いま考えていること 157(2003年12月)
――2人の外交官の死――

昨日一日、二人の外交官の死のニュースで明け暮れました。曰く「小泉首相は30日午後、イラクでの日本人外交官殺害を受けて記者団の質問に答え、イラクへの自衛隊派遣について『国際社会の一員としてテロに屈してはならない。イラクの人道支援、復興支援に責任を果たすことに変わりはない。今までも日本政府は復興支援、人道支援に自衛隊、文民、政府職員がやるべきことをやると表明している。その姿勢に変わりはない』と述べ、派遣の方針に変わりがないとの考えを強調した。

「自民党の安倍晋三幹事長は30日正午ごろ、東京都渋谷区内の自宅前で報道陣に対し『自衛隊のイラク派遣については今まで通り。テロに決して屈しないという我々の意思が変わることはない』と語った」

「外相はパウエル長官に謝意を述べたうえで『イラクの復興支援及びテロとの戦いに積極的に取り組むとの我が国の基本方針が揺らぐことはない』」と言明した。

現在のイラクの状況下で、仮定のことですが、ブッシュ氏やブレア氏さらに小泉氏が訪問中にこの様な事件に遭遇されてもかなりの人がそういうこともあり得るケースと受け取るのではないでしょうか。二人の忠実な外交官の死であったから私をはじめ多くの人たちが「気の毒に」と受け止めているのです。しかし多少の距離を置いて。イラクの問題は現状直接私と関わりのある事件ではありませんから。心の底に引っかかるのはブッシュ氏がイラクに攻撃を掛けたのは正当だったのかという疑念があるからです。ブッシュ氏は誇らしげに戦闘の終結を宣言しましたが、あの異常なアメリカ軍のバクダッドまでの進撃の早さと忽然と消えたイラク軍の影、誰もが簡単に勝利を信ずるには疑問を持ちました。かってのベトナム戦争の思い出が頭をもたげたのでした。アメリカ市民でさえ次第にテロという表現は影を薄め、ゲリラ・レジスタンスという掴み方が出てきているというのです。先の敗戦ことに原爆によって瞬間に30万人の平和な市民の悲惨な死に直面した日本人は、もう二度と戦争による死を味わうまいと軍備を持たない平和憲法に未来の明るさを感じたのです。(冷静に考えれば、原爆の使用に勝るテロはないでしょう)。 首相、外相、幹事長のような声が聞こえることを永久に否定したのです。この人達はブッシュの開戦以来舞い上がってしまっています。一般の国民はもっと冷静なのではないでしょうか。ずれを感じます。しかも次第にこのギャップは大きくなってきています。いくらお金の面で有力だと言っても世論の前に来年のブッシュ再選は確度を下げつつあります。

もう一つこの外交官の死で思い出されてくるのは大戦中ユダヤ人難民にビザを発行した杉原千畝外交官のことです(*)。今回の二人の外交官はおそらく忠実な官僚で、また自分もブッシュ一辺倒のわが国外交に疑念を個人としても懐かれなかった方であったのでしょうから、いわば自分の哲学に殉じられたのであり、良い死に場を得られたのかも知れません。杉原氏の場合は国策に合わないが、自分の哲学を持って行動されました。官僚といえども単なる行政官として国策の忠実な遂行者であるだけでなく、自分の哲学を持って行動できる余地はあるのです。私の学んだ第三高等学校では理科の我々にも先輩達はいつも「denken(思考せよ)」「denken」と迫ってきたものです。思考するとは自分の考え−−哲学を持つということです。人間は自分の哲学を持たなくてはなりません。二人の外交官が単なる外交技術屋さんだったらロボットのようなものですが、そうではなくてdenken の末にイラクでの活動に情熱を傾けておられたのなら、その人個人にとっては良い死に場所だったと言うのです。わたしはイラク戦について全く異なった見解を持つので、起こるべくして起こった事件で腹の底から気の毒だとは思わないのです。

(*)リトアニアのカウナス日本領事杉原は、日本政府に差し止められたにもかかわらず、悩んだ末に六千枚もの手書きの日本通過ビザを出して、ナチに追われたユダヤ人の出国を可能にした。帰国後、外務省を追われた。岐阜県八百津町には杉原千畝記念館があり、彼の肉声「あの立場に置かれたら誰でもそうしたと思いますよ」が聴かれる。

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いま考えていること 158(2003年12月)
――お金よりも信頼への目配りを――

少子高齢化社会の到来を目前にして、年金論議が盛んです。年金の二分の一を国が負担するという国会の付帯決議があるにもかかわらず、財源の窮迫を理由にその実行は棚上げになっています。しかし国会での議決さえ守れないというのでは、政治の将来に対して国民の信頼は揺らぎ、年金の将来について国がどのような説明をしても疑いは増すばかりで、若い人たちの国民年金ばなれを改善することは出来ないでしょう。年金だけではありません。政治のすべてについて誰も信用しなくなるでしょう。「信」に価値を置くなら国債を追加発行してでも、まず年金の二分の一負担をば即時実現することが大切で、そうでなければ信頼を回復させることは出来ません。來年は年金の物価スライド制に従って年金給付額の0.2〜0.4%引き下げが実施されますが、将来物価上昇が起こったときにスライド制が働いて年金もスライド上昇して不安をなくしてくれると考えるからこそ、この引き下げも受け入れる気になるのです。国の負担を二分の一に引き上げないようなことでは、今回の国庫負担の回避と同様に財源不足を理由に物価が上昇したときも、年金給付の増額を見送るような事態にならないかという不安をかき立てるのです。少なくとも国会で議決したことは決断を持って実現してほしいものです。今朝の新聞は2005年1月から公的年金の控除最低額を140万円から120万円に引き下げることと老年者控除50万円の廃止、65歳以上に適用されてきた優遇措置も廃止すると報じました。これで約2,400億円が税収増となる見込みで、これを国庫負担増財源の一部に当てるといいます。私もかなりの増税を覚悟しなければならないのですが、本当に国庫負担増の実現をするために止むを得ないものなら引き受けるにやぶさかでありません。
要は約束したことは確実に実現することを守ってくれないといよいよ政治に対する不安が増すといいたいのです。国際法にもとるアメリカの先制攻撃で始まったイラク戦争ですから、アメリカをサポートするイラク派兵は反対ですが、せめて国会で決められた「非戦闘地域での活動」の約束だけは必ず守ってもらわないと、すべてにわたり、政府を信用できなくなります。

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いま考えていること 159(2003年12月)
――フセイン大統領の拘束に思う――

今夜のテレビはイラクのフセイン大統領の拘束報道に湧いています。暴君フセイン大統領の拘束は彼のこれまでの行跡を考えるとき、人類の歴史にとってその裁きの道への朗報であることは間違いありません。ただ現在問題の中心になっているイラクでのアメリカに対するテロというか、ゲリラ攻撃というか、レジスタンスという立場で考えると、逮捕された状況があまりにもみすぼらしすぎると思うのです。現在のイラク国内のアメリカへの抵抗運動はフセイン大統領が究極的に指揮しているのであろうと思っていたのですが、今日の逮捕された状況はあまりにも劣悪過ぎます。私の想像があるいは誤っているのかも知れないという恐れを持ちながら、この感想を記しているのですが、フセインはもはや彼の勢力からも見放されていたのではありますまいか?トイレもままならない環境での逮捕はかっての彼の栄光からみてもあまりにも哀れすぎます。27億円の報奨金での売り渡しさえ想像されます。そういう見放されがあったとすると、アメリカ軍司令官の発表に喜びの歓声を挙げる人々の姿を見ていても、そんなに喜ぶべき成果なのだろうかという思いがするのです。状況はフセインの逮捕が起こりうるステージにあったことを物語り、既にフセインは彼の陣営からさえも見放されていて、イラクをアメリカから開放しようとする彼から独立した別の新しい指導部の存在確率の高さをむしろ物語る証しではないかというのが私の感想です。だとすれば、イラクの情勢が沈静することはやはり期待できないのではないでしょうか?

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いま考えていること 160(2004年01月)
――年頭の夢――

資金面では圧倒的な優位を語られる共和党ですが、大統領選挙ではなんとか今年、ブッシュの落選が現実化してほしいと夢見ます。ブッシュ氏にはヴィールスのような危険な所があります。イラク問題以来人々の考えにまで伝播し影響を及ぼしている危険です。ブッシュの思想とは国際法を無視しても自分のわがままな考えを押し通し、あまつさえ先制攻撃さえ仕掛ける思想です。ブッシュの対極にあるのは、違った思想を持つ人々とも共存していこうという考え、話し合って平和の内に解決を図るという考えですが、それを圧殺しようとする風潮を生み出している元凶はブッシュ氏だと思います。元々そういう素質を持っているブレアさんや小泉さんなど既にブッシュ・ヴィールスに感染している一国の指導者も目につきます。感染しているからこそ相変わらず被害者だった中国・アジアの人たちの苦痛に思いを馳せられずに、臆面もなくたくさん神社はあるのに、選るにも事欠いて靖国神社に参拝し、少子高齢の時代を目前にして日本国民にとっても死活の問題でもある、アジアとの平和な協力の中で経済的にも発展する機会を小泉氏は自分の「我」を通すことによって破壊してしまっているのです。国民全体の利には到底叶わない決断でした。悪の思想の根源ブッシュ氏の当落は最大の関心です。

平壌での和解を唄い上げた直後に拉致被害者の帰国に伴う約束を、まず破ったのは日本政府でした(*)。北朝鮮の拉致は、けしからぬことでその決着は付けなければなりませんが、帰国された五人の人以外にも多くの拉致被害者がおられるようですから、その人達のことも含めて問題を全面的に解明するには両国政府の友好的信頼は欠かせません。その雰囲気を修復不能な状態にしてしまったのは、日本政府の独りよがりな約束違反でした。政府の外交に対する自信の無さの表現でもありました。一端、北朝鮮に約束した以上、五人の人たちを返して、改めて拉致問題の解明が両国政府によって進められていたならば、少なくともあの五人の人たちが遠い昔に亡くなって返せないというような虚報は北朝鮮も今更出せず、問題解明の話し合いの進展によっては家族ぐるみの帰国も既に実現していたかも知れません。今年の年賀状にはまた日本は昔に帰るのでしょうかという疑問を添え書きしてこられたものがいくつか見られました。「イラクは日本の生命線だから出兵する」という自民党の一部の声も新聞紙面に見られるようになってくると、「日本の生命線は半島だ」からといって朝鮮を併合した悪夢、満州国をでっち上げた悪夢を思い起こさずにはおれません。

お正月には初詣客を迎えるために相変わらずの商売気たっぷりの神社の応対が見られるのですが、私の関心を引いたのはどこの神社も例の菊の紋をあしらった一律の幔幕や提灯を飾っていることです。私の家の近くには建勳神社があり、織田信長が祀られているのですが、ここも菊の紋の提灯でした。何故織田家の紋章を掲げずに皇室を連想させる菊の紋を掲げるのでしょうか。やはり忠君思想の表現なのでしょうか。神社が皇室の付属物である表現なのでしょうか。それではいつまで経っても純粋な宗教としての立場は得られず、いずれは衰退廃棄の時代を迎えるでしょう。つまらぬ神社が多すぎます。靖国神社を考えるとき、ほかの神社についてもこのような想いが出てきます。

将来の年金問題も暗澹たる状況です。何といっても少子時代で年金制度を支える基盤が既に崩壊しています。いくら政府が現役時代の半額を給付するといってもその基盤はありません。40兆円の赤字予算から過去の国債の償還に17兆円を当てなければならない状況を見れば、消費税を30%・40%に引き上げ、その増税黒字分で年金の基盤を作るなら納得しますが、現状の政府プランは信じることは出来ません。何といっても国民の減少は致命的で予算全般の縮小しか道はありません。どうです。思い切って子供3人以上を抱える世帯には所得税をゼロにすることを実施しませんか。そうでもしないとこの少子の流れは止められません。昔は年金など無かったこの国では子供に老後の生活は託していました。子供のない人はそれなりに老後のために資産を蓄えていたものです。例えば金のインゴットを床下に寝かせていた人は、このあたりでもかなりありました。昭和22年の民法改定で、もはや自分の子供に老後は託せなくなっているのが現状で、そこで介護の問題も老後の生活も「みんな」の手に委ねられたのですが、その「みんな」が減る状態ではどうしようも無いのです。「みんな」を増やさないと昔のように老後を家族に依存する生活に戻るのかも知れません。ともかくこの少子化の流れが止まらない限りは介護制度も年金制度も維持は困難です。今のままでは少子化の流れは止められず、政府の言葉にかかわらず現行年金制度は崩壊せざるを得ません。少子化は、現役が老人を支えるという現代の通念を根底から否定してしまいます。国の政策を無視して自分の老後の生活設計をどのように立てるか若い人にも真剣に考えなければならない時期に来ました。床下に金塊を蓄えなければならないのかも知れません。これが政府による言葉の裏を読まなければならないことを骨身にしみて経験し続けて来た世代の人間からのアドバイスです。浮かれてはおられません。民主政治下の政府の言明にはいつも選挙を意識した希望というデコレーションが施されており、そのまま鵜呑みすることは後で自分の愚かさを嘆くことになるのです。賢明に自分で考え、生きましょう。公明党は年金資産140兆円を取り崩して100年間年金制度を維持するといいますが、140兆円が財務省なり厚労省の金庫に眠っているわけはなく、株式運用なり財投なりに回されていて、おそらくかなりの部分が不良資産化していると思われますから、この公明党提案も「選挙を意識した空手形」の感があります。

(*)民主党原口一博議員の質問に川口外相は「5人の被害者が帰国した折に、1,2週間程度の日程にすることを調整した経緯はある」と説明した。議連関係者が2004年1月13日明らかにした(毎日新聞14日朝刊)。

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いま考えていること 161(2004年01月)
――誕生日を迎えて――

通常世間では75歳を迎えると正真正銘の老人ということになっています。この地域でも老人の日のプレゼントは75歳以上の老人を対象にしています。これまではその資金を寄付してきましたが、もらう立場の人間が寄付したのでは意味がありませんから、今年からは寄付を止めて貰う立場に回るつもりです。それやこれやで今日の私の誕生日はいつもと違った感じがあります。

今一番考えていることは、感受性を曇らさないためにはどうすればよいかということです。今までいろいろ美しい物も見てきたので、次第に美しい物に出会っても平凡に見えて、若いときのように感激が湧かなくなっています。音楽もかなり聴き慣れた物があり、改めて聴いてもメロディーが頭の中にどんどん浮かんでくるものですから、それが邪魔して新鮮な感動が湧きにくくなってきています。眼の方も近頃はどうも白内障が進んできているようで、活字を追うのがやや苦痛で、テレビの画面もぼやけて見えます。いずれは手術をしなければならないのでしょうが、先日もラジオの健康相談を聴いていたら、「自分がしようという気になられたら手術をすればよろしい」と、余り積極的に手術を進められる風でもなかったので、まだ手術をする気になっていないのです。こういうわけで長時間の読書は怠りがちですから、読書から感激を伴う受け止めの機会も減ってきています。"退職後は「人貧乏」しないように”と言う言葉も記憶にあるのですが、どうやら「感受性貧乏」が進んでいるように思います。生きている以上触れあうものに新鮮な感動を抱けることは、若さの証明でもあるように思うので、失いたくないのです。答はやはり「虚心」であることを意識しつつ美しいものに接する機会を持つことに怠惰でないことなのでしょうか?

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いま考えていること 162(2004年01月)
――京都の未来をどう設計するか。京都の皆さんに捧げます――

明日はいよいよ2月8日の京都市長選挙の告示日です。この選挙で京都のあり方についてよく考え、未来への設計図を引き直してほしいというのが私の気持ちです。

言うまでもなく京都にはほかの街にない長い歴史が生み出した風格があります。交通が発達し情報が簡単に流通する時代になって、人々の服装や家の造りまで全国的に平準化が進んで特徴がなくなってきたのですが、人々が求めているのは、決して画一化ではないと思うのです。私の若い時に友人が訪ねてくると大徳寺の塔頭へよく案内したものです。お寺の方丈の縁先に腰掛けて静かに庭を眺めていると、時間がまるでストップしたようで、日常大阪あたりで生活し、働いている友人はホッとすると言ってくれるものですから、多くの友人を自宅より大徳寺へ案内したのです。この重厚な雰囲気はそう簡単に、よその地では味わえないもので、京都の歴史だけが醸し出せるものでしょう。私の母の故郷は滋賀県の湖北ですが、子供の頃夏休みには長い期間過ごしました。その時土地の人からはよく「京」という言葉が遙かな憧憬の気持ちを込めて聴かれたものです。今はもう1時間ほど湖西線に乗れば訪ねられますからまぢかい土地になりましたが、当時は太湖汽船で浜大津から6時間もかかって知内の港に着き、それからまた長い道を歩いてやっと母の実家についた遙かな土地でした。「京」という言葉には「都」という気持ち、人々のあこがれの「気品の都」の気持ちが子供心にも感じられたものです。
  若い頃日本各地を旅行もしましたが、当時はその土地が京都に準するものを備えていると言うことが、土地の人の自慢でありました。日本の各地に「小京都」を称するものがあることは周知のことで、例えば山口に行っても、仙台の瑞巌寺を訪ねてもそういう具合でした。あるいはまた藤原三代の平泉を訪ねても藤原氏がどんなに京都の文化に近いものの模倣をその土地で意図していたかがわかります。

日本人片山東熊の設計によるとはいえ迎賓館赤坂離宮はベルサイユ宮殿風でフランス調ですから、日本の迎賓館としてはふさわしくありません。和風迎賓館の構想が生まれたのは当然だと思います。建設地を京都御所にしたので反対意見も強かったのですが、やはり作るなら京都でしょう。おそらく内部の調度も建築も日本の伝統的な手法を使っているのでしょうから、今後調度や建築・庭園を維持していこうとすれば、スタッフが揃っているのは京都ですから、妥当な判断だと思います。京都の伝統的技術手法を長く維持して行く上でも、京都の寺社と共に貢献して行くことでしょう。
それにしても街路工事はもう少し計画的総合的にやれないものでしょうか。千本通りの歩道は少し前の年にきれいな色タイルで舗装されて美しくなりましたが、先頃これをはがして下水工事か何かが施行され、工事後の現在は凸凹の多いアスファルト舗装がほどこされて老人には歩きにくく、見た目も汚らしくタイル舗装の残骸が無念の姿を留めています。。あの美しいタイル舗装をする前に下水工事などは終わっておくべきで縦割りの行政が予算執行のためだけにある年度、タイル舗装を施行し、結果的には壮大な予算の浪費をしたとしか思えません。

京都の旧市内でこの世界の人々あこがれの街「京都」を自ら壊すようなことをしては自ら自分の未来での存在理由を否定しているとしか言いようがありません。一端壊せば回復は出来ないのです。既にかなり京都にはふさわしくない高層化が進められ、市内から東山三十六峰を眺められるのはわずかに賀茂街道の一部からだけになっています。頑固なまでに京都だけに残っているものを守り人々に提供しないと京都に未来はありません。今年はNHK大河ドラマも“新撰組”で人々の関心も京都に向いており、戦火を免れて生き残ってきた町家への関心、NHK人間万歳で登場された山口さんご兄弟に見られるような京都だけが保持している伝統工芸技術への関心も高くなってきています。京都の未来にどういう設計図が提示されているかを基準に候補者を吟味し、自分でもまたこの機会に自らの未来への設計図を自問自答して新しい市長を選びたいと思っています。未来への選択の、最後の機会になるかも知れません。

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