心の青年への手紙・第8通

「浄土」とは何か

拝啓

 「浄土」や「浄土の教え」という言葉はこれまでにも何度か用いてまいりましたが、その言葉の意味するところに関しましてはほとんど触れずにまいりました。そのために仏教徒でない方々には多少お分りにくい点もあったかと思います。そこで今回は、この「浄土」と「浄土の教え」についてお話し申し上げ、これまでの不足をいくぶんなりとも補っておきたいと存じます。

 「浄土の教え」というのは私たちの「命の真実」についての教えです。そして、その「浄土の教え」のもとに集まった人々が門徒です。ですが御門徒のなかにも、「自分は家が代々門徒だと聞いているので門徒だと言っているが、浄土の教えについては何も知らない」という方もおられるかと思います。そういう御門徒の方々も、この機会にどうぞよくお聞き頂き、お考え頂ければと存じます。

 さて、「浄土の教え」とはどんな教えなのか。「浄土の教え」というのは、『大無量寿経』などの「浄土経典」に示されている教えのことです。では、その「浄土経典」には、どんな教えが示されているのか。『大無量寿経』によってその教えの核心をごくごく簡単にまとめてみますと、次のようになります。

 《昔々、法蔵(ほうぞう)菩薩という名前の修行者が、衆生済度の誓願(ねがい)を立てて修行を積み、その誓願を成就して、阿弥陀(アミダ)という名前の仏様となられた。そして今から十刧(こう)の昔に、西方十万億仏土の彼方に仏の世界を建立された。この仏の世界を「西方極楽浄土」という。法蔵菩薩の誓願の眼目は、仏の名号(名前)を念ずる者を、もらさずこの「西方極楽浄土」に往生させ、悟りに導くというものだった。この誓願が成就できないうちは仏にならないと誓っておられた法蔵菩薩が仏様になられたのだから、この誓願は既に成就されているということである。したがって、この仏様の名号(名前)を念ずる者はみな、この浄土に往生できるのである。》

 初めてお聞きになられた方は、あるいはガッカリなさったかもしれません。また、「こんなお伽話を信じているのが門徒か」と、呆れてしまわれたかもしれません。かつて私もこの『大無量寿経』を初めて読みましたときには顎が外れるほど唖然としましたので、もしそうお感じになったとしても、お気持ちは分かります。ですが、大乗経典というものは特殊な方法で書かれていますので、これを文章どおりに受け取ったらとんでもない誤解になってしまうのです。

 では、どう読めばよいのか。先ず第一にお考え頂きたいのは、「御経とは何を伝えようとしたものか」ということです。御経というのは、「悟りの境地」や私たちの「命の真実」を伝えようとしたものなのです。ですが、この「悟りの境地」や「命の真実」というのは、目にも見えない、言葉でも説明できないものなのです。そんな目にも見えない、言葉でも説明できないものを伝えようとしたら、どうすればよいのか。それにはです、「たとえ」や「象徴」の力を借りるしかないのですね。つまり、「目に見えないもの」を仮に「目に見えるもの」に置き換えて表現するしかないのです。御経は、そんなふうにして書かれています。

 大乗経典というのは、不可称・不可説・不可思議な、目にも見えない、言葉でも説明できない「悟りの境地」や「命の真実」を、「たとえ」や「象徴」を使って表現し、ひとつの物語に仕立てたものなんです。大乗経典というのは、いわば哲学的神話であり、言葉の裏に秘められた意味を汲み取らねばならないものなのです。ですから、最近たくさん出版されている現代語訳になった御経を、他の書物を読むときのような知識を求める目で読んでみても、そこには荒唐無稽なお伽話しか見えてこないのです。

 では、そんなお伽話の裏に隠された本当の「西方極楽浄土」とは、どんな世界なのでしょうか。御経が、「目に見えないもの」を仮に「目に見えるもの」に置き換えて表現したものなら、そこに描かれている「目に見えるもの」を逆に「目に見えないもの」へと翻訳しなおしたら、本当のところが分かってくるはずです。そういう手順で、この「西方極楽浄土」とは何かということを読み解いていこうと思います。

 まず、この「西方」という言葉ですが、昔、この「西方」という言葉を、目に見える方角のことだと考えて、大阪湾から西に向かって船を漕ぎだし、「西方浄土」へ行くんだと言って自殺した人もあったそうです。ですが、大阪から四国へ、四国から九州へと、西へ西へと進めば「極楽浄土」に近付くというわけではありません。現代の私たちの感覚から言えば、どんどん西へ進めば地球を一回りしてもとに戻ってしまいます。「西方」というのは、決してそういうことを言っているのではないのです。

 昔も、これが方角のことを言っているのではないということに気づいていた人たちもいました。そういった人たちは、この「西方」という言葉を、「西に日が沈めば一日が終わる」のだから「西方の彼方というのは一生が終わった次の世界」のことを言っているのだと理解しておりました。ですが、それも違います。仏教は来世のことを言っているわけではなく、この私たちの「命の真実」について言っているのです。

 では、どういう意味なのか。「西方」とは日没の方向です。日が沈めばどうなるか。騒がしく、慌ただしかった一日が終わるのです。つまり「西方」というのは、心のなかの騒ぎが鎮まっていく状態を言っているのです。この目には見えない状態を、目に見える「方角」にたとえて示したのが、「西方」という言葉なのです。「西方に行けば極楽浄土に到達する」というのは、つまり、「心のなかの騒ぎが鎮まったなら、極楽浄土という世界が開けてくる」ということを言っているのです。

 では、「極楽」とはどういう世界なのか。経典には、「極楽」というと、宝石で飾られた宮殿があったり、美しい花が咲いていたり、鳥がさわやかな声で囀っていたり、欲しいものがあれば、欲しいと思うだけで手に入る世界のように描かれています。ですが、本当はそうではないのですね。

 「極楽」というのは、インドの言葉ではスクハーヴァティーといいます。スクハーヴァティーというのは、「幸いあるところ」「本当の幸福が得られるところ」という意味なのです。ですが私たち凡夫は、「幸福」というものを物質的な欲望の満足にしか見出だせませんから、欲望が無くなってしまった世界などというものは、おおよそ理解できません。そこで経典では、欲望が無くなってしまった世界を描く代わりに、欲望が完全に満たされる世界を描くことで、「極楽」の素晴らしさを伝えようとしたのです。

 「極楽」というのは、何でも思いのままに手に入る世界のことではありません。様々な欲望が完全に無くなってしまう世界をいうのです。「本当の幸福が得られるところ」、つまり「極楽」というのは、煩悩が完全に無くなってしまった「悟りの境地」のことを言っているのです。

 ところで、「極楽浄土」の「浄土」という言葉ですが、この「浄土」という言葉は中国でできたものでして、インドでは「仏国土」(ブッダ・クシェートラ)と言いました。この「仏国土」の「国土」(クシェートラ)というのは、物理学でいう重力場や電磁場の「場」に相当する言葉です。この「場」というのは、簡単に言えば、何らかの力が働いていて、そこに入ればその力の影響を受けるような空間のことです。

 たとえば磁場というのは、磁力が働いていて、そこに鉄片を入れると磁気をおびるようになる空間のことです。ただの鉄の釘が、磁石の力の影響で磁石になってしまう。そんな力が働いている空間が磁場なのです。

 同じように、「仏国土」つまり「浄土」というのは、仏の力が働いていて、そこに入ればその仏の力の影響を受けて仏性が目醒めるようになる場所のことなのです。「仏の力」によって「仏」になれる場所。それが「浄土」です。

 いま「場所」と申しましたが、正しくは私たち凡夫の目には見えない「精神的世界」「魂の世界」のことです。また、「仏の力」のことを「慈悲の光」とも言います。そしてこの「慈悲の光」のなかへ入るための智慧が「念仏」なのです。

 「仏性」というのは「悟りの種」のことです。この「悟りの種」は誰の心のなかにもありますが、煩悩の雲でおおわれて心の中が暗くて冷たいものですから、この種はまだ芽をふいてはいません。ですが、「念仏」によって心に「慈悲の光」がさしこむと、この「悟りの種」は芽をふきます。「悟りの種」はひとたび芽をふくと、二度ともとの種には戻りません。これを「不退の位」に入った、あるいは「正定聚の位」に入ったというのです。「正定聚の位」に入ったというのは、必ず悟りに到達できるエスカレーターに乗ったということです。つまり、この「浄土」と呼ばれる「精神的世界」に入れば、必ず悟れるということなのです。

 では、そんな場所が「十万億仏土の彼方にある」というのはどういう意味なのでしょうか。「十万億仏土の彼方にある」というのは、無数の宇宙を通りすぎた遠い彼方にあるということですが、これは距離を表わしたものではありません。距離は目に見えますが、これは目に見えないもののことを言っているのです。

 「西方極楽浄土」が「十万億仏土の彼方にある」というのは、「西方極楽浄土」は、欲望に満ちあふれて世俗の価値観を握り締めている私たち凡夫が、いくら努力しても到底到達できないほど遠くにあるということでして、つまりは、私たち「凡夫の心」と「悟りの境地」との間にある大きな隔たりを、距離の隔たりにたとえて表現したものなのです。

 では、この「念仏によって往生できる西方極楽浄土」が「十刧の昔に建立された」というのはどういう意味でしょうか。「刧」というのは、インドの時間の単位です。もちろん、先程来申し上げておりますように、これは時間のことを言っているのではありませんが、事のついでにこの「刧」という時間について見ておきましょう。

 「1刧」というのは、とてつもない長い時間です。「1刧」というのはどのくらいの長さなのか。『雑阿含経』という御経に、この「刧」という時間の説明がでてまいります。それを見ますと、「縦横高さがそれぞれ1ヨージャナの舛を作って、そのなかに芥子の実を満たす。そして100年に一度づつ鳥が飛んできて、芥子の実を1粒くわえて飛んでいくとして、この舛のなかの芥子の実が全部無くなったとしても、まだ1刧には足りない」と書かれています。

 1ヨージャナというのは、2頭の牡牛が荷物を満載して、1日に進める距離のことでして、一般には約15キロのことですが、仏教ではその半分の約8キロくらいに考えています。8キロというと、直線距離にして上賀茂神社から京都駅までですから、「縦横高さがそれぞれ1ヨージャナの舛」というのは、大変な大きさのものです。そこに芥子の実を一杯にするというのですから、この舛のなかに芥子の実は一体何粒あるのか、考えるだけでも気の遠くなるような話です。

 私たちの宇宙が始まってから、だいたい200億年ほどたっている、と言われています。ちなみに、この200億年の間に、舛のなかの芥子粒はどのくらい減ったのでしょうか。実は、一升ビンで、たった6本半しか減っていないのです。これでは、「縦横高さがそれぞれ1ヨージャナの舛」全体から見れば、何も減っていないようなものですね。

 「十刧」というのは時間のことを言っているのではないのです。「念仏によって往生できる西方極楽浄土」が「十刧の昔に建立された」というのは、「念仏によって西方極楽浄土に往生できる」という能力は、私たちが生まれるはるか昔に与えられた力、生まれたときには既に備わっている「天与の力」だという意味なのです。「天の与えた力」と言おうと「仏の与えた力」と言おうと、結局同じことです。つまりは「生れ付き備わっている能力だ」という意味です。ですから、これは、私たちには念仏によって「浄土」に入れるという心的能力が生れ付き備わっているということを言おうとしたものなのです。

 さて最後に、「法蔵菩薩」という修行者の名前と、「阿弥陀仏」という仏様の名前について少しお話し申し上げておきましょう。

 「法蔵」の「法」というのは「まこと」という意味です。また「蔵」というのは「中に納まっている状態」を言います。ですから、「法蔵」というのは、その「まこと」がまだ外には現われていない状態を言うのです。「菩薩」というのは「仏」になる前の段階を言います。この「法」つまり「まこと」が外に現われると「仏」になるのです。「法蔵菩薩」という人がいたわけではありません。「仏」というのは「目醒めた」という意味ですから、目醒めるには、その前の段階として「目醒めていない段階」があったということです。それが「法蔵」なのです。「法蔵」とは、いわば、「仏性」を蔵しながらもまだ目醒めていない私たちのことなのです。

 「阿弥陀」というのは、「アミターユス」と「アミターバ」というインドの言葉の発音を漢字にあてはめたものです。「アミターユス」というのは寿命が無限にあるということです。寿命が無限にあるということは、時間的な制限が無いということです。また、「アミターバ」というのは、遮るもののない無限の光ということです。これはどこまでも光が届くということですから、空間的な制限が無いということです。そして「仏」とは「悟りの境地」のことです。ですから、「阿弥陀仏」とは、「時間も空間も超えた悟りの境地」を象徴する言葉なのです。

 さて、以上のように「浄土の教え」を読み解いてきたわけですが、ちょっと話が混み入っておりましたので、お分りにくかったかと思います。そこで、もう一度、簡単にまとめておきましょう。一見お伽話のようにも思えた『大無量寿経』の「浄土の教え」は、次のように読み解くことができます。

 《「西方極楽浄土」というのは、心が鎮まったときに開けてくる本当の幸せに満ちた精神的世界のことです。この世界に入れば、自動的に、時間も空間も超えた悟りの境地に到達できます。私たちには、念仏によってこの世界に入れる能力が、生れ付き備わっているのです。これが私たちの「命の真実」です。》

 これが「浄土の教え」の核心です。こういうふうに読み解いてみると、「浄土の教え」というものが決してお伽話ではないということが、よくお分かり頂けるかと思います。

 「西方極楽浄土」というのは、どこか遠くにある理想郷のことではなく、私たちの心のなかで眠っている「仏性」が「念仏」によって目醒めたときに、開かれてくる真実世界のことなのです。そういう世界への扉を開く鍵が「念仏」なのです。そういう世界に入れる能力が私たちには生れ付き備わっている。それが私たちの「命の真実」なのです。

 さて、このようにお話ししてまいりますと、あるいは、「心の持ちようで、娑婆も浄土だ」ということを言っているのだと思われた方もおられるかもしれません。ですが、そうではありません。「心の持ちよう」というのは「物も考えよう」ということでしょうが、どのように考えてみても「娑婆」は「娑婆」です。「浄土」は「娑婆」と全く違った場所にあるのです。では、「浄土」はどこにあるのか。……ちょっと大胆かとは思いますが、次回はこの「浄土の所在」についてお話し申し上げたいと存じます。合掌