心の青年への手紙・第7通

人は独りではない

生命のネットワーク

拝啓

 今回は、利己的な救いというものは決して存在しない、本当に一人が救われたなら世界が救われるというお話しをさせて頂きたく存じます。

 私たちは通常、自分一人の力など取るに足りないと考えています。たとえば、ゴミの問題にせよ、環境保護の問題にせよ、社会正義の問題にせよ、自分一人だけが行動を起こしても何にもならないのだと思っています。世間全体が同じ方向に進んでゆかないと無意味だと考え、結局何もせずに終わるのです。「世間ではこうだ、世間が許さない」などと、私たちは物事の善し悪しを自分で考えずに、世間とともに流れているのが無難だと思っているのかもしれません。

 しかし、世間を成り立たせているのは他ならぬ私たち一人一人なのです。あなたがいなければ、そして私がいなければ、世間というものは成り立たないものなのです。極論すれば、世間とはこの「私」のことなのです。

 まず、私たち一人一人が世界の中心にいるというお話しから始めましょう。金網で作った巨大な球体を思い描いてみてください。この球面全体がいわゆる世間であり、金網の結び目のひとつがあなただというわけです。私たちはこの金網の目のように互いに結び付いて世界を、つまり人間の生命ネットワークを形成しています。網目の大きさはどこでも同じです。そこでです。ひとつ考えてみてください。この金網の中心は一体どこにあるのでしょうか。

 …実は、どの網目が中心だと言っても同じことになります。球面上では任意の一点を中心と呼ぶことができるでしょう。どこを中央に据えても、結局は便宜上の問題にしかすぎません。日本で発行されている世界地図では日本が中央に描かれていますが、欧米の世界地図では英国が中央に描かれているようなものです。これを生命のネットワークにあてはめてみれば、つまりは、あなたも、私も、一人一人が世界の中心にいるのだと言ってもよいかと思います。

 もうひとつ「たとえ」を用いてみます。テレビのコマーシャルで、ピラミッド形に積み上げたシャンペングラスにワインを注ぐシーンをご覧になったことはありませんか。以前から私たちは「水の半分ほど入ったガラスのコップ」だとお話ししてまいりましたが、コマーシャルのシャンペングラスの代わりに、このガラスのコップを積み上げた様子を思い描いてみてください。一番上にあるコップがあなたであり、私であるわけです。

 一番上のコップが「大きな生命」につながって満たされ、あふれだしたとします。あふれた水は上から二段目、三段目、と順次下のコップを満たしてゆきます。自分のコップが「大きな生命」とつながった瞬間から、私たちは他のコップから奪ってくる必要が少なくなります。その分だけ、他のコップから見れば奪われる心配が少なくなったと言えるでしょう。つまりはそれだけ他のコップを益したということです。これは世界への消極的な貢献だと言えます。そして自分のコップが満たされてあふれだした瞬間から、積極的な貢献が始まるのです。身近な人々からその恩恵に浴していくのです。

 いずれにせよ、あなたのコップが「大きな生命」と接した瞬間から、あなたの存在が世界にとって真にプラスになるということです。つまりは、あなたが本当に救われる道が、そのまま世界を救う道だということです。「大きな生命」との関係を回復するという道を進むかぎり、あなただけが救われる道などどこにも存在しないのです。

 実はここで、もうひとつお話ししておかねばならないことがあります。今まで当然のように、世界の一人一人が緊密につながっているようにお話ししてまいりましたが、これは実際に確かめておかねば納得なさらない方もおられるかと思います。私は私、人は人といった考え方もあるからです。他の人とつながりのない「私」などというものが本当に存在するのでしょうか。身近な例から考えてゆきたいと思います。

 温泉でも銭湯でも結構です。そこにあなたと他の人々が浸かっている様子を思い描いてみてください。あなたが身体を動かします。するとあなたの起こした波は他の人々にも伝わってゆくでしょう。もっとも、これは湯が媒介となって起こるのですから、湯のないところでは通じない「たとえ」かもしれません。

 では、空気ではどうでしょうか。私たちの普通の感覚では分かりませんが、器具で測定してみると、皮膚は自律的にかすかに振動しているのだそうです。この振動を専門的にはマイクロ・バイブレーションと言っています。人間をはじめ、あらゆる生物は皮膚にこのマイクロ・バイブレーションを起こしています。つまりは、私たちは皮膚の振動によって音を出しているとも言えるのです。この音は、振動数が20ヘルツ以上でないと聞き取れない人間の耳では感じられないような8〜12ヘルツで振動しています。そしてこの振動数は脳波と同調しているのだそうです。一人一人の脳波が、世界に信号を送っているということです。そんな信号は感じられないとお考えでしょうか。実は、聞き取れない音でも、私たちは意識しないだけで、確実に感じ取っているらしいのです。

 これに関連して、地震の予知に関する研究があります。東京医科歯科大学の角田教授の関東地方での研究によると、地震が起こる前には地殻の微妙な振動を捉えて、人間の頭脳にストレスが発生するのだそうです。このストレスは自覚されませんが誰もが感じてはいるのです。そのストレスは計器によって測定できます。人間は自覚できませんが動物はこれを自覚することができるのでしょう。地震の前にナマズが暴れるとかネズミがいなくなるなどといった現象がおこるのはそのせいでしょう。

 私たちが自覚的に感じるかどうかは別として、どんなに遠くの音でも伝わってきているのです。たとえば、3000キロはなれたフィリピンのピナツボ火山の噴火による空気の振動を日本で捉えた愛知教育大学の研究があります。1991年10月13日の京都新聞によると、愛知教育大学の田平教授の考案した装置は、6月15日のピナツボ火山の噴火から約2時間半の後に、人間には聞こえない噴火による低周波音をはっきりと捉えていたのです。極端に言えば、地球の裏側で落としたピンの音でも伝わって来ているということです。しかし、これは空気があるから、それを媒介として伝わるのであって、心の動きは別だとお考えになるかもしれません。では、もうひとつ話を進めたいと思います。

 これは以前にテレビで見た、双子の兄弟を対象にした実験の話です。まず二人に脳波計を取り付け、別々に離します。二人は実験の内容について全く知らされていません。兄の方は実験室にとどめられ、弟の方は外に連れ出されて、遠く離れた遊園地でジェットコースターに乗せられます。ジェットコースターに乗った弟の脳波は、恐怖で激しく振動しました。これは誰もが予想できることでしょう。

 ところがです。それと同時に、実験室に残された兄の脳波も、同じ波形を描いて激しく振動し始めたのです。兄はその自分の脳波の変化を自覚したわけでも、弟の置かれている状況を察知したわけでもありません。ですが、意識を越えたところで、兄の脳は弟の脳波の変化を捕えていたのです。双子は特殊なケースだとおっしゃるのなら、別の例を見てみましょう。

 大分県の高崎山には有名なニホンザルの棲息地があります。そこで1979年(昭和54年)に、1匹の子猿が小石をぶつけあって遊ぶ「石遊び」を考え付きました。最初は何匹かの子猿がまねているだけでしたが、すぐに群れ全体に広まりました。するとです、時を同じくして、地理的に何百キロも離れた京都の嵐山や千葉県の高宕山のニホンザルの間でも、同じ遊びが自然発生的に始まったのです。

 もうひとつ同じような話があります。1952年(昭和27年)のことです。宮崎県の幸島のニホンザルに餌付が開始され、様々なエサが与えられました。そのなかに砂や泥にまみれた生のサツマイモがまじっていたので、猿たちはこの砂や泥の扱いに手を焼きました。そのままかじると口のなかが砂だらけになって、お手上げだったのです。ところが、ある日、生後18ヵ月の若い天才的なメス猿があらわれ、見事にこの問題を解決しました。彼女はイモを海で洗って食べるということを思いついたのです。この子猿はイモの洗い方を母猿や友達の子猿たちに教え、この「イモ洗い」は徐々に群れのなかに広がってゆきました。1958年(昭和33年)の秋のことです。「イモ洗い」をする猿の数がある数量を越えたとき、急に群れ全体がイモを洗って食べるようになったのです。それだけではなく、時期を同じくして、遠く離れた大分県の高崎山の猿たちにも「イモ洗い」が自然発生的に始まったのです。

 この現象をヒントに、イギリスの生科学者ライアル・ワトソン博士は、「情報が、ある集団のなかの一定数のものに共有されると、その瞬間に通常の情報伝達手段を越えた何らかの方法によって、その情報は集団全体、あるいは同種の生物全体に伝わるのではないか」、という仮説をたてています。たとえば、イモを洗うサルが99匹になるまでは通常の情報伝達によってしか伝わらないものが、100匹を越えたときには超常的な方法によって爆発的に広まって行くということです。

 似た現象は他の生きものにも見られます。ある研究室でラット(実験用のネズミ)が特定の迷路を熟知すると、そのラットとは何ら交わりのない別世界のラットまでも、それと同じ迷路を通常より早く解決するようになるらしいのです。ひとつの考え方が確立すると、通常的でない、つまり超常的な手段で、それを他に伝えることが可能だということです。

 生物以外にも似た現象が見られます。たとえばグリセリンです。化粧品や薬品に用いられているグリセリンは、かつて固体に固める方法が見つからなかったのですが、1922年、カリフォルニアのバークレーにある大学で2人の研究者がこれを固体化することに成功しました。するとその瞬間、研究室にあった他のグリセリンが一斉に固まり始めたのです。それと同時に、どんなことをしても頑として固まろうとしなかった世界中のグリセリンが突然に固体化し始めたのです。

 化学の世界では、どんな物質でも一度結晶化することができると、後は簡単に結晶にすることができると言われています。イギリスの植物学者ルパート・シェルドレイク博士は、「すべての物質には、同じ種類の物どうしを結ぶネットワークのようなものがあるのです。ひとつのグリセリンが結晶の仕方を覚えたとき、その経験が、見えないネットワークを通じて他のグリセリンにも影響を与えたのではないでしょうか」と言っています。

 もう少し日常的な「たとえ」でお話しいたしましょう。お若い方はあるいはご存じないかもしれませんが、以前はどこの家庭でも「張り板」や「しんし張り」で布を伸ばして乾かしたものです。「張り板」というのは長さ3メートルほどで幅30センチほどの平らな板でした。子供のころ、この板を斜めに立てかけて、上から少しづつ水を流して遊んだことがあります。水は乾いた板の表面を、ところどころで少し向きを変えながら一筋になって流れ落ちてゆきます。板の上にこの水の流れる道筋ができると、次に流した水も、これと同じ道筋をなぞるようにたどるのです。まるで見えない溝ができたようにです。これと同じことは乾いた舗装道路の坂道でもやってみることができます。少しづつ水を流せば、先の道筋をたどるようにして水が流れます。先の話しもこれと同じようなものと考えると分かりやすいかもしれません。誰かが一度通った道は通りやすいということです。

 もうひとつ「たとえ」を出しましょう。大量に新雪の積もった谷を誰かが雪をかきわけて向こうの丘まで進んだとします。すると次に向こうの丘まで行こうとする人は、先の人がかきわけた道を通って、最初の人よりも楽に行きつけるでしょう。

 実は、「救い」も「悟り」もこれと同じことです。誰かが一人悟れば、あとに続く人は少しは楽に悟れるということです。釈尊が独力で悟られた。そのことで後に続く者たちはいくぶんでも悟りやすくなったということです。私たち仏教徒が釈尊や開祖聖人に感謝する、つまり報恩謝徳をいたすというのもそのためです。

 釈尊以外にも悟った人は沢山おられたことでしょう。いわゆる大乗仏教では伝統的に、自分の悟りだけを目指して修業する人(「声聞」)や独力で悟りを開きながら教えを説かない人(「独覚」「縁覚」)を利己的として退けますが、世界に影響を及ぼさない行為などないという観点から言えば、そういった人々の存在も、今の私たちにとって間違いなくプラスになっているのだと思います。

 たとえ教えを説かなかったとしても、悟った人がおられたというその事実が、生命のネットワークを通じて、私たちがそこへ行き着くための手助けになっているはずなのです。つまりは「声聞」でも「縁覚」でもよいのです。傍目には利己的に見えても、一人でも本当に「悟った人」が増えれば、その分だけ他の者も悟りやすくなるはずなのです。昔の人々が無差別に修業者を援助したのは、そういった生命ネットワークの仕組みを無意識のうちで知っていたからではないでしょうか。

 私たちがなかなか悟りの境地に到達できないのは、悟った人の絶対数がまだ不足しているからなのかもしれません。悟った人の数がある一定数を越えたとき、この世界は浄土となるのではないでしょうか。…この世界に浄土を招く100匹目のサルは、あるいはあなたなのかもしれません。

 「念仏行」という瞑想は、決して利己的なものではありません。あなたが、そして私が満たされる(救われる)ということは、世界にとってもプラスなのです。

 「念仏行」ではありませんが、ある瞑想の団体がアメリカのロードアイランドで実験をした報告があります。それによると、1978年6月12日〜9月12日までの期間、300名の熟練した瞑想者がロードアイランドで瞑想を行なったところ、その期間にその町では、殺人事件数が前年比で50パーセント、交通事故が48パーセント、自殺が45パーセント減少したというのです。

 また同じ団体が1978年10月半ばに行なった実験も報告されています。それによると、約900名の瞑想熟練者を世界各国の紛争地域に派遣してグループで瞑想を行なったところ、彼らの滞在中は各地で平和の方向に大幅な進歩が見られたが、グループが帰国すると再び紛争が始まったということです。この報告の真偽のほどは分かりませんが、こういうことが起こってもまんざら不思議ではないような気がします。

 理科の実験などで用いる「音叉」という器具をご存じでしょうか。空洞になった木箱の上に細長い馬蹄形の金具を取り付けたものです。これをバチでたたくと固有の振動数の音を発します。同じ振動数の音叉を二つ並べてその一方をたたくと、もう一方が共鳴して音を発します。振動数の違うものなら共鳴を起こしません。

 人はもともとみな同一の振動数を持った音叉と同じようなものだったのですが、いろいろなゴミがこびりついたり、表面がサビついたりしているので、本来の音(「大きな生命」の世界からの波)に同調できなくなってしまっているのです。いわば「念仏行」はこのサビ落としなのです。サビを落としながら本来の自分に戻ってゆくのです。

 さて、次回は、これまでお話ししてまいりました「念仏行」の根底にあります「浄土の教え」について、簡単にお話し申し上げておきたいと存じます。合掌



〈参考図書案内〉

  1. ライアル・ワトソン『生命潮流』,工作舎,1981年。

     ニューエイジサイエンスの旗手ライアル・ワトソン博士の著書は何冊も出版されております。どれをお読みになっても世界や生命に対する新たな目が開かれるかと思います。

  2. 角田忠信『右脳と左脳』,小学館ライブラリー,1992年。

  3. ロバート・キース・ワレス『瞑想の生理学』,日経サイエンス,1991年。

     この2冊は少し専門的で分かりにくい本かもしれませんが、脳や瞑想の生理学的側面に関心がおありの方はご一読ください。