心の青年への手紙・第4通

「現実」のゴールについて

拝啓

 前回は私たちの「現実」についてお話しいたしました。「現実」というものは人と社会の関わりあいから生まれてくるのですが、人と社会の関係は、人が社会を作り、社会が人を作るという、一種の閉じた環のようになっています。この「現実」の成立メカニズムを根底で支えているのは、私たちの心の本性でした。ですから「現実」とは、いわば私たちの心の産物だということになります。(つまりは、私たちのいう「現実」とは一種の「夢」なのだということです。)

 通常、私たちには周りの他人しか見えていません。それは他人が私たちの心(痴)のエネルギー源だからです。そんな私たちは、私たちの心が生み出した「序列主義」と「物質主義」という赤い価値観の渦巻く社会のなかで、同じ赤い色のサングラスをかけて生きています。ですから、たとえ「序列主義」や「物質主義」という言葉は理解できても、それに疑問符を付けて考えることはなかなかできないのです。

 こんなことを申しますと、「社会が是とするものを是とし、社会が価値を認めているものを得ようとする、そのどこが悪いのか」、という声が聞こえてきそうな気もします。ですが、ちょっと待ってください。ここでは何もそういったことの善し悪しを問題にしているわけではありません。そうではなくて、ここで問題にしているのは、私たちはそれで「究極的な幸福」(知足)に到達できるのかどうか、ということなのです。これが今回のお話のテーマです。

 「序列主義」と「物質主義」に色付けされた私たちの目には、「競争」がこの世界の本質のように見えます。あるいはもう少し過激な言葉で、この世界を「弱肉強食の世界」と呼ぶ人たちもいます(先にも申しましたように、私たちは他人を心のエネルギー源としているのですから、こういった見方があっても不思議ではないでしょう)。しかし、日常の私たちはたいてい、自分が「序列主義」や「物質主義」に突き動かされて走り続けているなどと意識しているわけではありません。私たちは「幸せ」を求めて走っているつもりなのです。

 ですが、競争人生のゴールには本当にその「幸せ」が待っているのでしょうか。これは一度考えてみる必要があります。そこで、私たちのいう「幸せ」なるもの内容を考えながら「現実」人の平均的な一生を概観して、できればその競争人生のゴールをのぞいてみたいと思います。

 まずは誕生です。ご両親は何はともかく「子供の健康と幸せ」を一心に願われるものです。これは当然の情であり、誰もが理解できるものです。ですが、「序列主義」と「物質主義」の色のなかで育った私たちの心のなかには、無意識のうちにも、「病気」イコール「不幸」、「幸せ」イコール「序列優位」という図式が染み付いているということはないのでしょうか。…ここではこれ以上申し上げずに、先へ進みましょう。

 子供はだんだん成長して幼稚園に入り、小学校、中学校、高等学校へと進学していきます。もともと人にはそれぞれ個性があって、興味の対象も記憶のスピードも異なりますから、当然、既成の教育システムに馴染めない子供たちもでてきます。

 ですが、そこは「序列主義」と「物質主義」で染め上げられた「競争」社会ですから、子供たちも、「今は自分のしたいことをしているときではない。余計なことは考えてはいけない、ともかく覚えるのだ。覚えて覚えて、少しでも有名な大学に入るのだ。考える時間など大学に入ったらいくらでもある」と、ひたすら落ちこぼされないように、少しでも成績順位を上げるようにと必死になります。

 そして小学校から高等学校までの12年間を、自分の自然な欲求も抑え、年令相応に考えることもなく、ひたすら情報砂漠のなかを歩き続けて大学の門をくぐった子供たちには、すでに自分の本当の欲求を感じとる力も、何かを考える力も枯渇してしまっているということが少なくありません。考えるということにも訓練や習慣が必要なのは言うまでもありません。12年間もひたすら考えずにきた子供たちが、急に何かを考えられるなどと思うほうがおかしいのです。

 ですが、幼稚園に始まって大学へと続く20年近い教育期間に、子供たちは、親の願ういわゆる「学力」の方はともかくとしても、「現実」感覚だけはしっかりと身に付けます。成績の良い子は「上」であり、成績の悪い子は「下」なのです。親からも先生からも、「上」になれば褒められ、「下」になれば叱られるのです。進学でも就職でも、「上」の子にはチャンスが多く、「下」の子にはチャンスが少ないのです。そうなれば、何としても「上」に昇らねば「幸せ」になれないのだと思い込んだとしても不思議ではありません(学校教育は「序列」教育でもあるのです)。この段階で、子供たちの心のなかには「幸せ」イコール「序列優位」という図式がしっかりと染め込まれてしまうのです。そしてこの図式が、その後の人生の基調になっていくのです。ですが、そんなことを誰も自覚的に意識しているわけではありません。

 就職試験という「競争」を乗り越えると、職業人としての生活が始まります。一般に「働くのは家族のためだ」と言いますが、たいていの場合、それは生活が最低限の軌道に乗るまでのことです。それ以降は「自分のために働いている」のです。誰もが同僚やその他の人々との競争に没頭していきます。競争に勝てば、それだけ手に入る「エネルギー」が多くなるのです。刺激の中で働いているのが嬉しいということもあります。「労働は美徳だ」という大義名分もあるのです。ですが本当は、働いていないと不安になるのです。立ち止まると社会からとり残されてしまうような不安に苛まれるのです。つまりは、走り続けていないと、精神的安定が保てないようになってしまっているのです。

 とはいえ、ある程度の年令になれば相対的な自分の限界というものに気付いてきます。自分としてはここまでかもしれない、と思うようになるのです。ですが、やはり懸命に働くことはやめません。一瞬でも立ち止まって考えだしたら、こんどは序列主義そのものを疑い始めるかもしれないからです。誰だって考えたくはないのです。今までの人生がひょっとして無駄だったかもしれない、などとは。ハシゴを立てかけて懸命に昇ってきたのに、ひょっとすると立てかけるべき壁が間違っていたのかもしれない、などとは…。

 そして定年退職です。準備のよい人と、ある意味で運のよい人は、次の序列階段に取り掛かります。そんな人もそうでない人も、年をとるにつれて何か心のなかが急に空虚になったような気がして、人生を、そして死を考えそうになります。ですから、「何かをやっていなくては」「忙しい方が救いになる」などとやっきになって動き回ったり、「人生には常に目標が必要だ」「死ぬまで現役」などと本当に大切な決算日を先送りにして、何とか「今」を見つめずにすませよう、人生をやりすごそうと骨折るのです。といっても、もちろん、そんな自分の心の真実に気付いているわけではありません。

 「定年退職後は自由を楽しみ、気ままにのんびりと好きなことをして、人生の締め括りをするのだ」などと夢想していた人々も、実際にその時が来れば、たいていはそんな類のことを考える精神的基盤ができていないものですから、やはり同じように焦りだすものです。「何かをする、努力する、前進する、達成する、成功する」といった精神構造のなかには、「人生が終わる」という現実を受け止める基盤などどこにもないからです。

 「もう終わったのだ」と、肩書きの消えた名刺をながめながら何とか納得できた人も、今までひたすら社会的な目標を追い求め、社会的な幸せや喜びを飛び石づたいに渡って来た経験しかないのですから、もうこれで前方に目標を設定できないかもしれないなどという初めて突き付けられた一種理不尽な状況下では、それまでに蓄積された社会的な経験などいくらあっても役に立ちません。

 人はよく「人生は苦しみ」だと言います。これは、自分をとりまく「現実」はなかなか自分の思いどおりにならない、という意味です。ですが仏教の言う「人生は苦しみ」だというのは、ちょっと意味が違います。それは、私たちの心の産物である「現実」を絶対視している人生は苦しみだ、という意味なのです。「社会的な評価」を求めて生きる人生は「苦しみ」なのです。自分と他人を見比べて生きる人生は「苦しみ」なのです。自分を他人の尺度で計る生き方は「苦しみ」なのです。ですが、こんなことはなかなか理解できないものなのです。私たちは他人と比べてしか、つまり、比較のなかにしか価値を見いだせないように方向づけられているからです。

 たとえばです。「上見て暮らすな、下見て暮らせ」という言葉をご存じでしょうか。これは一種の処世訓でして、実生活ではこんなふうに使われています。「台風で家を無くした人たちのことを考えたら、家があるだけでも幸せと思わねばならない」、「養老院で寂しく暮らしている人のことを思えば、自宅で家族と暮らせる自分はまだしも幸せだ」、「寝たきりの老人もいるのですから、自分のことができるだけでも幸せだと思います」、等々。こういう話はあちこちで耳にされることと思います。こういう話を聞いても、私たちは特におかしいとは思いません。むしろ、立派な人だと思ったりするのです。

 ですがその正体は、自分は幸福序列の最下位にいるわけではない、と自ら慰めているだけなのではないでしょうか。だとすれば、私たちのいう「幸せ」には、最低限「自分よりも不幸な人」の存在が絶対に必要だということになるのではないでしょうか。(社会から差別が無くならないのも、実はこのあたりに原因があります。)私たちは、自覚していなくとも、やはり「序列主義者」だということになります。これは「上見て暮らして」いても同じです。「あんな奴に馬鹿にされてたまるか、いつか見返してやる」という思いがあれば、それはもう立派に「序列主義者」だと言えます。そもそも、「上見て」「下見て」というのが「序列」そのものだからです。

 そういう私たち「序列主義者」「物質主義者」の目からは、仏教はどんなふうに見えるのでしょうか。お釈迦さま(釈尊)は一国の王子としてお生れになり、四季の宮殿で多数の人々にかしずかれながら、当時としては、いや現在の水準から見てさえも、物質的に何不自由ない最高級の環境に暮らしておられたのです。これは「序列主義者」「物質主義者」の目から見れば「幸福の極致」と言ってもよいでしょう。

 ところが釈尊は、それを全て投げ捨てて王宮を出てしまわれたのです。実はこの出家と同時に、釈尊の姿は王宮から消えてしまうだけでなく、「権力や物」にしか価値を見いだせない私たちの理解の枠組みからも消えてしまうのです。なぜなら、私たちは、目に見えない「悟り」なんかより、釈尊がお捨てになった「地位や宮殿」の方が欲しいのですから。

 となるとです。国勢調査の宗教欄に「仏教徒」などと書いてきた私たちの足元には、実は何もないということになるのではないでしょうか。私たちは、本当は、はなから仏教など求めていないのではないでしょうか。仏教など何の役にも立たない、と言う人もいます。「役に立たない」というのが、金銭や権力を得るための手段として使えないという意味ならば、これはまさに正鵠を得た見方というしかありません。仏教界の現状と相違しているのは皮肉ですが、仏教は金銭や権力とは何の関係もないのです。仏教はいかなる「競争」とも無縁だということです。

 仏教は、社会的成功をめざして己れに打ち勝つことではなく、自分の生命の真実に目覚め、それと調和することを説いた教えだからです。考えてもみてください。釈尊は、社会が是とするものになるために「努力」なさったのでしょうか。釈尊は、本当は自分でないものになるために自分を殺して「克己」なさったのでしょうか。釈尊は、「悟り」を得ることで、社会的に「成功」なさったのでしょうか…。

 こういうふうにお話ししてまいりますと、「では、地位も家も捨てよということか、そんなことでは生きていけないではないか」とお考えになるかもしれませんが、それは余りにも短絡的な考え方ではないでしょうか。釈尊も社会のなかで生涯を過ごされたのです。ただ、私たちと根本的に違うのは、「他人の評価や刺激を求めてうろつくことなく、完全に満たされていた」という点です。

 孔子もこれに近い境地に70歳で到達しました。それは、「七十にして、心の欲する所に従えども、矩を踰えず」(論語)という言葉から分かります。でもこれは、孔子が釈尊より劣っていたということではないのです。70歳で悟るより35歳で悟った方が上だ、などというのは、それこそ「序列主義者」の効率的な発想なのです。生まれてきたことの目的が目覚めることであるのなら、ともに目覚めを得たことで命の目的を果たしたのです。その目覚めの時期が人生の時間軸のどこにあるかなどということは、ほとんど意味がありません。「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」(論語)というのも、このことを言っているのだと思います。

 さて、先にも申し上げましたように、「序列主義者」「物質主義者」の私たちは、他人との「比較」によってしか「幸福」を感じられません。ですがそんな私たちも、人生の終盤を迎える頃には、何か間違っているのではないだろうかと、薄々感じ始めるものです。それは、あらゆる「比較」を無意味にしてしまう生命の真実の一端、つまり「死」が、前方にほの見えてくるからです。

 私たちには「病気」イコール「不幸」、「身体が動かない」イコール「敗北」という価値観がしっかりと染め込まれています。ですが、そんな私たちも、いずれは身体が不自由になり、動けなくなっていくのではないでしょうか。だとすれば、このままでいけば私たちの人生は「動けない」イコール「敗北」という図式のなかで幕が閉じられていくということになるのではないでしょうか。私たちはこんな「敗者」として人生を閉じるために、一生「努力」してきたのでしょうか…。

 私たちがそんな不本意な幕切れを迎えねばならないのは、煩悩(痴)に突き動かされて、ひたすら「幸福のタネ」「心のエネルギー源」を外界に求め続けてきたからではないのでしょうか。そんな外界から拾い集めてくる燃料はすぐに燃え尽きてしまいます。ですから、常に燃料補充に窮々としていなければならないのです。「本当の幸せ」とは、尽きることのない生命エネルギーに接して心が満たされたときに得られる、「魂」の充足(知足)のことではないでしょうか。

 では、どうすれば、そんな「本当の満足」(知足)が得られるのでしょうか。それにはです。以前にもお話しいたしましたように、「大きな生命」との関係を回復するという道を進むしかないのではないでしょうか。他人から「生命エネルギー」を奪わない道、他人との「比較」ではない、いわば「絶対」の道を歩むことではないでしょうか。…それはどんな道なのか。次回は、そういった「本当の満足へと続く道」についてお話し申し上げたいと存じます。合掌