高木茂のホームページ 私と酒の害について03
断酒のすすめ

1)はじめに
2)どうにもにもならなかった私のお酒
3)私が飲んだ最後の酒
4)アルコール依存症を教えてくれた人
5)断酒会との出会い(作成中)
6)私の座る場所が戻ってきた(作成中)
7)酒を継続することのむづかしさ(作成中)
8)断酒仲間の死
9)断酒3年を迎えて(作成中)
10)これからの課題と目標 (作成中)
     
は じ め に
    私は酒歴30数年,京都市関係の公務員。 戦争中の生まれだから結構の年齢である。(孫がいる) 3人の子宝に恵まれたが,妻や子供達には酒のため迷惑ばかりかけて何一つ父親らしい,夫らしいことができなかったことが悔やまれてならない。
京都先斗町といえば全国でも名の知れた花街。私はここで片親の長男として生まれた。毎晩のように,酒に酔って母にからむ男達を見て「大人になっても絶対酒だけは飲まないぞ」と幼心に決めていたはずであるが,神のいたづらだろうか,見事アル中になってしまった。
若い頃から,酒乱の大酒のみで,酒が入ると人が変わり,飲酒運転,暴言・暴力を始め馬鹿なことを何度も何度も繰り返してしてきた。
「俺の稼いだ金で好きなだけ飲んでどこが悪いんだ。」とうそぶき,来る日も来る日も酒にとらわれて過ごしてきた。失敗をしても,身体を壊しても,つかの間の反省。仕事さえしていればと,人一倍がんばってきたが,休みの日の深酒で月曜日に休むことがしばしば。
酒に囚われた生活は,いつしか人前では禁酒をせざるを得なくなっていた。
しかし,やめようと思ってからが隠れ酒,盗み酒の繰り返しで,異常飲酒が始まった。自動販売機の陰で,ひどいときには公衆便所で隠れてワンカップを流し込むという姿に変わっていきた。(背広を着て,ネクタイをしめて・・・一見紳士風を装って・・・それでいて人の目を気にして)
平成8年2月。ついに何度目かの連続飲酒で,内科の病院から精神精神科を紹介され,何とか通院と断酒会の例会出席で今日に至っている。
ほんとに苦しい毎日だったけど,ここまで頑張れたのも,断酒会に入会し,酒に悩む多くの仲間と巡り会い,また,その仲間の励ましがあったからこそである。
「お父さんがお酒を止めて幸せです。」という言葉を聞くとき,こんな形でしか幸せを感じられない 家族の心の傷の深さを改めて思い知らされる今日この頃である。
平成9年10月 記

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どうにもならなかった私のお酒
    この世に生を受けて物心ついてから,50歳を過ぎるまで,自分を生んだ親を恨み,自分を卑下して世間や他人を嘲り,寂しがりやのくせに孤独を愛するという身勝手な人生を送ってきた。
子供の頃から,劣等感の固まりであった私に,初めて心和む思いをさせてくれたのは他でもない初めて飲んだ「酒」なのだ。それにしても,初めて飲んだ酒は美味かった。酒に酔ったときの,あの陶酔感は私をアルコール地獄へと誘い込んでしまった。
酒を飲めば,この世はバラ色。思っていることが何でも話せ一回り大きくなった自分を感じるのだ。
事実,若い頃は,少々酒が入っている方が何でもうまくこなせ,特に好きな楽器などはアドリブもおもしろいほどにやってのけられた。私にも「酒は百薬の長」の頃もあったようだ。
しかし,身勝手で自己愛の強い私は,快楽と禁断の身をとことん貪ってしまった。
そしていつしか,変わったことをしたり能力以上に無理をしてがんばって人から誉められたりあきれられたりすることに快感を覚えるようになっていた。
「酒豪」を誇りひたすらに飲んだ酒が「酒乱の大酒飲み」から「アルコール依存症」へと変貌していったのは,今考えれば当然の結果であり天罰が下ったのである。
結婚して30年,三人の子を持つ父でありながら,妻や子供には許されない罪の数々を繰り返しそのたびに後悔して酒をやめなければと悩み苦しみながらも,よけいに孤独な酒に浸る日々が続いた。
そして,最後には,食事さえも満足にできず,風呂にも入らず,誰にも心の中をうち明けられず,仕事をさぼり,人を恨み,自分をさげすみ,さう酒はやめなければと思いながらどうしてもやめられず,泣きながら隠れて自動販売機のワンカップを流し込むという情けない姿に変わり果ててしまった。
それでも,まだ自分がアルコール依存症だと気づかず,ボロボロになった体から残されて力を振り絞って妻や子供たちにに当たり散らして,暴言と暴力の数々を重ねてきたのだ。
本当に申し訳ないと思うのは,せっかく妻が丹精こめて作った食事を,何の理由もなく再三に亘りテーブルごとひっくり返し「おまえたちが悪いのだ。」と怒鳴りつけては大酒を飲む理由にしていたこと。
酒の上で起こした問題をすべて妻や知人に解決させて,「もう一生飲まない」と言って誓ったその舌の根が乾く前にまた酒を口にしてしまうのであった。
長年こんなつらい目に遭いながらも,今は何もなかったように私に優しくしてくれている家族には頭の下がる思いがする。
おかげで,仕事も何とか首の皮一枚でつながり,なんとか元通り続けられている。
自分がいなければ,仕事がうまく進まないなんてとんでもない考え違いをして,酒の力を借りて無理を重ねてきたが,自分一人の力なんて所詮たかがしれていると言うことにやっと気づくことができたのだ。
身体あっての自分。自分あっての家族,家族あっての仕事。
結局,自分自身がしっかりすること,これがみんなの幸せにつながるのだ。
しごく当たり前のことがどうしてこれまでわからなかったのだろう・・・・・
それは,もちろんお酒に飲まれて自分で自分の人生を狂わせていたからに他ならない。
よい意味で自分を大切にすること,これが私には全く欠けていたのだ。
目立たず,欲を持たず,人の迷惑にならない人生。天台宗の教えにある「一隅を照らす」 このことをこれからの人生訓として,ゆっくりマイペースで歩んでいきたいと思うこのごろである。
平成9年12月 記

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私が飲んだ最後の酒
    平成8年2月9日(金)。4連休の初日だ。もう,この頃には完全にアルコールで身も心もぼろぼろになっていた。仕事もおもしろくないし,人と会うのも面倒くさい,まして妻や家族が私を汚い物でも見るような目で見ているような気がするので,家にいるのが苦痛だった。
5年ほど前から登校拒否に始まって,恐喝事件を起こしたり,校内・家庭内暴力の限りを尽くす息子にほとほと参っていたのもこの頃だった。(今思えば,息子が問題ばかり起こした大きな原因は私のお酒のためであるけれど・・・)
連日の残業と,大量の酒で物もろくに食べられず,痩せて目ばかりがぎょろぎょろとしていて,なれるんだ。どうせ身体もあちこちやられてるし長生きは出来そうにもない。
仕事を終えて,職場のすぐそばの酒屋でワンカップをまるで薬のように流し込んで,一時の元気を取り戻して,北風の冷たい夜の町を家路と反対の方向へ歩き出した。
いつの間にか,あちこちで飲んだ冷やの日本酒のため完全にできあがっていた。
「チクショー。俺は生まれてこなかったら良かったんだ。誰もわっかってくれない。死にたい。でも死ねない。バカヤロー」訳の分からないことをぶつやきながら,気がついたら家から約2キロ離れた自分の車のガレージにきていた。
ここは,京都の平安神宮の近くで大通りに面してはいるが比較的静かな住宅街である。家内の実家であるが,両親とも亡くなったので,1階を昼間だけの武道具具の店舗に貸して,私のガレージとしても活用しているいわゆる空き家である。
よせばいのに,またいつもの癖で車を出して泥酔運転である。
しばらくふらふらところがしているうちに,2年前に同じことをして,大原三千院のそばの山道で電柱に激突して田圃に落ちて危うく命拾いしたことを思い出した。 少しだけ酔いが醒めたのか,ふとこれはだめだと思って,ガレージに戻ることにした。
ただし,しこたま酒を買い込んでである。
どうしてたどり着いたのかわからないが,気がついたら家内の実家の二階(さっきのガレージのこと)のホームごたつの中で目覚めた。
きっと明くる日(土曜日)の午後だったのだろう。階下の店には人の気配がするし,表には車の騒音が聞こえる。
またやってしまった。最近休みになると家に帰らなかったり,夜に家を抜け出してここにきて酒をあおって眠り,また目が覚めると酒を飲むという習慣がついてしまった。ここなら,誰にもじゃまされずに心ゆくまで飲めるし,うっとおしい来客や電話もかからないから,と別荘(隠れ家)がわりにしているうちに,ますます孤独に陥って休み明けに仕事にでるのもおっくうで月曜日はお休みということが多くなった。
どうしてこんな情けない人間になってしまったのか。人付き合いも良かったし,アマチュア無線や音楽では人に負けないし,釣りもゴルフもカラオケも一応一通り出来るのに,どうしてこんなに毎日がつまらないのだろう。なにより仕事では絶対人には負けないのになぜなんだ・・・・・・過去の酒の過ちや裏切った友人たちの顔がいっぱい見えてくる。
どうせ俺なんか,みんな馬鹿にしているに違いない。家内なんか早く死んだらいいと思っているんだ,きっと。生命保険と退職金を合わせたら一億円近くはいるはずだ。
だから,俺を捜そうとも助けようともしないんだ。(実は,俺がここで飲んでつぶれていることは前から知っていたそうだ。でも,注意すると暴言を吐いてわめき散らしたり暴力を振るったりするので,怖かったそうだ。でも,俺のことをだらしない男と思っていたことも事実のようだ。あたりまえだけど・・・・)
そしてまた,昼間から酒をのんでしまった。さっきまでの沈んだ気持ちとはうらはらに,俺ほどすばらしい人間はいないのに,世間の奴らは俺を馬鹿にしやがって。バカヤロー家なんか帰るもんか。と,ぶつやきながらふらふらと外へ出て酒屋とスーパーへ行ったのをかすかに覚えている。昨夜から背広のままである。どんな格好をしていたのだろう。次に気づいた時には,大変な事態に陥っていた。何を思ったのか,きっと何か食べなくてはと思い酩酊してホームごたつの上にカセットコンロをおいて火をつけたようだ。
ところが,ガスが切れてきたのか,それともみんな燃えてしまえばいいと思ったのか定かではないが,コンロの上に割り箸や新聞紙などを入れて無理矢理に鍋を温めようとしたらしい。
こたつの上に火柱が立っているのだ。だるい体を揺り起こして鍋やポットの湯で消し止めて,幸いテーブルの上に焼け残りの灰がいっぱい飛び散っただけで大事に至らなかったのは,神の救いという以外に説明のしようがない。その後,また酒を少し飲んで眠ってしまったからだ。
そして今度気がついたら,明くる日(日曜日)であったようだ。どうも昨晩あれから,一人で暴れまくった末,あちこちに携帯電話で恨み辛みの電話をかけまくったらしい。
かすかな記憶の中で,どこにかけても,ツー,ツーという話中音になっていたのが思い出され,割れるように痛い頭の中でまたしても「バカヤロー」と叫んでいた。
本当に目覚めたのは,15日水曜日の朝だった。実に8日間にわたって,飲んでは眠り目覚めては飲み,夢の中をさまよっていたのだ。(これを連続飲酒といってアルコール依存症の末期的かつ典型的な症状であることを後に知った。)
日曜日に家に帰ってからは,みんな大変だったということだ。もうどうしよううもなく酔っぱらっているにもかかわらず,目を離せば酒を求めて寝間着のままや,下着姿でワンカップを買いに行く。
さすがの家族もこれはおかしいと気づき,家内は異論のこと,娘や息子とその彼氏・彼女,私の年老いた母や,近所の人たちまでが心配して,何とか酒を飲ませないようにということで相談し,交代交代で私を2階に寝かせ,外へ出ないよう監視をしたらしい。ところが,酒の魔力はそれくらいでは負けないくらい悪知恵が働くのだ。
ちょっと目を離した隙に,いつの間にか酒が身体に補給されている。これはだめだと,玄関を見張っていたが,なんと,俺は,2階の屋根づたいに外へ出て酒を買いに行っていたらしい。(家の周りは京都の繁華街。多くの人が情けない姿を見ているに違いない。それに,酒を飲んでよく転落せずにあんな怖いところから外へ出入りできたものだ。)
あんなに恨んだ家族のおかげで,本当に身体から酒を抜くことができたのだ。
専門の病院でも「観察室」と呼ばれる独房に入って一週間はかかるというのに。
忘れてはならないことは,家族や迷惑をかけた人たちが心から心配してくれたということ。
二度と酒を口にしないことが,せめても俺にできる唯一の償いである。 平成8年2月15日この日飲んだビールが私の最後のとなった。
平成10年1月記

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アルコール依存症を教えてくれた人
    平成2年2月16日。私は自分がアルコール依存症であることを認めた。
酒を止めたい。止めなければ・・・・と思いながらも,どうしても飲んでしまう長い年月を経て,もう自分の力ではどうにもならないところまできて,半ば自暴自棄で過ごしていた。仕事も家庭も何もかもがいやになって生きているのが苦しかった。
本当に思いきり飲んで死にたいと考え,大量の酒を仕入れて家族に隠れてただひたすらに飲み続けた。
しかし,死ぬことはできなかった。家族に発見され,泥酔して意識ももうろうとなりながらもひたすら酒を求める私から,必死で酒を遠ざけてくれた妻や子供たち。
およそ2晩に及ぶ葛藤の末,私は突如覚醒した。今思えば神か仏の仕業としか思えない。
このままでは死んでしまう。何とかしなければ・・・・酔いのさめやらぬぼけた頭ではあったが,タクシーをとばして自分から病院へたどり着いた。急患扱いで診察室に入るや否や,担当の医師が言ったのは「あんたは,アル中や。うちの病院ではどうにもならない。すぐに精神病院へ入院しなさい。」という想像もしなかった語調のきつい言葉であった。
これまでも何度もないかの病院や近所のかかりつけの医者に診てもらったが,どの先生も同じように,「少し肝臓を休めないと。お酒はひかえめにしてくださいね。」とにこやかに言って,点滴や注射などの処置をしてくれた。
救急車で運ばれて入院したこともたびたび。そのたびに,これからは酒を止めなければと思いしばらくはおとなしくしていた。
しかし,少し良くなってくると,必ず「先生,お酒はもう絶対だめですか?」と聞いた。その答えはいつも「飲み過ぎはだめだけど,少しくらいなら・・・・」というものであった。
もとより少しくらいでおさまるはずのないないことは自分が一番良く知っているのに,この言葉を聞いたとたんに,昨日までの誓いはどこへやら,元の木阿弥の繰り返しだった。 ところが,今度ばかりは様子が違った。酒を切ってこなければいっさい治療はしないというのである。頭は痛いし吐き気はするし,早く何とかしてほしいと苦しみながら助けを求める私に,「あんたは,厚生省の敵だ。自分で体を悪くして医療費を無駄に使い,治ったら酒を飲むことしか考えていない。とにかく酒を切って来なさい。」の一点張り。
私は,無性に腹が立ってこの先生を相手にしつこくうるさく絡んだようだ。「あんただけが患者ではない。他の人が待っている。もういい加減に帰ってください。」という言葉を最後に全く相手にしてもらえなかった。
仕方なくすごすごと帰路についたが,そのとき「よしそれなら,明日酒を飲まないでもう一度言ってみよう。」という珍しく殊勝な心になっている自分に気づいた。
その晩は,ほんとに苦しかった,離脱症状との戦いである。まんじりとせず夜が明けて,何とか酒を口にしないで,再び病院にたどりついた。京都市上京区にある堀川病院である。先生の名前は,山田懇先生。今日もまた,あのうっといしお説教か!と思いながら診察室に入ると,「やあ。お酒を飲まずに来ましたね。では治療をしてあげましょう。」と早速点滴をしてもらった。
昨日とは打って変わって,優しく扱ってもらった。でも今度ははっきりと「あなたは,アルコール依存症です。」と宣告をうけた。
でもそのときは,それがどういう病気で,どうすればいいのかもわからず,ただ「これで俺も終わりだな。仕事もきっと首になるんだろうな。」とすごく弱気になっていた。
「お酒止められますか。無理ならすぐに精神病院を紹介しますから入院しなさい。そうでないと,あなたはほんとに死んでしまいますよ。あなたはお酒がやめられない病気なんですから・・・・」と優しく諭されて,「入院ならここの病院に入れてください。」と哀願したが聞き入れてはもらえなかった。当たり前のことだ。この病院には私のカルテが残っているので以前からの無駄な繰り返しがきっちりと記録されているのだ。
ついに,私は先生の熱意に負けた。そして私は誓った。「今度ばかりは本当にお酒をやめることを誓います。そして自分がアルコール依存症であることを認めます。」と。
先生は,にこりとして,明日から毎日通院することと,ここの病院に近い専門の精神科の外来を受診するようにと私の生き方を教えてくれた。それから私は,椿医院という開業医に行き酒害と言う言葉を教えいただき,椿先生の紹介で断酒会に巡り会うのであった。
あれから,2年以上がたち,山田先生は堀川病院から奈良県の他の病院に変わられ,長らくのご無沙汰となっている。
いつも「医者は治療をするだけ。本当に病気を治すのは本人の力です。」と言っていた山田先生。 私にとっては,命の恩人であり,どうしようもない私に生きるすべを教えてくれた人である。
もし,あのときいつものように優しい患者の言いなりになる先生だったら・・・・・・きっと今も酒におぼれていただろう。いや,もうこの世にはいないかも知れない。
その後,何度も私は,先生のおかげで・・・と言う言葉を口にしたが,「それはあなた自身の努力の成果です。私の言うことが理解していただけたから断酒が続いているのです。なかなか,あなたのようにはゆきませんよ。だから,最初はこの人もきっとだめだと思ったから,強く突き放したのです。でもあなたは,分かってくれましたね。医者の喜びは患者の快復してゆく姿を見ることです。」というような返事が返ってきた。
あの日から,私は,名医とはどんな人をいうのかということがわかり,医者に対する価値観が変わった。
私にアルコール依存症を教え自分自身に気づかせててくれた,2人の先生に心から感謝するとともに,あの日のことを生涯忘れずに酒のない人生を過ごしていく努力を続けなければならないと改めて。
平成10年6月記

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断酒仲間の死
    最近私の近しい友人が3人もアルコール依存症と闘いながら(断酒継続して)自らの命を絶ってしまった。(いづれも自殺,30代と40代50代でみんな3人の子供を残して・・・・・・)
やっと酒が止められたら,これまで自分があまりにも馬鹿な生き方をしてきたことに気づき生きていることがむなしく思えて周りのことが見えなくなり死を選ぶと言うケースである。
そのうちの一人は,昨年(平成9年)の10月のこと。京都に身よりのない家族で,中学校2年生を筆頭に3人の子供を残しての死。ほんとに悲しい出来事であった。と同時に言葉にならない怒りを感じた。
飲んでいるときも人に迷惑をかけ,止めてもまた精神的に落ち込んで人生を捨てる・・・これが酒に溺れてさんざん家族を苦しめた者の選ぶ依存症典型の末路なのだ。
ひどく憔悴した奥さんと共に,警察の遺体安置所で変わり果てた姿を見たときには,涙も出ないくらいショックを受けた。妻と共にお通夜と葬儀の手伝いをさせてもらったが,なぜ誰にも彼の死を未然に防げなかったのかそれが残念でならない。 少なくとも私にはそのチャンスがあった。しかし,まさか突然死を選ぶなんて考えても見なかったし,考えたくもなかった。
現実に目の前で屍を見たとき,思わず「バカ野郎」と心の中で叫んでいた。
そりゃ,死んでしまえば自分は楽になるだろう,でも,それで物事が解決するのか。
生きていればこそ・・・・苦しくとも生きることの大切さ・・・・いま改めて,人の命の重みを感じさせられた。
誰だって死にたいときはあるし,死んだ方がうまくいくように思うことはある。
しかし,私は彼の死を通じて,死ぬことはたやすいことだが,絶対その道を選んではならないことを教えられた。
人は,つらくても,苦しくても生きる道を選花蹴ればならない
なぜなら,人間は自分に一人の力で生きているのでもないし,自分だけのために生きているのでもない。この世にせいを受け多時から自分は生きているのではなくて,生かされているのである。 私は,命ある限り生きる道を選びたい。
そして,少しでも私の声が酒の害に悩む人に届けばという思いで,へたくそなHPを, 少しずつグレードアップして世界に向けて情報発信をしていく所存である。

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貴方からのメールをお待ちしています。京都市中京区 高木 茂st0125@mbox.kyoto-inet.or.jp