。

 改めて言うまでもありませんが、命は生まれてから死ぬまで一貫して続いています。ですから、当然、「命の意味」は生まれてから死ぬまで一貫して存在しているのです。それはどんな状況にある人にとっても同じです。命にそういう絶対的な意味があればこそ、命に尊厳が認められるのです。合掌