心の青年への手紙・第9通

「浄土」への道

拝啓

 以前、「本当の満足を得るには」(第5通)という題で「念仏行」についてお話しいたしましたが、今回はその「念仏行」を「浄土」との関係から捉えて、もう少し別の角度からお話し申しあげたいと存じます。「浄土」はどこにあるのか、どうすればそこに往けるのか。ちょっと大胆かとは思いますが、それが今回のお話しのテーマです。

 さて、「浄土」はどこにあるのか。結論から申しますと、実は、「いま、ここに」あるのです。「今私たちの居るここは浄土ではない」とおっしゃるのなら、それはそのとおりです。それでも、「浄土」は「いま、ここに」あるのです。「浄土」は「いま、ここに」あるのですが、私たちが、その「いま、ここに」いないのです。こんなことを言っておりますと何だか禅問答のように聞こえるかもしれませんから、もう少し順序だててお話し申し上げましょう。

 私たちは「いま、ここに」いる、と思っています。たしかに身体はここにあります。ですが、心が「いま、ここに」ないのです。日常の私たちは、何もしていないときでも常に休みなく頭のなかでオシャベリをしています。常に何かを考えていると言ってもよいでしょう。過去を誇ったり悔やんだり、未来に期待したり不安を抱いたりして、決して「今」のこの一瞬にとどまっているということがありません。つまりは、頭のなかで過去へ未来へと走り回っている私たちは、「いま、ここに」はいないということになります。こんな私たちの、心のなかのオシャベリを止めるための智慧。それが「念仏」なのです。

 私たちは「過去」に生きているわけでも「未来」に生きているわけでもありません。私たちは、本当は「いま、ここに」生きているはずなのです。ですが、心が「過去」へ「未来」へとさまよっています。心は「過去」へ「未来」へとさまよって何をしているのか。「過去」や「未来」のなかに、自分の姿を探しているのです。私たちは「いま、ここに」いるのに、「過去」や「未来」という見当違いの世界で自分の姿を探しているのです。

 また私たちは、他人の評価や世間の思惑が気になってしかたがないのです。ですから、他人が自分のことをどう思っているかと、他人の頭のなかばかり覗いてまわっているのです。つまりは、自分の姿を他人の心のなかで探しまわっているということです。ですが、そんなところを探しても自分は見つかりません。自分は「ここ」にあるのです。自分の姿を探して時間の流れのなかや他人の頭のなかをうろつきまわっている私たちは、つまり、自分を見失っているということです。こんな見失ってしまった「自分自身」を取り戻すための「智慧」。それが「念仏」なのです。

 「過去」は過ぎ去ってしまいました。ですから、「過去」は、いまさらどうしようもありません。「未来」はまだ来てはおりません。ですから、「未来」は、まだどうなるか分かりません。私たちは、そんな「どうしようもない」世界と「どうなるか分からない」世界をうろうろしているものですから、いつまでも心が温まらないのです。「念仏」は、「いま、ここに」ある本来の命を取り戻す「智慧」なのです。

 一般に、「時」というものは、「過去」から「現在」を経て「未来」へと続く一筋の流れのようなものと考えられています。しかしこの流れは、「過去」「現在」「未来」という3つの積み木を一列に並べたような関係にはなっておりません。もし、「時の流れ」を積み木で表わすとすれば、「過去」と「未来」という2つの積み木がくっついているだけでして、この2つの積み木の接点が「現在」に相当するという関係になっています。

 ですから、本当の「いま」というのは、「過去」と「未来」という2つの積み木にはさまれた「透明のシート」のようなものです。つまりは、時間の流れからはみだしている世界、時間を超越した世界が、本当の「いま」なのです。そして、私たちの日常的な意識とは次元の異なった、「いま、ここに」ある広大な世界が「浄土」なのです。

 この「いま」という世界には、心のなかのオシャベリがとまったときに、初めて入っていくことができるのです。私たちの「現実」つまり「娑婆」世界は、心のなかのオシャベリによって「過去」と「未来」という2つの積み木にまたがって存在しています。ですから「いま」に入れないのです。このオシャベリが段々と納まって行ったとき、私たちは自然に、この「いま、ここに」ある本来の命の世界…2つの積み木の間にある隙間…に入っていくのです。

 昔から「意馬心猿」と申しまして、「こころ」はよく馬や猿に喩えられてきました。「こころ」は、暴れ馬のようにコントロールしにくく、枝から枝へと渡り歩く猿のように落ち着きがないというわけです。「こころ」には、刺激を求めて外へ外へとさまよい出る性質があるのです。その理由に関しましては既に(第2通)お話しいたしましたので、ここでは繰り返しませんが、「こころ」は常に自分を満たしてくれるものを求めてさまよっているということはお分り頂けるかと思います。

 そういう「こころ」の状態は必ず生活に現われてきます。つまり、「こころ」がうろつき回っている私たちは、かたときも落ち着いてじっとしてはおれないのです。仕事に追い回されているときには自由な時間を切望していながら、休みが2日も続くと死ぬほど退屈になって機嫌が悪くなる。そこでドライブに行く。買物に行く。ゴルフに行く。旅行に行く。テレビを見る。週刊誌を読む。資格を取ることにする。カルチャーセンターに通う。常に何かをしていないとイライラする。そんなイライラを忘れるために何かをする。それが私たちではないでしょうか。そんな私たちの生活のありさま、「こころ」の状態を別の言葉で言えば、「エントロピーが高い」ということになります。

 エントロピーというのは熱力学で用いられる概念でして、物事の複雑さやデタラメさが増すほどエントロピーが高く、その反対に秩序性が増してシンプルになっていくほどエントロピーが低いと言います。ですから、イライラと動き回っているのはエントロピーが高く、泰然と落ち着いているのはエントロピーが低いというわけです。「念仏行」やその他様々な瞑想の目的は、私たちの「こころ」のエントロピーを下げることにあります。エントロピーを下げて下げて、究極のゼロに近づける。それが「浄土」への道なのです。

 エントロピーがゼロの状態とは何をさすのか。それは宇宙を生み出した「虚空」のことではないかと思います。「虚空」というのは物理的な空間のことではありません。空間をも時間をも生み出した不可称・不可説・不可思議な「場」を言うのです。この「虚空」こそが宇宙の真実相であって、私たちの目に見える現実世界はそこから生まれた様々な「表現形」なのです。この様々な「表現形」のなかにも「虚空」は満ち満ちています。この宇宙の真実相、究極の秩序を、老子は「道(タオ)」と呼び、仏教徒は「空(クウ)」と呼びました。

 「宗教」を実利的に見て現実世界(娑婆)の役に立てようと思っている人々には、こんなことを言うと笑われるかもしれませんが、仏教や世界の様々な宗教が究極的にめざしているのは、この「宇宙の真実」との合一・同一化なのです。生命が何十億年もかけて人間にまで進化してきた目的も、この宇宙の真実への回帰にあると思います。「宗教」つまり「レ=リジョン」というのは「再び結び付ける」という意味です。「宗教」とは本来、「生命」と「宇宙の真実」の結びつきの回復をめざすものなのです。

 「生命の目的」という言葉を用いましたついでに、もう少しだけ「生命」について見ておきましょう。私たちの常識からいえば、「生きている」ということは「いずれ死ぬ」ということですが、実際には死なない生き物もいます。アメーバやゾウリムシのような単細胞生物です。こういった最も原始的な生物には、老化による「死」というものはありません。生存に適した環境にあるかぎり、無限に分裂を繰り返すだけで、死なないのです。とすると、「死」というものは進化の過程で「生命」に付け加えられたものだということになります。

 生物学でも「死」を生物の絶対要件とは考えていないようです。生物学では生物を、「エネルギー転換を行い、自己増殖し、かつ自己保存の能力をもつ複雑な物質系」と定義しています。人類も、やはり生物ですから、当然こういった要件を満たしています。ですが、人類という生物を考える場合には、こういった要件とは別に、「死」という問題が大きくクローズアップされてくるのです。

 人類以外の生物もたいていは死ぬべき運命にある存在です。ですが、「死」というもの、そしてその対立概念である「生」というものを、感慨をこめて見つめる生物は人類だけではないでしょうか。たとえばです。「生」の意味、「死」の意味に思いを凝らし、遠くを見つめる犬などのというものが考えられるでしょうか。「死」を自覚的に見つめ、「生」の意味を問うことができる唯一の生命体、それが人類だと思います。別の言葉で言えば、進化の途中に付け加えられた「死」は、生命が人類にまで進化して初めて意味を持ってきたということです。そういう意味では、「死」は人類のために準備されたものだと言えるかもしれません。

 「死」は、いわば「死」を乗り越えるためのタイムリミットですが、締切日のない仕事というものは永遠に仕上がらないものですから、「死」に急かされているというのは、思えば有り難いことでもあります。ですが、もし私たちに「死」を乗り越えるだけの能力が生れ付き備わっていないのなら、「死」は単に無慈悲な終着点というだけになってしまいます。しかしそうではないのです。私たちには、有限な生命体の殻を破って宇宙の真実、究極の秩序と合一する能力が本来的に備わっているのです。仏教で「仏性」とか「如来蔵」とか呼んでいるのは、そんな能力のことなのです。

 この能力は私たちの誰もが持っている潜在的能力です。世界には様々な宗教があり、様々な宗教理論や修行方法がありますが、それらが本来的にめざしているのはただひとつ、つまりこの潜在的能力を開花させることだと言ってもよいかと思います。

 この能力を開発するために様々な修行方法があると申しましたが、そこには大きな共通点があります。それは、「肉体をコントロールしてその生理的な働きを変え、精神の周波数を変換する」という点です。肉体をコントロールする方法には、大別して2つの流れがあります。ひとつは薬物を用いる方法、もうひとつは瞑想を用いる方法です。

 また、生理的な働きを変えるのにも、大別して2つの流れがあります。ひとつはヨガや道教のようにプラーナとチャクラ(「気」の流れと経絡)、いわば内分泌系の活性をめざすもの、もうひとつは大方の仏教のように大脳のバランスを変えることをめざすものです。(「精神の周波数を変換する」というのは「意識を変容する」ということですが、これに関しましては、少し説明が長くなりますので、いずれ改めてお話し申し上げることにしたいと思います。)

 さて、では「念仏行」に話を戻しましょう。「念仏行」は、「瞑想」によって「大脳のバランスを変える」という系統に属しています。「瞑想」によって「大脳のバランスを変える」という修行方法そのものは何も珍しいものではありません。仏教の修行方法はたいていこの系統に属しています。ですが「念仏行」には、それまでの修行方法とは一線を画したユニークな点があるのです。では、どういう点がユニークなのか。いささか通説とは異なった見方かもしれませんが、簡単にご説明申し上げます。

 「瞑想」というのは「こころ」を鎮め統一することですが、これを仏教では「定」と呼んでいます。また「瞑想法」を「観法」といいます。「観」とは心のなかで何かを観察することです。つまり、たいていの「観法」は、何か対象(精神統一の媒体)を定めてそれを心に強く「イメージ」することがその核になっているということです。

 たとえば、真言密教の「阿字観」です。この瞑想法では、まず、月輪中に「阿」という梵字を描いた阿字観本尊に向かい、これを観察して目を閉じます。そして、心のなかでこの月輪を水晶球のように立体的にイメージし、このイメージを宇宙いっぱいに拡大していくという方法をとります。また、天台浄土教の「常行三昧」では、心のなかで阿弥陀仏の相好を観察する、つまり心中に仏のイメージを描くという観想念仏(観仏)が中心になっていました。

 ですが、「念仏行」では、この「イメージ」というものを全く用いず、代わりに「ナム(アミダブツ)」という言葉(音声言語)を用いているのです。これが「念仏行」の、ひとつめのユニークな点です。真宗には現在、木像、絵像、名号という3種類の本尊がありますが、かつて親鸞聖人は名号を書いて門弟にお与えになりましたし、蓮如上人も本尊について「木像より絵像、絵像より名号」(『蓮如上人御一代記聞書』)とおっしゃっています。これは木像や絵像といった「イメージ」を拠り所とはしないということを言われたものではないかと思います。「イメージ」というのは映像の世界ですが、「念仏」は音声言語の世界です。この違いを少し大脳生理学的に考えてみましょう。

 ご存じのように、私たちの大脳は「右脳」と「左脳」という2つの半球からできていて、機能的分業をしています。ごく大雑把に言って、主に「右脳」はイメージ活動を、「左脳」は言語活動を司っています。つまり、「右脳」は全体像の直観的把握や真善美の感得にすぐれ、「左脳」は理論的思考や分析的探求にすぐれているということです。(これまた大雑把な言い方ではありますが、「右脳」は文化の源泉であり、「左脳」は文明の原動力と言えるかもしれません。)

 こういった「右脳」と「左脳」の機能的分業から見れば、「イメージ」を描く訓練を積むということは「右脳」を鍛えるということになります。つまり、大体の瞑想法は「右脳」の活性強化をめざしているということです。では、「イメージ」を用いない「念仏行」は何をめざしているのでしょうか。

 「念仏行」は音声言語を用いているのですから、そのターゲットは明らかに「左脳」にあります。実は、「念仏行」は「左脳」の鎮静化をめざしているのです。これが「念仏行」の、もうひとつのユニークな点です。私たちの「左脳」には、音声言語を用いたオシャベリが絶えず渦巻いています。この様々なオシャベリを、「ナム」の一音に集中することで鎮静化する。いわば、一念をもって多念を排する道、それが「念仏行」なのです。

 言葉を代えて言えば、大方の瞑想法は直接的に「右脳」の活性化をはかっているのに対し、「念仏行」は「左脳」を鎮めることで間接的に「右脳」を活性化しようとしているのです。つまりは、いずれの瞑想法も、相対的に「左脳」より「右脳」の活性度を高めることをめざしているのです。どうやら、「宇宙の真実」への入り口は「右脳」にあるということのようです。

 この「右脳」は、いわゆる勉強によって活性化できるものではありません。知的な理解は「左脳」の守備範囲だからです。仏教書をやまほど読んで知識が豊かになったとしても、そんなことは余り「悟り」の役には立ちません。理屈が分かっただけではダメなのです。たとえばです、「運動生理学」や「体育原理」といった書物をいくら読んでも、別にマラソンが速くなるというわけではないでしょう。速く走れるようになりたいと思えば、理屈は二の次で、ともかく走ることです。ともかく走る、それは私たち門徒にとっては、日々「念仏行」を実践するということです。

 さて、いささかこみいった話が続きましたので、次回はあまり肩の凝らない「法話」ふうのお話しで、簡単にこれまでの「まとめ」をしてみたいと思います。合掌