秀吉は、あい続く戦乱により不分明となっていた洛中(京都)の境を、御土居の築造により新たに定めようとしたという伝え(後述)があり、御土居の内部を
洛中、外部を洛外と呼ぶことにしたという。
京都と諸国を結ぶ街道が御土居を横切る場所を「口」(「出入り口」の意)と呼んだ。現在でも鞍馬口、丹波口、粟田口、荒神口などの地名が残っている。『三
藐院記』によると御土居建造当時の口は10箇所であった。これら街道に繋がらない洛外への道は御土居によって閉塞され、例えば鴨川に架かっていた八坂神社に
通じる四条橋は撤去され、祇園祭の神輿渡御の経路も変更を余儀なくされた。また清水寺への参詣路に位置した五条大橋(現松原橋)も撤去され、東方への街道
があった六条坊門通(現五条通)の位置に新たに架橋された。
上記の地図に緑の帯が見えるが、これが御土居のラインで、加茂川中学付近と、大宮交通公園、玄琢下、鷹峯に当時の様子が見られます。
御土居追記
経営委員会の研修会に御土居研究の第一人者 中村武生氏を招き、貴重な写真を交え御土居堀について語って頂いた。台風が来て荒れた天気だったが、雨具を
装備し大宮御土居の中を散策。思った以上に堤の上は高く、市内が眺望できた。また先生自身も楽しみにされていた堀にわき水がある事も確認(雨も降っていた
がその部分の水深は深い)できた。地域の宝を生かすも殺すも地域の皆さんにかかっていると実感できました。(許可をいただき入らせて頂きました)
地図の右上にある賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、通称は上賀茂神社)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。賀茂御祖神社(下鴨神社 )とともに古代氏族 賀茂族を祀っている。葵祭でも有名な神社です。
8つの摂社(久我神社・太田神社 他)と16の末社をもつ。ユネスコ世界遺産に登録されている。
創建については諸説ある。社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たま
よりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である
賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られて
いる。国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進され
るなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。
延暦13年(794年)の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭と
された。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂別雷神社」として名神大社に列し、名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。
弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。明治の近代社格制度でも官幣大社の筆頭と
され、明治16年(1883年)には勅祭社に定められた。
観光客はもとより地元住民の憩いの場として、広い芝生の上でピクニックをしている家族も見受けられる。 上賀茂神社 LINK
新大宮商店街
新大宮商店街は新大宮通の北山から北大路までの約1㎞の間に180店舗が並ぶ京都市内で一番長い商店街。 町並みもコミュニティ道路が整備され、四季折々の
街路樹が楽しめる。大徳寺や今宮神社も近くにあり、散策にも好適。「新大宮POINT CARDふえるか」(ポイントカード)でポイントをためて、色々な商品と交換
したり、抽選会・イベントにも利用出来る。商店街事務所では、ポイントカードの受付やイベントも行っており、休息やトイレも利用出来る。
この新大宮商店街の数店の商店から、商栄企業組合が誕生した。母なる場所といえます。現在も当組合の組合員が数多く居られます。
船岡東通自体は、1960年以降の土地区画整理事業に基づいて造成された、比較的歴史の浅い道路である。