心の青年への手紙・第3通

私たちの「現実」について

拝啓

 前回は私たちの奇妙な「心のメカニズム」(煩悩)についてお話しいたしました。「奇妙な」と申しますのは、わたしたちの心が、常に幸福を求めながらも永遠に究極の幸福にはたどりつけない仕組みになっているからです。奪ってきても奪ってきても、これで本当に満足という日は来ないのです。それは私たちが心の底で「大きな生命」とつながっていないからです。

 ですが、そんなことには見向きもせず、私たちはまるで立ち止まったら倒れてしまうかのように息せき切って走り続けているのです。私たちは一体何処へ行こうとしているのでしょうか。私たちに立ち止まることを許さない「現実」とはどういったものなのでしょうか。それが今回のお話のテーマです。

 私たちの言う「現実」なるものは、人と社会の関わり合いから生まれてきます。ですが、社会というものは品物ではありませんから目に見えるわけではありません。人と社会の関係は、いってみれば木と森の関係にあたります。森という品物は実際には無いのでして、あるのは一本一本の木だけです。それが集まって、森というものを構成しているのです。一本一本の木がなければ、森はありません。「森」というのは、様々な大きさ、形態、色合、生気を持った一本一本の木が集まってできる集合的あらわれのことです。社会もこれと似ています。社会を構成しているのは、様々な欲求を持った私たち一人一人です。欲求とは心の中身です。つまり「社会」というものは、私たち一人一人の心の中身の集合的あらわれなのです。

 社会は、形の無い、いわば一種の色合として存在するもので、その実体は私たち一人一人の心なのですが、同時に、私たちの心は、自分たちの心が生み出した社会によって方向づけられてもいます。人はその社会のなかで育っていくからです。人は生まれ落ちると同時に、社会が是とするものを是とし、社会が非とするものを非として受け入れるように方向づけられていくのです。

 人々の価値観によって社会の価値観が生まれ、同時に、人々はその社会から価値観を学んでいくのです。いってみれば、自分たちが作り出した色に、自分たちが染まっていくというわけです。赤い染料のなかに生まれ落ちれば、赤色に染まってしまうは当然です。つまり人と社会の関係は、人が社会を作り、社会が人を作るという、一種の閉じた環のようになっているのです。私たちが「現実」と呼んでいるのは、こういった閉じた環のなかの色の世界のことです。

 ところで、赤いインクで印刷された本の上に、同じ赤い色の透明な下敷きを乗せて見ると、印刷されているはずの文字が全く見えない、という経験をされたことはありませんか。これは赤い色のサングラスをかけた場合でも同じです。赤い目には赤いものが見えないのです。つまり、いわば赤い色のなかに生まれ育った私たちの、赤く染まった心の目には、自分たちを突き動かしている赤い衝動の正体が定かには見えない仕組みになっているということです。

 たとえばです。「努力、克己、進歩、達成、成功」といった言葉をお聞きになって、どのようにお感じになるでしょうか。プラスのイメージを持たれるでしょうか、それともマイナスのイメージを持たれるでしょうか。…おそらく、百人が百人ともプラスのイメージを持たれるのではないでしょうか。「自分たちを突き動かしている赤い衝動の正体が定かには見えない」というのは、実はこういったことと関係があるのです。では、もう一度、「現実」の成立メカニズムを見ていきましょう。

 社会を構成しているのは私たちの心だと申しましたが、その私たちの心の本性は、前回に見ましたように、「外から奪ってきた生命エネルギーで幸せになれる」と思っている「痴(おろかしさ)」でした。ですから、この「痴(おろかしさ)」が広がりをもって活性している状況が社会だということになります。

 もっとも、「痴(おろかしさ)」は無意識の暗闇のなかにどっかりと腰をおろしたブラックホールのようなもので、私たちにはなかなか見えません。私たちに辛うじて意識されるのは、その働きの方、つまり「人の評価や尊敬、歓声や拍手」といった形で「外から生命エネルギー」を取り込みたいという思い(貪)の方です。ですから、この思いを核にして社会の価値観が生まれるのです。

 人から高く評価されるには、他人より高い位置に立たねばなりません。ここに、何らかの基準に照らして高い位置にあれば「プラス」、低い位置にあれば「マイナス」という価値観が形成されるのです。これは必然的に、生活のあらゆる場面で「序列優位」を絶対視する生き方、つまり「序列主義」へと発展していきます。

 「序列主義」というのは頑固で手強い価値観です。たいていの場合、この色は誕生後間もない頃に染め付けが始められ、絶えず染め重ねられて、ついには死ぬまで褪色しないほどの堅牢なものになっていきます。この色の特徴は、常に勝ち敗けを尺度にして勝ったものを優位に置くというところにあります。そこに用いられる物差しは、それこそ無数にありますが、先ずは幼稚園の入学試験あたりからはっきりとした形をとり始めます。その後も、いわゆる学力、体力、腕力、才能、健康、容貌から、家柄、財力、学歴、結婚、子供、家族、職業、役職、人脈、運、生きがい、年令、死に方、等々にいたるまで、序列をつける物差しには一生涯困らない仕組みになっています。そのうえこの序列競争は、他人を相手にしている以上、自分より優位に立つものが必ず出てきますから、どこかで達観しないかぎり死ぬまで終わらない、いや場合によっては死んでも終わらないという、甚だ念の入った仕組みになっているのです。

 さらにです。この序列競争というゲームからは、「真実」に目覚めないかぎり、生半可な思いでは決して抜け出られないようになっているのです。競争に没頭している人々は、他人がゲームからリタイヤすることを許しません。ゲームは相手がなければできませんし、この種のゲームは、奪ってくるエネルギーの総量が問題ですから、相手が多いほどよいのです。そこで、事あるごとに蔑みの目で見て、いわばリタイヤした人の古傷に塩を撒き、ゲーム中であることを思い出させようとするのです。

 ですが、たとえそういった外からの圧力がなくとも、リタイヤした人々が、心のなかで「いつか見返してやりたい」という思いを引きずっているのなら、つまり「序列主義」という価値観を心のどこかで受け入れているのなら、屈辱感や劣等意識は終生ついてまわります。そこから、自分の子供にはこんな思いをさせてはならないという堅い決意が生まれてくるのです。そうなれば、これまた「序列主義者」たちの思うツボというわけです。

 こういった序列競争に彩りを添えるのが「物質主義」という価値観です。私たちの心には、その情報収集装置である五官で捕えられないもの、それも特に「目に見えないもの」には重きを置かないという傾向があります。昔から「百聞は一見にしかず」などといって、視覚への信頼には格別のものがあります。実際、私たちが外界から受ける情報のうちほぼ80パーセントは「目」から入ってくるものだそうですから、見えないものは、たとえそれがどんなに本質的なものであっても、私たちの視覚偏重的な日常意識にはなかなかアピールできないようになっています。ましてや、目(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、身(触覚)という五つの感覚器官のどれにもひっかかってこないようなものなど、はなから相手にされません。「物質主義」とは、こういった心の土壌に咲いた「あだばな」なのです。

 これは五官で捕えられる具体的な「物」を重視するという価値観であり、私たちの「現実」の核にありながらも、赤い色に染まった日常意識にはなかなか補足されにくい、つまり、はっきりとした反省の対象になりにくい価値観です。私たちの社会では、たいていの「物」が「お金」に換算できます。そこから「物」イコール「金」イコール「幸福」という図式ができあがり、「金がないのは首がないのと同じ」ということにもなるのです。ですからこれは換言すれば、「金がない」イコール「不幸」という価値観でもあります。

 さてこれで、「現実」を支えている2本の柱ともいうべき二つの価値観が見えてきました。先に申しましたように、人は生まれ落ちると同時に、社会が是とするものを是とし、社会が非とするものを非として受け入れるように方向づけられていくのです。人々の価値観によって社会の価値観が生まれ、同時に、人々はその社会から価値観を学んでいくのです。その「社会が是としているもの」、つまり「社会が価値を認めているもの」とは、具体的にはこの二つの価値観のことです。

 先日テレビで見たことですが、ある中学校の校則には、「登校下校時に、道で地位の高い人やお金持ちと出会ったら、失礼にならないよう礼儀正しく挨拶すること」、とあるのだそうです。ご覧になった方々がどのようにお感じになったかは分かりませんが、校則もここまでくれば、かえって愛敬があるように思いました。とはいえ、この校則には私たちの価値観が端的に表現されているとは思われませんでしょうか。

 ここで話をもどします。では、そういった社会のなかでの「努力、克己、進歩、達成、成功」とは、いったい何を意味しているのでしょうか。私たちのいう「努力、克己」とは、社会が是とするものに成るための「努力、克己」であり、「進歩、達成、成功」とは、社会が是とするものに少しでも近付き、我がものとすることを意味しているのではないでしょうか。だとすると、「序列主義」と「物質主義」に基づいた社会のなかで「努力」によって「達成」されるものというのは、せいぜい「お金」か「自惚れ」だけだということになりはしないでしょうか。

 たしかに、「努力」しないと社会的に偉い人にはなれないかもしれません。「努力」しないと社会的に成功しないかもしれません。お金や地位が欲しいのなら、人一倍「努力」しなければならないのでしょう。人に蔑まれたくないと思うのなら、「社会的」に成功しなければならないのでしょう。しかしです。それで「究極的な幸福」に到達できるのかということになれば、これはいささか話が違ってくるように思うのです。

 私たちの「現実」が序列と物質を賭けた「競争」だとすれば、そのゴールはどうなっているのでしょうか。懸命に序列のハシゴを昇り続けて、ふと気付いたら、ハシゴを立て掛けるべき壁が間違っていたなどということにはならないのでしょうか。次回は、もう少し具体的に私たちの一生をたどってみて、そういったコースの前方にあるゴールをのぞいてみたいと思います。合掌



【参考】

 「現実」世界の成立メカニズムを、仏教では「十二因縁」(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)というもので次のように説明しています。

 社会の実体は私たち一人一人の心だと申しましたが、その心の本性は、前回に見ましたように、「外から奪ってきた生命エネルギーで幸せになれる」と思っている「おろかしさ(痴)」(無明)です。ですから、その思いが広がりをもって活性している(行)状況が社会だということになります。こういった状況のなかに、認識主体(識)である私たちが生み落とされ、ここに、私たちと外界(名色)つまり社会との関係が始まります。私たちは感覚知覚能力(六処)を媒介として外界と接触し(触)、徐々に社会の価値観を受け入れ(受)、それを絶対視する(愛)ようになります。そして、外から生命エネルギーを奪い(取)始めるのです。かくして、社会が再生産され(有)、このメカニズムの環が閉じます。

 ですが、こういった「現実」は誤った前提(無明)から生まれていますから、その環のなかでは、生まれてくること(生)、老いること(老)、病むこと(病)、死ぬこと(死)が、全て「苦しみ」(苦)の色合を帯びているのです。「現実」の成立メカニズムはまた、「苦しみ」の成立メカニズムでもあるのです。