主論文要旨 音楽の感情価と聴取者の感情的反応に関する認知心理学的研究 谷口 高士  本研究は、音楽のもつ感情的な側面を中心にして、音楽が人間生活にお いてどのような役割を果たすのかについて、認知心理学的に考察すること を目的に行った。まず第1章では、これまでの音楽の認知心理学の研究を 概観し、音楽理解のための認知的処理の基本的なはたらきについて検討す るとともに、音楽を聴くことで聴取者に生じる感情に対する認知心理学的 な検討が欠けていることを指摘した。これをふまえて、第2章から第4章 までは、(1)音楽によって喚起された感情が音楽以外の事象の認知に及ぼ す影響についてと、(2)音楽作品のもつ感情価と聴取者の多面的な感情状 態について、検討を行った。  本研究の構成は次の通りである。まず、第2章では、音楽による感情と 音楽以外の事象の認知との関係を検討した。第2章のTでは一般的な感情 と認知の関連についての研究展望、第2章のUでは音楽による感情と音楽 以外の事象の認知の関連について実験的な検討を行った。次に、第3章と 第4章では、音楽作品の感情価と聴取者の感情反応について検討した。第 3章は音楽作品の感情価測定尺度の作成と検討と、感情価や感情反応と音 楽作品に対する好き嫌いとの関連の検討、第4章は音楽作品の感情価の測 定と検討を行った。最後に、第5章では、研究の総括と、音楽の感情的側 面、ならびに、感情と認知の関わりについて、認知心理学的な観点から考 察を行った。  第1章では、まず、本研究のテーマとして音楽と感情の問題を取り上げ る理由について述べた上で、音楽がどのような機能をもつか、また、人間 の音楽行動にはどのような種類があるのかを整理した。  次に、音楽に関する認知心理学的な研究の概観を行った。第2節では、 はじめに、感情に関わる音楽的要因のひとつと考えられる協和・不協和の 問題についての研究の概観を行い、被験者の音楽的経験と協和の知覚との 関連について、情報処理的な視点から検討した。そして、刺激の属性にの み注目するのではなく、情報処理方略の観点から、音楽的要素の処理に関 する両耳分離聴法研究の成果を再検討した。第3節では、音楽の認知心理 学的研究の対象の中でも、最も作品としての音楽に近い、旋律の認知に関 する研究の概観を行った。ここでは特に、旋律の体制化、旋律の構造化、 音楽的表象の抽象化の問題を取り上げ、それらの研究の基本的な成果につ いて検討した。そして、音響と音楽の違いは何なのかについて、あらため て問い直し、要素的な研究に対する限界を指摘した。  最後に、以上の検討をふまえて、本研究の問題設定を行った。まず、音 楽の感情的側面について、音楽の意味という点から捉えなおした。そして、 音楽の感情的側面に対する認知心理学からのアプローチには2つあること を指摘した。本研究の目的は、音楽の感情的側面に対して、感情が人間生 活においてどのような役割を果たすのかという視点から考察することであ る。  第2章では、まずTで、一般的に気分が認知過程にどのように影響する かについて、研究の概観を行った。気分状態依存効果(mood state dependent effects)と気分一致効果(mood congruent effects)の2つの気分効果が仮定 されており、その仮定をもとに多くの研究では再生、再認、反応時間、解 釈などにおける気分の影響を検証してきた。記憶研究では、なぜ我々が今 現在の気分に関連した特定の出来事や言葉を再生したり再認したりするの かについての議論がなされている。また、認知に対する気分効果を検証す るためには、気分誘導と個人差のいずれに基づくかによって、2つの研究 アプローチが取られている。しかし、これまでに得られた知見に関して、2 つの疑問がある。第1に、個人差アプローチにおいて認知に影響を与える のは、状態としての気分なのか人格特性なのか。第2に、気分誘導アプロ ーチにおいて認知に影響を与えるのは、気分それ自体なのか要求特性なの かである。これらの問題に関して、気分と認知に関わる研究の方法論上の 問題を指摘し、言語的気分誘導に比べ、音楽的気分誘導法のような非言語 的誘導法がより望ましいことを提起した。  次にUでは、性格形容語の認知における気分一致効果を調べるため、音 楽を用いて2つの実験を行った。いずれの実験でも、高揚気分と抑鬱気分 を誘導するために明るい音楽と暗い音楽を聴かせたが、各被験者を明音楽 条件と暗音楽条件のいずれか一方だけに配置した。第1実験では、ポジテ ィブな性格形容語、ネガティブな性格形容語、および、非単語を音楽と共 に提示し、非単語を除く単語の偶発再生に対する影響を調べた。被験者は 31名で、提示された語がポジティブかネガティブかを、できるだけ速くか つ正確に判断するよう求めた。第2実験では、37名の被験者に対して曖昧 な性格形容語を提示した。そして、曖昧な刺激の解釈が音楽によって変化 するかどうかを調べるため、各被験者に音楽なしの条件と音楽有りの条件 の両条件のもとで判断を行わせた。2つの実験の結果、再生、解釈、反応 時間に対する気分一致効果が得られた。特に再生に関しては、気分効果に 関する先行研究と一致することが明らかとなった。これらのことから、音 楽はある気分を誘導し、その気分が他の刺激の認知過程に影響を与えるこ とが示唆された。  第3章は、音楽作品の感情価を測定するための尺度の作成と、感情価と 被験者の多面的な感情状態との関連を調べることを目的に行った。なお、 「感情価」という言葉は、本研究では感情の質と強度を表すものと定義し ている。まず予備調査として、209名の女子短期大学生を被験者として、5 つの音楽作品について、音楽の感情的性格に関する50の形容詞を5段階で 評定させた。因子分析によって主要な5因子を抽出し、それらの因子に負 荷が高かった24項目を選び、音楽作品の感情価測定尺度(AVSM)を構成し た。次に本調査として、予備調査とは別の226名の女子学生を被験者とし て、予備調査と同じ5曲について、AVSMと多面的感情状態尺度(MMS; 寺崎他, 1991)の両方に回答させた。因子分析によってAVSMの因子的妥 当性が示され、また、Cronbachのα係数からAVSMの下位尺度がそれぞれ 高い内的整合性をもつことが示された。また、主成分分析や尺度間相関の 分析によって、AVSMとMMSの下位尺度の間には有意義な関係があるこ とが認められた。なお、本調査とは別の38人の女子学生を用いて、2週間 の間隔をおいて同一音楽作品に対して繰り返し評定を行わせ、この結果か らAVSMの再検査信頼性が確認された。  また、第4節では、第3節の本調査のデータに基づいて、音楽作品に対 する被験者の好き嫌いが、その作品の感情的性格の認知、および、被験者 自身の感情状態とどのように関係するかを検討した。ここでは、曲の好き 嫌いの評定に基づいて、その作品に対して好意的な評価を与えた被験者と、 否定的な評価を与えた被験者に分類した。そして、この2群の間で、作品 ごとに感情価や感情状態の違いがあるかどうかを比較した。その結果、あ る作品が好きな場合には相対的に肯定的な感情価ならびに快感情状態とな り、嫌いな場合には逆に否定的な感情価ならびに不快感情状態となること が示唆された。  第4章では、音楽作品の感情的性格を聴取者がどのように認知するかの 指標となる、音楽作品の感情価のリストを作成することを目的とした。そ のために、第2章で作成した音楽作品の感情価測定尺度(AVSM)を用い、同 一被験者に対して1回に5曲、1週間以上の間隔をおいて、18回にわたっ て調査を繰り返した。この結果、合計90曲について、高揚、親和、強さ、 軽さ、荘重の5つの感情価が得られた。また、同じ被験者に対して、音楽 作品聴取後の感情状態も測定した。これらの資料によって、気分誘導実験 などで、特定の感情価をもった音楽作品を容易に選択することができる。 あらかじめ、その作品がどのような気分誘導効果をもたらすかを推測する こともある程度は可能である。本章ではまた、作成されたリストの有用性 を検討するために、実際に選曲を行って被験者に提示し、気分誘導効果を 確認した。今後の課題としては、感情価を測定する作品をさらに増やすこ と、ならびに、個人内での感情価と感情状態の関連をより詳細に検討する ことなどがあげられた。  第5章では、まず第1節で、第1章から第4章までの総括を行った。  次に、本研究の結果に基づいて、第2節では音楽作品の感情価、第3節 では音楽聴取による感情の影響、第4節では感情と情報処理についての考 察を行った。第2節では、音楽作品の感情価測定に関する考察と、感情が 認知に及ぼす影響に関する考察を行った。感情価の測定については、いく つかの制約を指摘しつつも、作成された感情価リストの有用性と、作品聴 取後の被験者の感情状態の推測の可能性をあげた。第3節では、本研究の 実験結果をもとに、音楽が、単に感情的表象を形成させるだけではなく、 実際的なはたらきとして、外界に対する認識、思考、行動に対して影響を 与えている可能性を示唆した。また、音楽の影響の否定的な面や、音楽に よる感情における聴取者の要因にもふれ、それらも併せて研究対象として 考慮すべきであることを指摘した。第4節では、認知−感情研究のこれま での方法と今後の検討課題などをまとめなおし、気分誘導手続きとして非 言語的手段の積極的な利用と、被験者の反応の質的な分析の必要性につい て論じた。最後に、既成の仮説だけでは説明できない現象に対応するため に、感情の影響の調整を行うスキーマとネットワークの活性化拡散とを統 合した、新たな仮説について論じた。