いま考えていること 28 (1999年06月)
―― 少子化対策――

NHKの少子化問題の特集を見ていると、家族主義の崩壊した現在の若い人 達は老後を子供に見てもらうため、あるいは家業を継いでもらうためという 戦前は当たり前であった子供の必要性は全く感じていないことがわかります。若い母親は自分の生きがい として仕事を続け、伸ばし、現在の豊かさを維持し続けるには子供は最大の障害だと考えていますから、 少子化には歯止めがありません。ではどうするか?個人 レベルで、個人の枠の中ではこの若い人達の論理も頷けます。子育てはお金が掛かります。育てて も自分たちが将来扶養してもらうというような夢はありません。困るのは年金制度 をはじめ、労働力、自衛力等まさに国家的レベルで衰退していくことにあります。 若い人達は自分たちの生活レベル、お金のこととして少子化を進めてい るのですから、これに対抗しようとすれば子供を持つ人に国家は手厚く経済的 に有利になるようにしないと駄目でしょう。児童手当、保育所の充実など子供だけ 少々優遇しても駄目なのです。例えば子供を産んだ夫婦に老後の年金を増額する、介護手当掛け金を減額する、医療費負担を半減す る、子供に対する税金控除額を大幅に増額するなど親に全般的な有利さを実感させないと効果はでないでしょう。これらは一見不平等に見えるかも知れませんが、人口減少は国家レベルでの問題ですから、国家的レベルで 子供のある夫婦に報いるというのは間違ってはいません。このような優遇策に目もくれず、経済的に不利になっても、子供を作らないで自分自身の幸福を追求するというのであれば、それはそれで個性的で良いではありませんか。嘗ての戦時中のように スローガンだけ国の危機を訴え、「生めよ増やせよ」といって出来た子供を陛下の赤子(セキシと読みました)として 兵士や産業戦士にした手法はもはや通じません。国の人口を減らさないためには、ドライに子供を持てば経済的に 有利になる政策が必要だと思います。

とはいえ、若い人に一言。まるで王侯貴族の子供のように一人の子どもを好き放題に大事に育て、もう一人子供が出来ても経済的にもまた心入れの点でも、そのようには育てられないので子供は一人にするという夫婦が多いことも知りましたが、これも本当に子供のことを思ってのことでしょうか。否、自分の理想を子供に投影しているのに過ぎないのであれば、それはナルシストの行動に過ぎません。このような両親に育てられた子供達がそのまま大きくなったとき、生来の素質がそれに伴わないと、悲惨な状態に追いやられると思います。さらに悪いことに他人に対する温かい思いやりを欠いた、社会性のない自分本位の人間になるかも知れません。それは親自身がそういう鋳型の中で生活しているのを自然に見習っていくからです。私も教師生活を永年してきましたが、幼児期以来すべての不始末を親にしてもらってきた子供が、後年親が亡くなったり親がそうする力を経済的に失ったとき、途方に暮れ、虚飾を捨てられず、悲惨な道を辿った例を経験しています。子供の責任というよりは親の考え方の誤りが原因なのです。子供自身はむしろその被害者でかわいそうでした。学級崩壊現象に早くもその兆候が見られます。

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いま考えていること 29(1999年07月)
――「日本経済は復活する」を読んで――

この本は長谷川慶太郎さんの本です。1999年5月20日初版発行と書いてあります。長谷川さんは前にテレビの「サンデープロジェクト」で見たときも、他の経済評論家とは少し違った意見を言っておられて、しかも自信たっぷりといった風でした。少し異端めいてはいるのですが、面白い人だと思っているので、この本を買ってきました。多少記述に誤りが見られ、例えば「通産省の金属材料基礎研究所」と書いてあるのですが、これは「科学技術庁の金属材料技術研究所」と思われる等々です。

阪大工学部の出身という点も異色ですが、それだけにデータを引きながらの議論展開ですから説得力があります。現在不振な日本の鉄鋼業界が、好調といわれるアメリカの鉄工業を傘下に収めているという指摘は私にとって真新しい知識でした。その他日本の技術は世界に冠たるものが多く、アメリカでアイデアが生まれてもそれを施工する技術は日本にしかないということも多いようです。1996年にはすべての国に対して日本の特許料受取額は支払額を上回るようになったということも、今まで私が持っていた知識を覆してくれました。あるいはまた、日本企業の省エネルギー・環境対策も世界をリードするレベルにあり、21世紀を前にこの分野でも日本は世界のモデルであるというのです。もう一つ挙げましょう。鉄鋼生産の高炉で使われている技術の基本特許は旧ソ連で生まれたのですが、それを広範に実用化したのは日本であり、企業間の競争の必要のなかったソ連では高い特許技術も生産では実らなかったのです。

21世紀の経済活動は地球環境保全を無視できないけれども、この点でも日本は先進的であるようです。先のソ連の例が教えるように今日本に必要なのは、この高い技術力を活かすために制度の革命的な構築の仕直しであり、それに成功すれば日本は21世紀にも2〜4%の経済成長が出来る国だということになります。政治制度上での改革に「政優位・官従属」の体制ということで長谷川さんが大きい意味を見ているのは自自連立に伴う「合意文書」です。選挙で少数派であった自由党が自自連立という形でその政策を実現していくのにはやりきれない気持ちですが、長谷川さんの見方もうなずけるのです。企業の国際的な合併や連携が普通になってきた今日、企業の会計基準の変更も避けられません。その衝撃はたいへんなものと思われます。

長谷川さんの言いたいことは技術的には日本は優秀なものを持っているのだから、これを活かすような政治をはじめとした制度面での改革が行われたら日本経済は復活すると言うことでしょう。長谷川さんの指摘される改革の必要性・必然性はかねがね私も考えていることですからほぼ同意できます。 ただ、今朝ラジオで水谷研二さんのビジネス展望を聴いたところ、アメリカの国内経常収支は黒字に転じていますが、国際収支は極めて悪くなっていて、いずれは大変なことになりかねないと言う話でした。実際アメリカの経済の破綻が来た場合には世界的な恐慌も起こりかねず、日本経済復活の夢も吹っ飛んでしまうだろうとも考えています。いやその内にG7でアフリカの債務超過国の債務を免除したように、国として日本はアメリカの債務を免除するような処置が恐慌回避のために話題に上ってくるのかも知れません。その時民間でも現在日本で売られている投資信託のうちアメリカの会社の株式や債券を組み込んだものは、大幅な暴落という形で支援するのかも知れません。グローバル化と共に国家間に見られる国際収支のアンバランスも平等化される(leveling)方向に動くのが必然的な成り行きなのかなとも考えています。

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いま考えていること 30(1999年07月;9月;10月;2000年02月;12月)
――原爆記念日と終戦記念日を前にして――

私がこの人生で出会った大きい変化は何かと言われると、ひとつはテレビです。小学生の時に読んだ「子供の科学」という雑誌の折り込みグラビアにテレビのことがでていたのです。そんなことが出来るのかと思って読んだものです。それが今ではごく当然の家庭での情報端末になっているのです。ハイビジョン放送が一般化されてきて飛躍的に画面は美しくなりました。これがディジタル化され、データをパソコンで取り込める時代も間近でしょう。乗り物も、終戦後、学校に通うのは超満員の市電でした。ぶら下がるようにやっと乗り、それでも乗り残しに会うこともたびたびでした。その頃街には自動車の姿などほとんどなく、アメリカではみんなが自家用車で行き来している事実がまるで夢のように遠い出来事でした。何時になったら日本もそういう国になるのだろう、そう思っていました。それが今では日本でも自動車の洪水で、その公害が問題になるのです。最近はまた結核のことが話題になってきましたが、小学生の時に結核に罹ってから戦争が終わって、パス、ヒドラジッド、ストレプトマイシンが入ってくるまでは根治せず、困りました。多くの友達もバタバタと亡くなって行ったものです。結核の克服は平均寿命が飛躍的に延びた原因の一つでもあります。

ここ十五年ほどの変化としてもっとも大きいのはコンピューターの登場と普及・改良です。宇宙への旅もこのコンピューターの登場と進歩があってロケットの軌道修正が即時に出来るようになり初めて可能になったのです。戦争の技術への寄与はないわけでなく、独逸に於けるテープレコーダーの発明を始め、現在のインターネットというシステムもそうであることを否定はしません。かっては優秀なカメラといえばツアイス、レンズはテッサであったのが「日本製も優秀だ」と変わったのは戦時中の光学研究者達が戦争中の研究の成果をもとに敗戦時の失業から立ち直るために始めた事業でした。しかし、やはり日本での家庭電気製品の華々しい発展は「平和」の産物です。家庭生活を犠牲にしてすべてを戦争にという体制ではこういう発展は望むべくもなく、更に軍事機密ということで自由な批判・交流や研究成果の発表も許されない社会では起こり得ない科学・技術の進歩だと思います。家庭電気製品だけでなく、各分野で見られる日本製品の優秀性はこういう今日の日本の、自由の条件の中で生まれることができたのです。

ところでもし私にこれまでの何千年の歴史のなかで最高の発明は何かと聴かれたら、何と答えると思われますか?

私の答えは石けんです。戦争中は石けんがなく、ムクロジの果皮(種は正月に突く追い羽根の球)の煎じ汁を代わりに使ったり、たまに配給されるベントナイトと称する粘土が代用品でした。ベントナイトでこすると汚れが落ちるよりも何よりも皮膚が痛んでヒリヒリしたものです。かろうじて何か泡のようなものがあるかと言うところでした.ムクロジの実の方がまだしも少しぬめり、泡もでていたように思います。戦争が終わって一番嬉しかったのは、灯火管制がなくなって明るい電灯をはばかることなく使えることと−−−といっても私が三高に行っている頃は良く停電しました。試験だと言うのに家は停電で、仕方なく大通りに本やノートを持って行って其処では灯っていた街路灯の下で勉強したものです−−−風呂で泡のでる石けんで体を心ゆくばかり洗えることの幸せでした。こういう経験を味わってきましたので、私はためらうことなく石けんを人類最高の発明品として推すものです。奥さんの書かれたものによると、水浴好きだった作家坂口安吾の宝物はシャボンが一つだったそうですが、私と同じような思いだったのかも知れません。

最近注目しているのはコンピュータ−によって一変した誘導兵器の誕生です。少なくとも私のこれまでの常識では戦場の最後の勝利を決めるのは白兵戦をも含めて地上部隊の決戦でしたから、いずれはNATO地上部隊のコソボ展開が避けられまいと思っていましたが、この間のユーゴ軍とNATO軍との戦闘ではこの最後の陸軍による決戦なしに勝敗が決しました。これは戦争の常識の根本的な変更を意味します。第二次世界大戦では日本でも、各地で非戦闘員の恐るべき大量死がアメリカ軍の攻撃によってもたらされました。今度のユーゴ戦争でも中国大使館の爆撃を初めとして非戦闘員の死をもたらした誤爆がありました。しかしわが国が前の戦争で被った一般国民の被害に比べれば誤差と言っていいような小さい犠牲でした。今後情報がより的確に入力されるようになれば、ピンポイント攻撃は精度を高め、非戦闘員の犠牲は益々小さくなり、敵軍の中枢部への正確な攻撃を可能にします。こうして今までのような戦争の様相の常識は消滅して行かざるを得ないでしょう。陸軍の登場を見ないで戦闘の勝敗が決するこの戦争の革命は、今後戦争観の大きな変革を人々にもたらすと思います。いくら核兵器やミサイルを保有しても人工衛星と一体化したコンピューター技術が無ければ、これからの戦争では勝利者にはなれないことを示しています。ただ、現在この能力は殆どアメリカの独占であり、コソボ戦争でも見られたように国連の枠を無視したアメリカの独断専行を見ると、恐いなあというのが率直なところです。

不幸な廣島・長崎の悲劇を幕開けとした原子力の解放は、容易に人々に受け入れられませんが、質量のエネルギーへの転換・質量とエネルギーの等価性(E=mch)を実用化した点では紛れもなく今世紀最大の発明でしょう。過去のある時期の太陽エネルギーが化石化されて蓄積されてきた燃料である石油や天然ガスは、現在の見積もりでは約40年で枯渇し、石炭も約200年といわれます。太陽熱は昔、高等学校の物理の時間に計算させられたところでは毎分一平方センチメートルあたり確か6カロリーでした。一定時間の直接利用には限度があります。こういう点では、核分裂生成残滓の一つであるプルトニウムが新しく核分裂によるエネルギー生産原料になるということは、エネルギーの利用という点でも他には見られないことだとは思うのですが、核分裂の管理と有害な放射能を持つ生成物の処理問題が解決されていない現状では、大いに利用されながらも人々から冷たい目で見られている未完成の技術です(最近の東海村の事件も“臨界”という素人にはわかりにくい表現を使っていますが、わかりやすく言うと「原理的には原子爆弾の爆発と同じこと」が身近に起こったと言うことです。廣島・長崎に臨界量以下にして持って来られたウラニウム235あるいはプルトニウムの二つの部分が、この廣島・長崎上空で爆薬を使って臨界量以上に合体され、たちまちにして強大なエネルギーを発生したのが原爆です。東海村ではこれと変わりがないことが小規模ながら起こったのです)。ドイツでは原子力発電の廃止が議論されていますが、化石燃料が刻々消費されている現在、未来に向かって慎重に着実に研究されるべきエネルギー源であることは否定できません。しかし、現状はどうでしょう。「わが国では絶対大丈夫」と言い続けてきた原子力の利用の裏に潜んでいる基礎知識の貧困と、責任ある人達の信頼できない対応には原子力の未来に対してとても手放しで楽観は出来ません。ごまかしに満ちた説明や言い抜けは全く無意味です。何しろ物質の挙動は基本的に正直で、臨界に到達すれば放射線を伴って恐ろしい爆発をするのです。まあ、こういうわけで化石燃料が利用できなくなる未来へのチャンピオンとして、原子力は真剣に研究を進めなければならないエネルギーであることは否定できないのですが、今のところコンピューターと人工衛星の誕生が20世紀の最大の発明だといっておきましょう。ウラン燃料の消費と同時にプルトニウムができる増殖炉は大変魅力的ですが、「もんじゅ」のナトリウム漏れで止まっていました。しかし、2000年12月再運転の手続きが始まりました。原子力船むつの二の舞にならないことを祈ります。今度事故を起こせば廃棄に追い込まれることは明かです。今回携わる技術屋さんに取っては胃の痛くなるようなスタートでしょう。私は増殖炉の実用はまだ早く、巨費を投じてでも実験炉を造ってがっちりと基礎研究は進めて欲しいと思っています。

grenz

興味深い記事が2000年2月8日付け毎日新聞(大阪)夕刊にありましたので御紹介しましょう。その記事は”独創の方程式「アメリカの20世紀を読むD」で副題は「人類初の原子炉」です。新聞には当時の写真が掲載されていましたが、ここにはJohn Cadelの手による記録画を載せました。

chicago1
1942年12月2日、シカゴ大のフットボール競技場。フィールドを見下ろす観客席の下の空間に作られたコンクリート壁の部屋に、10センチ角の黒鉛の細長い棒を積み重ねた「巨大な積み木」があった。暗号名は「シカゴパイル1」。人類初の原子炉が誕生しようとしていた。

「積み木のサイズは約7.5b四方で高さ約6b。黒鉛の純度は非常に高かった。鉛筆の芯と同じで、黒鉛棒を加工した研究者は顔や服が真っ黒になり工場労働者のようだった」。この実験に26歳で参加した理論物理学者のロバート・クリスティさん(83)=カリフォルニア工科大名誉教授=が思い出を語る。シカゴパイル1の実験参加者は総勢51人。存命者は一握りになっている。

クリスティさんの記憶によると、積み木の中には天然ウランのペレットが約20a間隔で埋め込まれ、底部にラジウムとベリリウムの中性子源が配置された。
当時、中性子がウラン235に当たると核分裂を起こし2〜3個の高速中性子が新に飛び出すことが知られていた。高速中性子を減速させると、ほかのウラン235に吸収され核分裂反応が起きやすくなる。黒鉛はその減速材だった。

核分裂が次々と起きる「連鎖反応」を作り出すにはウラン235が「定量(臨界量)以上必要なことも分かっていた。
chicago 2
実験を指揮したのはイタリア生まれの物理学者エンリコ・フェルミだった。彼は、ウランを埋め込んだ黒鉛棒の層を1層高くする度に中性子の量を測定。神業の速さで計算尺を操作し、連鎖反応まであと何層必要かを算出した。
2日午後。黒鉛棒の組み立てが終わり、積み木に差し込まれたカドミウムの制御棒の引きだし作業が始まった。「もう30a」フェルミの指示通りに制御棒が引き出されると、中性子カウンターのグラフが急な右上がりの線を描き始めた。「いま核反応が持続的になった」とフェルミは静かに宣言した。連鎖反応を達成し、人類が核のエネルギーを手にした瞬間だった。

「本当に興奮しました。しかしフェルミにとっては、計算通りの実験の成功だった。彼はすべてを自分のコントロールの下に置いていた」。クリスティさんはフェルミの卓越した才能を高く評価した。彼によるとナチス・ドイツも黒鉛を用いた連鎖反応の実験を試みたが、黒鉛に不純物が混じり失敗したという。


「シカゴパイル1」は米国の原爆開発計画「マンハッタンプロジェクト」の中の機密計画だった。ユダヤ人の妻を持つフェルミは、イタリアのファシスト政権を嫌い、38年のノーベル物理学賞の授賞式でスエーデンのストックホルムに出かけ、そのまま亡命した。
フェルミだけではない。シラード、ベーテ、テラー、アインシュタイン。欧州の著名な物理学者が、ナチスなどの迫害を恐れて米国に移住し、核研究の先頭に立った。米国の20世紀は、亡命科学者なしには語れない。【ワシントン・瀬川 至朗】

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いま考えていること 31(1999年08月)
――山陽新幹線――

近頃山陽新幹線ほかで、トンネル内の剥落落下や軌道からのコンクリート塊の崩壊落下が続いています。これはどうも手抜き工事の結果のようです。トンネルの危険個所の補強が行われ、当面何とか無事な運行ができるようですが、今後ますます同じような事故が避けられないと思われます。軌道橋内部の鉄筋は錆びて消滅してしまったものもあるようです。安心して新幹線で旅行が引き続きできることを願いますが、欠陥はますます大きく露呈して、やがては運休の事態さえ予想される運命ですね。中国で新幹線の計画があり、恐らく日本も入札に参加して落札したいのでしょうが、世界に日本の工事の杜撰さを立証してしまったような気がします。

昭和40年代に建てられたマンションについても同種の欠陥が次第に明らかになりつつあるといいます。結局はごまかしは利かないものだと痛感されます。トルコ地震の被害のすごさも、やはりセメントに対して違法に砂の割合を増やしていたためだと報じられていますが、日本でも対岸の火事のような気分では居れません。

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いま考えていること 32(1999年08月)
――脳の不思議――

NHKラジオ第一放送1999年7月15日5時38分から浜松医大の高田明和先生が「脳をいきいき」“運動と脳”というテーマでお話になりました(再放送:同年9月9日)。その中で、脳細胞が70を過ぎても新しく出来るという発見が、昨年暮れNatureに発表され話題になっているとのことでした。私も老人ですから大変興味を持ち、先生にお尋ねして関連する論文(Nature medicine vol.4 p.1313 (1998))を教えていただきました。今日はその内容を紹介しましよう。

表題は“成人海馬部での神経組織の発生”です。これまで人間の神経細胞は一旦失われると二度と再生しないと堅く信じられてきました。加齢に伴う脳組織の損壊やパーキンソン病、アルツハイマー病、更にハンチントン病はすべて神経の変性損壊に起因し、現在も不治の病と考えられています。私の家内もアルツハイマー病にかかっていますので脳組織の再生には関心があるのです。 この論文はスエーデンとアメリカの学者の共同研究によるものです。ヒトにおいても海馬の一部であり、学習や記憶に関係する歯状回でネズミやサル同様、細胞が新生する明らかな証拠を得たのです。核酸の成分であるチミジンとよく似たブロモデオキシウリヂン(BrdU)で患者(平均年齢64.4±2.9才)のDNAを標識し、患者の死後の脳組織を調べているのです。他にもニューロンマーカーの一つ、NeuN、カルビンジン、あるいはニューロン特殊エノラーゼ、NSE、を免疫蛍光標識し、これらのマーカーで標識された新しいニューロンが成人の歯状回中で発生することを明らかにしました。これらの対象者はいずれも老齢でしたから、ヒトの海馬は終生、ニューロンを産生する能力を保持していることを示しています。論文は慎重に新しく発生した神経が機能するのかどうかは分からないと言っていますが、この発見によって脳細胞の再新生が確認され、今後この再生に運動などの外的刺激がどのように影響するのかなど、新しい研究分野が開かれたと高田明和先生も仰っておられるのです。既にネズミを使ったこの方面の研究成果が発表されています。

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いま考えていること 33(1999年09月)
――自自公連立――

政治と宗教は話題としないのが、いろいろな人が席を共にするときの円満の秘訣だと言いますが、今日は公明党の政府への参加が日程に上ってきたので少し考えています。

「日刊現代」への抗議書が平成十一年九月三日 公明党 広報委員長 遠藤乙彦氏の名前で発表されています。部分的な引用は公正を欠くこともありますが、注意しつつこの抗議書から少し引用します。

(前略)政府の憲法解釈、憲法学界の定説的見解では、政教分離の原則は、「信教の自由の保障を実質的なものにするため、国及びその機関が国権行使の場面において、宗教に介入し、又は関与することを排除するもの」であり、「宗教団体の政治活動を排除する意味を含むものではない」と明らかにしているものであり、この定義は、第九十回帝国議会(制憲議会)における金森国務大臣答弁(昭和二十一年)以来、今日まで一貫してい るものであります(九四年十月十二日 大出内閣法制局長官答弁)。その中核は「国家の宗教的中立性」であり、逆に宗教に対し、「政治的中立」を求めるものでは断じてありません。つまり、宗教団体が政党・政治家を支援し、あるいは、特定政党・候補を推薦する等の政治活動を行うことは、憲法二一条によってすべての国民に保障されているのであって、何ら問題はないところであります。
これに対し、貴紙の立場では、宗教者の「表現の自由=政治活動の自由」を否定し、ひいては「信教の自由」を害し、その結果、憲法第一四条が明定する法の下の平等原則に反する重大な人権侵害を招致することとなります。

(中略)また、「宗教政党」「創価学会政治部」等と断ぜられますが、公明党と創価学会の関係は、政党とその支持団体という関係に尽きます。政党と労働組合・経済団体・消費者団体などの支持団体との関係と何ら変わるものではありません。支持団体が支持・支援する政党に意見、注文をするのは当然であり、また、政党がそれに耳を傾けるのも、これまた当然でありますが、この関係は、どの政党、どの支持団体にあっても同様であろうと思います。

そして各政党は、固有の支援形態を有するものであり、一つの想定された形態をもとに論評を加えることは、多様な意見を包摂しつつ、民主的手法によって収れんさせる民主主義政治を否定することになります。私ども公明党は政党として主体性をもって、人事、財政、政策等を決めていることは周知の事実であります。(後略)


政教分離というのは、「国及びその機関が国権行使の場面において、宗教に介入し、又は関与することを排除するもの」というのは私もその通りだと思います。そうだからこそ次に示すような心配が芽生えるのです。つまり、「党と創価学会の関係は、政党とその支持団体という関係に尽きます。政党と労働組合・経済団体・消費者団体などの支持団体との関係と何ら変わるものではありません。支持団体が支持・支援する政党に意見、注文をするのは当然であり、また、政党がそれに耳を傾けるのも、これまた当然であります。」と言うところは、支持団体が特定の一宗教団体であることと、他の政党の支持団体が労働組合・経済団体・消費者団体であることとは同列に考えられません。公明党が野党である限りに置いてはこの内容は問題はないのですが、政府を構成するメンバーとなると国権を行使するのですから、その党がある特定の宗教の意見・注文に耳を傾けてもらっては困るのです。国権を行使してその特定宗教団体の対外的活動を支援したり、あるいはその特定宗教団体の有力幹部の行動に便宜を計るようなことがあってはなりません。しかし公明党にはそういう危険があります。先日もサンデープロジェクトに冬柴幹事長が出演されていましたが、田原総一郎氏の質問に答えて「池田大作名誉会長は20世紀の天才です。」などと言われるとゾッとします。私は池田氏はノーベル平和賞でも狙っているのでないかと思っているので、政府に公明党が入って外務省あたりに佐藤栄作氏の時のような運動を展開されては遺憾の極みなのです。

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