..........         心の置き場

........................................................... 紀ノ国屋 千

  あふれる悲しい街の姿

 近頃、歩道など通行の多い所を歩いてい
て気づく事がある。10代くらいの女の子

に特に顕著のように思うが、対面する通行人を避けない事である。

今までの我々の常
識では歩道のような限られた幅の通路では事さら意識することなく対向

する人や物
などに気を使い、ぶつかるまで歩きつけるのではなく多少は相手に道を譲る事

を入れて、歩みを進めたものである。とこ
ろがどうであろう、あわやぶつかるか、時には

本当にぶつかって猶も相手を睨みつけるのである。少なくとも、1970年代前頃までの

「少年・少女」といえば初々しさと、幼さが可愛さのイメージでこんな子は居なかった。

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  なにが変わってしまったのか

 今の世の中、悲しい事であるが、このイメージは塗り替えられているような気がする。

欲望を超えた、物の有り余る日々に、自制する事さえ忘れたわが民の将来を暗示する悲劇

の警鐘のような気がしてならない。 未
来は、必ずこの子達が受け継ぐからである。 

幼さの微笑を失った若年層の恐ろしさと
悲さ。それらの子供たちを育てた思慮深い大人は

今、何を考えているのだろう。それは人が創造した神々たとえば、ギリシャ神話のゼウス

の一見、幼さに通じるような我儘限りのような振る舞い。日本神話のスサノオの尊の下界

の人間との交わり。また、フィンランドの叙事詩カレワラの英雄ワイナモイネンのおお

らかな行動等とはまったく、異次元の幼稚さ・愚かさであり、近未来のこの国の世の、

ただならぬ破滅を感じさせる。

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  恐れを忘れた恐ろしさ

 古来どの民族の世界でも、人間が持つ愚かさ、傲慢、怠惰、悪意などあとあらゆる破滅へ

つながる暴走を諌めるために、絶対的な意志と力と慈悲(愛)を、人がこの世(大宇宙)

で健やかに命を謳歌する知恵を説く存在を持っていた。その根源は計り知れない大自然・

大宇宙などへの畏敬の心であったろう。神や仏、聖なるもの、慈なる絶対的な力をもう

一度見詰め直すことが急務でないだろうか。


  科学は人間にとって絶対の真か

 今、科学を絶対真理と愚かにも思い込んでしまった人間。科学的に立証されました。

と言う言葉に何の疑念も持たない習性を身につけた現代人。科学はパンドラの箱から流れ

出た知の毒素だったのか。科学的と標榜すれば、絶対的な正しさや真理と思い込む盲信。科学

などは宇宙の原理のひとつの現れであり人間はそれを利用しているにしか過ぎない。決して

人間が作り出したとか、知や智から生み出した絶対的な真実ではない。科学のみにしか畏敬や

絶対原理を見られなくなった人間の心。その科学から生み出された物・物・物。そして

どんな大きな価値のある物も金という代価のみを手渡せば汗することなく我が物になる。大量

なる使い捨て、限りない欲望の奴隷。仏教の言葉を借りれば、煩悩、その数、多くは八万四千

とも、馴染み深くは、百八つとも言われる。驕り昂ぶる傍若無人の心が大地をのたうつ。

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  大宇宙を恐れ敬う、その・・よき心は

 我らの先人たちは、人間に涌く、際限ない欲望を昇華する知恵を示してくれていた。欲望は

生きる力のバネでもあるが、統ねねばならない力でもある。人には心があり、よき心もある。

ところが、街に溢れた無数の人々、その中に、よき心が輝いているような姿を見る事があまり

にも少なくなったように思う。壊れた心の早鐘が鳴り続ける今、子供たちは大人を見て、大人

になる。よき心で人間の世を洗わなければ、さらに子供たちが穢れ汚れていく。そう思うと

私も、人として持つべきよき心、確かに持っていたはずのよき心は、自分の体の何処に置いて

あるのか、急いで探して見なければいけないと強く思い始めた今日この頃である。


  
. 本稿は、2004年9月1日発行 新・現代詩14号所収のものである。
BGM: ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル「サラバンド」とブルグミュラー 25の練習曲 第13番op.100-13「なぐさめ」