拝啓 今回は「念仏行」(念仏による瞑想)の実践方法についてお話し申し上げます。「念仏行」によって「大きな生命」に触れることは誰にでもできます。行(瞑想)を実践する者が信仰を持っているかどうかは、ここではほとんど関係ありません。それは「念仏」そのものに本来的に備わっている力だからです。行を実践する者の力量とは関わりなく、確実に「満足(救い)」へと導いてくれる力、これを仏教(真宗)では「他力」と言っています。「他力」とは「自然(じねん)」、つまりは「そうなっている世界」ということです。 信仰はまず絶対帰依の「信」から始まると言いますが、なにごとでも、「信じる」という心が生まれるためには、「信じるに足る経験」を持つことが前提になると思います。その意味で、「浄土の教え」への「信」も「念仏の行」を通して「他力」を実感するところから始まると言えるのではないでしょうか。本当に「信」が必要になるのは、その体験を持ってからです。
《ふさわしい時》
《ふさわしい場所》
《準備するもの》
《座り方》
《まず心を鎮める》
《念仏行の開始》 「まかせる」とは身体の力を抜くことです。たとえば、乱暴な運転のタクシーに乗ると、思わず知らず身体に力が入ってしまいますでしょう。これは心配で「まかせられない」からです。「念仏行」には何も心配するようなことはありませんから、身体から力を抜いて楽にしてください。 また、一心に唱えるといっても、念仏にしがみついてはいけません。しがみつくというのは、懸命に念仏を唱えようと力むことです。これではいけません。たとえば、川でおぼれかかっているときに誰かが救けにきてくれたと想像してみてください。救けにきてくれた人にしがみついては、助かるものも助かりません。本当に助かりたいと思ったら、身体の力を抜いて相手にまかせることです。「念仏行」でもこれと同じです。力を抜いて、ただ念仏にまかせればよいのです。
《雑念への対処法》 たとえば、仕事中に幼い子供がまとわりついてきたら、「よしよし、またあとでね、今はお仕事だからね」と、穏やかになだめて仕事に戻るでしょう。こんなときに手荒く払い除けたり、はねつけたりすると、子供は大声で泣きだしたり、しがみついてきたりするものです。行中の雑念もこれと同じように、ふんわりと扱わねばなりません。 雑念がわいてきたら、「よしよし、またあとでね、今は念仏だからね」と、穏やかにおさめて念仏に戻るのです。無理に振り払おうとすると逆効果になります。雑念の手をそっとほどいて、静かに念仏に戻ってください。実際、何か心配事があるにしても、そんなことを考える時間など、あとでいくらでもあるのですから。 それでも、気が付けば何か他の思いにとらわれていたとか、白日夢のような空想の世界をさまよっていたということもあるでしょう。そういう場合にも、あわてる必要はありません。「ああ、そうだ。今は念仏だ、念仏だ」と、いわば何食わぬ顔で念仏に戻ればよいのです。 こんなとき、決して自分を叱ってはいけません。雑念というものはわいてくるものなのです。池のなかに小石を投げ込んでいると、底にとごった泥が浮かび上がって水が濁ってくるでしょう。これと同じです。「念仏行」のときの雑念も、心の底に堆積していた様々な思いが、投げ込んだ「南無」という小石でかきまわされて出てくるものなのです。ですから、雑念がわいて当然なのです。雑念がわいてきたということは、「南無」が心の底に達している証拠なのだ、というくらいに気軽にお考えください。
《念仏行中に起こること》 この段階を過ぎると、意識が完全に途絶えます。たとえて言えば、頭も湯のなかにもぐってしまった状態です。これが「大きな生命」に触れた瞬間です。通常、こんな時間はあまり長くは続きません。そのうち、ハッとして、何も考えていなかった瞬間に気づいてしまいます。するとまた、もとの意識が戻ってきます。こういったことを繰り返しながら念仏行が深まってゆくのです。 しかし実際には、何も考えていなかった瞬間にハッと驚き、まるで湯に落ちた顔を引き起こすかのように慌てて体勢をとりなおし、念仏にまかせきれないということも多々あります。これは、今まで長年の間に身につけてきた日常の意識を離してはならぬと、心のどこかで抵抗しているからです。この抵抗の手をそっとほどくことが、「はからいを捨てる」ということなのです。 ですが、この意識を無理に捨てようと力む必要はありません。念仏行さえ続けておれば、右の手に握っている意識であろうが、左の手に握っている意識であろうが、いずれは自然に落ちてしまいます。意識が途切れたら途切れたで、また自然に浮かび上がってきますから、さほど心配することはありません。「念仏行」は決して「過激な行」ではありませんので、落ちる意識は落ちるにまかせておけばよいのです。 むしろ「念仏行」の妨げになるのは、こういった意識の途切れる瞬間を待ち望む期待感が生まれてくることです。これは「念仏を唱えることで救われよう」とする思いと言ってもよいでしょう。こんな期待が強いと、たいていは「期待はずれ」に終わります。たとえて言えば、いつ眠り込むのか、その瞬間を経験しようと待ち構えていると、いつまでも眠れないようなものです。意識が途切れなくとも、何も問題はありません。 初めて念仏行を経験したときには、たいていの人が何かそれまでに知らなかった感覚を経験します。それは、心の底に張った氷には薄い部分が多少残っていて、その薄い部分を小石が通り抜ける…つまり念仏が「大きな生命に」とどく…からです。ですが、行を繰り返していると、氷の分厚い層まで割れ始めて表面全体がミゾレ状になり、今度はかえって通り抜けにくくなるのです。そのため、本当は進んでいるのに、滞っているように感じられる時期があります。これは、いわば池の底の堆積物をかきまぜたために水が不透明になってきただけなのですから気に病むことはありません。
《念仏行の終わり方》
《その他の注意事項》 言ってみれば「念仏行」は心身にこびりついた汚れの大掃除です。「念仏行」をしているうちに、様々なストレスが解消されてゆき、身体の持っている自然治癒力も高まってきます。実際に「念仏行」をなさってごらんになればすぐに納得なさることと思いますが、これは心の指圧とでもいえるような、なかなか気持ちのよいものです。 ですが、身体のコリも急激にほぐすとかえってよくないように、心のコリも急激にほぐすというのはお奨めできません。いくら温泉が身体によいからといって、一日中浸かっているというのは考えものでしょう。「念仏行」も、まずは一日に2〜3回が適当かと思います。長さや回数よりも、毎日続けて日々の習慣になさることが肝要です。行に馴染み、経過時間を知るローソクなど不要となってしまえば、あとはご自分の情況に合わせて、回数や時間をお考え頂ければ結構です。 さしあたり「念仏行」に必要な時間はわずかですが、最初は多少なりとも意識的に時間を取らねばならないかもしれません。長年かかってこびりついた汚れですから、一朝一夕には拭い去れないとお考えになってください。少しづつ喜びを深めながら気長にやる。「念仏行」は簡単だといっても、その程度の心構えは必要です。 ここでお話しいたしました「念仏行」は、お浄土へと続くひとつの入り口です。言うならば、「念仏行」とは「生まれたばかりの子供の心」を取り戻す道であり、生命と世界を汚れない目で見つめなおすためのスタート地点へもどる手段だとお考え頂いてもよいかと思います。 行中に意識のとぎれる瞬間があると申しましたが、これは正確には「意識が途切れるという記憶しか残らない」ということです。たとえて言えば、閉じ込められていた部屋の扉を一瞬開いて外の世界に触れたものの、外の光に慣れていないものですから、何も見えなかったというわけです。つまりは、その瞬間に垣間見た世界をまだ意識できる段階に私たちが達していないものですから、記憶が残っていないのです。意識が途切れたということは、一瞬でも扉を開いたという証拠ではありますが、これが終着点というわけではありません。いずれ私たちの側の準備が整えば、見えてくる世界がそこにはあるのです。 さて、このようにお話しいたしてまいりますと、あるいは、「これは自分の利益だけを考えたレベルの低い道だ」とお考えになる方もあるかもしれません。しかし、本当に自分が満たされる道、つまり「大きな生命」から「生命エネルギー」を補充してもらうという道を進むかぎり、自分だけの利益などというものは絶対に存在しえないのです。次回は、この点についてお話し申し上げたいと存じます。合掌
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