紫竹とは

  紫竹と言う名前の由来は、黒紫竹が覆い茂った土地とも、紫野の北の竹林からきたとも言われています。
  紫野は皇族の別荘や畑があったと言われ、古代の皇室や貴族が猟をする禁野(きんや)で、紫野とは接続していたらしいと書物に書かれている。
  
  ※1 紫竹一帯が区画整理をされたのが大正から昭和にかけて、現在の北山通りも50歳後半以上の方は今でも十二軒通りと呼ぶ人がいるが、
       畑の真ん中をひたすら走る道だった。区画整理された折に、幹線道路として十二間幅(約21.8m)で造られたため、地元では十二間通(じゅうにけん
      どおり)という愛称で呼ぶようになったといわれている。
 
  当組合の東にある大宮通は京都市の主要な南北の通りの1つ 平安京の大宮大路に当たる。大宮の由来だが組合から僅か東南に久我神社がある。
  由緒によると神武天皇が東征のおり八咫烏(やたがらす)に姿を代え道案内をした祭神が、後にこの地に居を定め開発と殖産興業に努め賀茂県主族の祖神と
  なったと記してある。山城の國風土記には大倭の葛木(葛城鴨神社)から山代の國の岡田の賀茂(岡田鴨神社)を経て久我の國の北の山基に居を定めたとあり、
  この地に賀茂族が定住した始まりを表すのではないか。 航空交通の守護とは八咫烏のいわれに因るものである。
  この神社は鎮祭当初から「大宮(おおみや)」と呼ばれ、その前を通る道を大宮通りと呼ぶようになったといわれている。 
  
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 御土居(おどい)は豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁である。外側の堀とあわせて御土居堀と呼ぶ場合もある。築造時の諸文献には「京廻堤」「新堤」
「洛中惣構え」などと記される。聚楽第、寺町、天正の地割とともに秀吉による京都改造事業の一つである。一部が京都市内に現存し、史跡に指定されている。
 御土居の囲む範囲は南北約8.5km、東西約3.5kmの縦長の形をしている。御土居は必ずしも直線状ではなく、特に西側では数箇所の凹凸がある。特に現在の北野
 中学校あたりにあった小さな凸部は「御土居の袖」と名付けられて謎の一つとなっている。全長は約22.5kmである。北端は北区紫竹の加茂川中学校付近、南端は
 南区の東寺の南、東端はほぼ現在の河原町、西端は中京区の山陰本線円町駅付近にあたる。また東部では鴨川(賀茂川)に、北西部では紙屋川に沿っており、こ
 れらが堀を兼ねていた。

 秀吉は、あい続く戦乱により不分明となっていた洛中(京都)の境を、御土居の築造により新たに定めようとしたという伝え(後述)があり、御土居の内部を
 洛中、外部を洛外と呼ぶことにしたという。

 京都と諸国を結ぶ街道が御土居を横切る場所を「口」(「出入り口」の意)と呼んだ。現在でも鞍馬口、丹波口、粟田口、荒神口などの地名が残っている。『三
 藐院記』によると御土居建造当時の口は10箇所であった。これら街道に繋がらない洛外への道は御土居によって閉塞され、例えば鴨川に架かっていた八坂神社に
 通じる四条橋は撤去され、祇園祭の神輿渡御の経路も変更を余儀なくされた。また清水寺への参詣路に位置した五条大橋(現松原橋)も撤去され、東方への街道
 があった六条坊門通(現五条通)の位置に新たに架橋された。
 
 上記の地図に緑の帯が見えるが、これが御土居のラインで、加茂川中学付近と、大宮交通公園、玄琢下、鷹峯に当時の様子が見られます。

 御土居追記

 経営委員会の研修会に御土居研究の第一人者 中村武生氏を招き、貴重な写真を交え御土居堀について語って頂いた。台風が来て荒れた天気だったが、雨具を
 装備し大宮御土居の中を散策。思った以上に堤の上は高く、市内が眺望できた。また先生自身も楽しみにされていた堀にわき水がある事も確認(雨も降っていた
 がその部分の水深は深い)できた。地域の宝を生かすも殺すも地域の皆さんにかかっていると実感できました。(許可をいただき入らせて頂きました)

 
 明治44年 尋常小学校の唱歌で「京の五条の橋の上 牛若丸と弁慶が〜」と歌われるようになり、五条大橋には大きなモニュメントがあるが、実はこの時代に
 五条大橋はなく、1本南の松原橋なのだが、紫竹には牛若丸誕生の井戸もあり、大徳寺近くの長谷川米穀店のお庭には、弁慶石なるものがあり、ここにも牛若丸
 と弁慶の出会いの話が伝わる。牛若丸の母 常盤は後に一条長成に嫁ぎ、常盤の住む屋敷が紫野築山町にあり、常盤が使ったという常槃井もそこに残っている。
 大徳寺の横に残る溝は有栖川の跡で、今は暗渠でなくなったが、旧大宮通を流れる有栖川には御浄の橋が架かっていて、その近くにこの弁慶石があったこと
 になる。鞍馬から京へ来るならここが道筋であり、母に会いに来てもおかしくない。それに松原橋対岸は、平家の拠点だった為 源氏の御曹司がわざわざ敵地まで
 出向いていたとは考えにくいのではないかともいわれています。
次回更新へ続く


 地図の右上にある賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、通称は上賀茂神社)。式内社名神大社)、山城国一宮二十二社(上七社)の一社。
 旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社。賀茂御祖神社(下鴨神社 )とともに古代氏族 賀茂族を祀っている。葵祭でも有名な神社です。
 8つの摂社(久我神社・太田神社 他)と16の末社をもつ。ユネスコ世界遺産に登録されている。

 創建については諸説ある。社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たま
 よりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である
 賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命下鴨神社に祀られて
 いる。国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進され
 るなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。

 延暦13年(794年)の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位神階を受け、賀茂祭は勅祭と
 された。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂別雷神社」として名神大社に列し、名神祭月次祭相嘗祭新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。
 弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。明治の近代社格制度でも官幣大社の筆頭と
 され、明治16年(1883年)には勅祭社に定められた。

 観光客はもとより地元住民の憩いの場として、広い芝生の上でピクニックをしている家族も見受けられる。 上賀茂神社 LINK


 
 新大宮商店街

 新大宮商店街は新大宮通の北山から北大路までの約1㎞の間に180店舗が並ぶ京都市内で一番長い商店街。 町並みもコミュニティ道路が整備され、四季折々の
 街路樹が楽しめる。大徳寺や今宮神社も近くにあり、散策にも好適。「新大宮POINT CARDふえるか」(ポイントカード)でポイントをためて、色々な商品と交換
 したり、抽選会・イベントにも利用出来る。商店街事務所では、ポイントカードの受付やイベントも行っており、休息やトイレも利用出来る。

 この新大宮商店街の数店の商店から、商栄企業組合が誕生した。母なる場所といえます。現在も当組合の組合員が数多く居られます。

新大宮商店街

 組合の西にある大宮交通公園は、昭和30年代から40年代にかけて周辺地域の区画整理を担った、「大宮区画整理組合」における土地区画整理上の公園用地と
 して確保されたものである。1962年(昭和37年)8月21日に、「都市計画大宮公園」の設置が決定され、京都市が施設設備に係る工事費用900万円を拠出して
 施工。1969年(昭和44年)5月5日のこどもの日に合わせて開園した。園内には整理組合による完成記念の石碑が残っている。当公園の一部が、かつて牧場で
 あり、後に大学の馬場だったことが分かっている。 また地図でもわかるように御土居が公園内を横切っていて、昔 だいこん山と呼ばれていた。
 現在もゴーカートにのる事ができる京都で唯一の交通公園として、子供たちの歓声が響いている。北消防署が公園の一部に移転が計画されている。
野街道

 組合の西、大宮交通公園に面した南北の通りを船岡東通りという。この名前は船岡山の東を通るので名付けられたが、京都の七野(洛北七野)の一つである上野
 を通ることから、上野街道とも呼ばれたり、旧家上野家に続く道だったため、上野街道と名付けられたとも言います。ただし、本来の上野街道は、南東から北西
 方向に延び、船岡東通と紫野上野町地内で×字交差している「上野通」であった。この道は明治以前より存在し、かつては大徳寺の北から、現在の玄琢下交差点
 まで、まっすぐに延びていました。

 船岡東通自体は、1960年以降の土地区画整理事業に基づいて造成された、比較的歴史の浅い道路である。



 旧大宮北山下ルに総神社がある。正式名は總神社天満宮。上賀茂神社境外三十八社の一つ。創祀の詳細は不明だが、白鳳年間に始まったといわれている。祭神は
 天照大神の御子天穂日命、八幡大神、天満大神、源義朝神霊の4柱。賀茂御読経所聖神寺の鎮守社として、社僧が学問向上を願って崇敬した。鎮座地の紫竹は源
 氏とのゆかりの深い土地で、源義朝の別邸があったとされており、義朝の妾、常磐御前が牛若丸をそこで出産したとも伝えられる。そのゆかりから、古図ではこ
 の周辺を「常磐の森」と記している。また、古来菅原氏が当社の宮守をしてきたことから「菅宿坊天神」と称し、菅原道真が筑紫へ左遷の際、巫女として奉仕し
 ていた叔母に別れを告げるために、当社に一泊したとも伝えられる。毎年4月第2日曜に行われる「やすらい祭」では、上野・川上とニ社のやすらいが、当社を
 参拝後今宮神社(紫野今宮町)へ参るのが習しとなっている。
総神社