心の青年への手紙・第2通

私たちが本当に幸せでない理由

満足できない心のメカニズム

拝啓

 前回は「死から始まる」というお話しをさせて頂きました。私たちは想像の世界で自分の死を見つめている時には、我欲を捨てて透明な目で世界が見られるような気がします。そして、「この世に一人でも不幸な人がいるかぎり、本当の自分の幸せはこない」という、宮沢賢治やマザー・テレサのような一種崇高な思いを抱くことさえあるのです。

 しかしひとたび想像から醒めれば、やはりそんなことが到底出来ない自分に気が付くのです。私たちが本当の意味であたたかい心になれないのは何故か。そして本当の意味で幸福になれないのは何故か。今回はこの点についてお話をさせて頂きたいと思います。

 私たちには様々な欲望があります。うまいものが食べたい、腹一杯食べたいという「食欲」。異性が欲しいという「性欲」。あれも欲しい、これも欲しいという「物欲」。もっと褒めてくれ、もっと誉めてくれという「名誉欲」。人を思い通りに動かしたいという「権力欲」。私たちの心のなかには、こういった様々な欲望が複雑にからみあってうごめいています。

 あるいは、うごめいていると言うより燃えていると言った方がよいかもしれません。この私たちの心なかで燃えている炎を、仏教では「煩悩」…貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろかしさ)…と呼んでいます。と申しましても、ここでは決して欲望の善し悪しを問題にしようとしているのではありませんで、実は、手に入れても手に入れても満足できず、もっと欲しいもっと欲しいという、私たちの心の仕組みを考えてみたいと思っているのです。

 欲望には様々な種類があるように申しましたが、その実体はただひとつ、「満足」を求める心の働きだと言ってよいでしょう。たとえばオリンピックで金メダルを獲得したいというのも、結局はその栄誉を通じて心の満足を得たいからにほかなりません。しかし私たちの問題点は、どんな満足感を得てもそれが究極の満足につながらないというところにあります。手に入れても手に入れても、やはりもっと欲しいのです。それは何故でしょうか。

 「満足の素」となっているのは「生命エネルギー」です。「生命エネルギー」というのは、場合によっては「心のエネルギー」とか「刺激」と言い換えた方が分かりやすいかもしれません。しかし、いずれにせよこれはちょっと理解しにくい考え方でしょうから、「たとえ」を用いて見てゆきたいと思います。

 私たちはもともと宇宙の偉大なエネルギーの一部でした。この宇宙エネルギーの世界を、仏教では「智慧と慈悲の光」、キリスト教では「神の愛」、そして北米先住民は「グレイト・スピリット」という言葉(たとえ)で表現しています。これをここではとりあえず「大きな生命」という言葉で表現しておきたいと思います。(…こういった考え自体に馴染めない方もおられることと思いますが、ひとまずは、これも結局は一種の「たとえ」なのだとお考え頂ければと存じます。)

 ところがです、私たちは、誕生と同時に個別の形態を獲得することによって、「大きな生命」との間に一種の隔たりが生まれてくるのです。この隔たりの度合いは、生命エネルギーの減退という形で現われてきます。私たちは、生まれた当初は非常に壊れやすい脆い存在ですが、生命エネルギーはきわめて高い状態にあります。赤ちゃんの傍にいるだけでも何か暖かい満ち足りた思いがする、という経験を持たれたことはありませんでしょうか。赤ちゃんからは目に見えないエネルギーが流れ出ているのです。もうひとつ、赤ちゃんは大人に比べて傷の治りが異常に早いと思われませんか。これがつまり、生命エネルギーが高いということなのです。赤ちゃんは、ある意味では、非常に完結した存在です。赤ちゃんはとりあえず肉体の維持と発育に必要なエネルギーしか必要としていないのです。ところが人は、いわゆる「成長」するにつれて、それだけでは治まらなくなってくるのです。個体としての確立が進むにつれて、この生命エネルギーが徐々に減少してゆくからです。

 ここでもうひとつ「たとえ」を導入してから話を進めたいと思います。私たちは「水の半分ほど入ったガラスのコップ」だと想像してみてください。ここにいう「水」とは「生命エネルギー」のことです。「半分ほど入っている」というのは、私たちはつまり「満ち足りていない」存在だということです。なぜ「満ち足りていない」のか。それは「大きな生命」から切り離されて、生命エネルギーが補充されなくなっているからです。この「満ち足りていない」という状態を仏教的に表現すれば、「救われていない」ということになります。

 普通、人は「救われていない」、つまり「満たされていない」ものです。満たされていないから心が空虚なのです。ですから私たちは、この満たされていない心の隙間を何とかして埋めようとします。どこかから取ってきて埋めようとします。この「取ってきて埋めよう」とする心の働きが「貪(むさぼり)」です。いいかえれば、これは「生命エネルギー」を外から奪ってこようとする心の働きです。

 では、どこから奪ってくるのでしょうか。まわりの身内から、近くの人々から、世間一般の人々からです。皆さんの周囲を見回してみてください。傍にいるだけで何か冷たく感じたり、どこが不愉快になるような人たちはいないでしょうか。こういう人は他人から「生命エネルギー」を奪おうとする心の働きが強いのです。つまりは、実際には心のなかが他の人々より空虚な人たちだといえます。私たち自身、満たされていない(救われていない)存在ですから、ただでさえ少ない「生命エネルギー」を奪われそうになれば、当然不愉快になるものです。

 他者から「生命エネルギー」を奪おうとする人は様々な方法をとります。人から奪うというのは一種の攻撃です。それは、勝ち敗けでいえば「勝ち」を、優劣でいえば「優」を得ようとすることでもあります。そういう意味でいえば、勝敗や優劣を賭けた競争社会でのあらゆる営みは、すべて他者の「生命エネルギー」をねらっての攻撃だと言えます。目には見えなくとも、勝者は敗者の失った「生命エネルギー」を手に入れているということです。勝てば満足し、敗ければ不愉快になるというところから見てもお分りになるでしょう。倍率の高い競争に勝ったときほど満足感が大きいのは、敗者の数が多くなれば、その分だけ勝者の手に渡る「生命エネルギー」の総量も多くなるためです。また、他人をけなすのも、悪口を言うのも、軽蔑するのも、侮辱するのも、差別するのも、すべてその目的は他者の「生命エネルギー」を奪って自分が満足するというところにあるのです。(…人を差別するというのは、結局はその人自身が満たされていない、つまり救われていないことの現われなのです。)

 しかし、こういった様々な攻撃が常に成功するとはかぎりません。奪おうとしても奪おうとしても、思いどおりに奪えないという場合もあります。そういう場合に私たちの心に生じる反応が「瞋(いかり)」です。

 またその反対に、首尾良く方々から「生命エネルギー」を奪ってきて、コップを満たすことができるという場合もあります。たとえば、いわゆる功成り名を遂げた成功者といわれる人々の場合がそうです。誰でも結構ですから有名人を一人思い浮べてみてください。売れっ子の俳優さんでも、偉い先生方でも結構です。その人は満たされているでしょうか。エネルギーにあふれているでしょうか。

 …なるほど、確かにエネルギーにあふれているように見えますね。満足しているようにも見えます。しかしです、そういうふうにあふれて見えるエネルギーはどこから得たものなのでしょうか。それもやはり、他の人々から奪ってきた分ではないのでしょうか。人々の評価や尊敬、歓声や拍手というかたちのエネルギーを自分のコップに満たして、さもあふれているように見えているだけなのではないでしょうか。

 「人気」とは「人の生命エネルギー」のことでしょう。「人気」がなくなった有名人を想像してみてください。これが同じ人かと思えるほど落差があるでしょう。落ちぶれるとは、コップのなかの水位が大幅に下がってしまうことです。手段はどうでも、つまり、奪ってこようとどうしようと、自分のコップを満たしてしまえば、私たちはそれで幸福になれるのでしょうか。ここでもういちどコップの方に目をやってみましょう。

 実はこのガラスのコップは、落語の「はてなの茶わん」ではありませんが、どこからともなく「生命エネルギー」が漏れ出ているのです。この状況を仏教では「漏」(煩悩の別名)と呼んでいます。たとえば、私たちは一日じゅう何もせずに寝ていても、やはり空腹になってくるでしょう。動かなくとも少しづつエネルギーを消費しているからです。それと同じように、「生命エネルギー」も少しづつ漏れ続けているのです。つまり、生きているだけでも、このエネルギーは減り続けているということです。ですから、私たちは生きているかぎり常に不満で、常に奪ってこなければならないのです。これでもう十分という本当の幸福を味わえない仕組みになっているのです。

 いわゆる成功者たちも、心のどこかでこの仕組みに感付いているはずです。だからこそ、常に人から奪ってくることばかりを考えて、やっきになって活動するのです。満たしても満たしても漏れてゆくのが私たちです。奪ってきても奪ってきても、底で「大きな生命」につながっていないものですから、どんどん無くなってゆきます。そこで一層やっきになって、次々に人の評価や尊敬、歓声や拍手を求め、一日も落ち着いていることができないのです。

 そのうえ始末の悪いことに、こうやって外から奪ってくる「生命エネルギー」は、いわゆる「刺激」と同じ性質を持っているのです。「刺激」は常に強度を増してゆかねば感じられなくなってしまいます。最初は1万円の収入でも喜んだ人が、だんだん10万円でも100万円でも喜ばなくなってゆきます。昨日と同じ褒め言葉では今日はもう満足できない。今日よりも明日はもっと褒めてほしいというのが私たちなのではないでしょうか。こんな外から奪ってくる「生命エネルギー」で幸福になれると思っている私たちの心の働きが、「痴(おろかさ)」なのです。

 もうお分りになったことと思います。人を愛するというのは自分の持っている「生命エネルギー」を分け与えるということです。私たちが無心になって他人に奉仕できないのは、ただでさえ少ない「生命エネルギー」を人に分け与えれば自分が一層空虚になって辛いからです。それでも分け与える場合もあります。しかしそういう場合には、「感謝」というかたちで相応の「生命エネルギー」を返すように要求するのが私たちの常です。人に尽くせば尽くすほど自分が苦しい。こんな仕組みになっているのに、無私の奉仕など要求するほうが酷なのではないでしょうか。

 また、私たちは無意識のうちで、あらゆるものを「そこから生命エネルギーを奪ってくる対象」として見ているのです。そのために、私たちは事物をありのままに見ることができないのです。私たちがもう外から奪わないようになったとき、もう外から奪わなくともよくなったとき、世界はあるがままの姿を見せてくれるのです。そんな一瞬が平凡な私たちにも訪れることがあります。もう奪ってこなくてもよくなったとき。それは自分の死を前にしたときです。

 「知足」という言葉をご存じでしょうか。「足るを知る」と読みます。戦前の教育を受けられた方は道徳や修身の教科書で学ばれたかもしれません。これは『老子』に出てくる言葉でして、一般的には「身のほどをわきまえて欲張らないのが幸福の秘訣」といった処世訓として理解されています。

 しかし、処世訓は人生観の一種ですから、必ずしも「この世界の真実」とイコールではありません。いわゆる道徳と仏教との違いもこのあたりにあります。仏教は道徳を説く教えではありません。仏教と道徳とは本質的に異なるものです。たとえていえば、仏教は「夢から醒めること」を教えるものですが、道徳は「夢のなかでの暮らし方」を教えるものなのです。

 ひとつ考えてみてください。「足るを知ることが幸福の秘訣」と言いますが、「足るを知ること」ができないのが私たちの現実の姿なのです。「足るを知る」というのは「本当に満足を知る」ということであって、決して我慢したり「このへんで良しとする」ということではないでしょう。そんな「足るを知る」ことができないからこそ、私たちは日々あくせくして悩み、本当の意味での幸福になれないのです。「足るを知る」というのは、決して人生に処してゆくための基本(スタート)ではなく、人と生まれた私たちにとっての一種のゴールなのではないでしょうか。

 私たちは誰もが幸福になりたいと願っています。とはいえ、現実の私たちの行く末に、そういったゴールが見えるでしょうか。このまま進んで行けば、「本当の満足」(知足)が得られるのでしょうか。間違いなく、前方に「青い鳥」がいるのでしょうか。ひょっとして、海に潜って鳥を探しているというようなことはないのでしょうか。念のためこのあたりで一度、私たち(凡夫)の足元を確かめてみるのはどうかと思います。…次回は、そんなお話をさせて頂きたいと存じます。合掌