いま考えていること 125(2003年02月)
――「若いときの苦労」の意味――
宇宙の謎に迫るニュートリノ天文学を開発し、2002年10月にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊先生について、JKN WHO'S WHO所載の表家結穂氏による紹介文中には次の記述も見られます。
「旧制中学時代に小児麻痺を患い、幼い頃からの夢だった陸軍幼年学校受験を断念。旧制高校、東大時代もアルバイトで一家の生計を支えた。大学には週に1日しか通えず、成績は「優」が2つだけで「物理学科をビリで卒業した」と自称している。
ノーベル賞に先立ち、1988年に文化功労者、97年には文化勲章を受賞。その他にも国内外の権威ある物理学関係の賞を多数受賞している。1980年代後半からノーベル賞の本命と目され、発表日には自宅を訪れるマスコミ関係者に寿司をふるまうのが恒例となっていた。趣味は読書と音楽で、特にモーツァルトを愛聴。プレイステーションでゲームを楽しむ一面もある。」
私も若い日、同志社高校の教師として勤め、生徒達に「君らも若い内に苦労せなあかんで」と偉そうに説教したものですが、その時「僕ら苦労することありません」と反論されて返す言葉が無かったことがあります。確かに裕福な家庭の子女が大部分ですから、こういう答えが返るのもいわば当然でした。今から振り返ると私も「苦労することの意味」が何なのか分かっていたとは言えません。自分で自分の道がつかめず、精神の放浪を国内外で真剣に辿るのも「苦労」(建築家安藤忠雄氏の若いときの渡欧や単身経済的な援助も受けずに渡印して、マザーテレサのもとで働いた私の娘の青春などが浮かんできます)、あるいは技能の道、芸術の道に若くして進み技能の習得に励み、工夫に工夫を重ねて一定のレベルに到達するまでの「苦労」ということもあります。また未熟でやることなす事すべてについて師匠や先輩方からクレームを付けられ悔し涙にくれるという「苦労」もあります。生活に恵まれず、あるいは身体的な欠陥を担っていて、自分のしたいことを諦めなければならないという「苦労」もあるでしょう。入試に失敗して途方に暮れるのも「苦労」です。いずれの苦労にせよ、必要なのはそれらの苦労を克服して新しい道を発見することです。小柴先生もこれまで私が思っていた「ただ成績が良くない東大生がノーベル賞をもらった」というのではなく、身体上の不遇、経済的な不遇を若いときに経験されているのです。若いときには苦労を克服するだけの強さがあり、世間的な妙な絡みもありません。また温かい目を注いでくれる人もどこかにいるものです。人生どこかの時点で開眼することが絶対に必要だと思うのです。今まで見えなかったものが見える能力、たたかれてもたたかれても再び立ち上がる気力の獲得です。この気力と能力は生涯働き続けてくれます。この貴重な機会を与えてくれるのが「若いときの苦労」の「克服」なのだと思います。この過程を経験することによって強靱なはねのける力−−バネが授けられるのです。麦が麦踏みされることによって逞しい株に育つように、圧力をはねのける力を与えられるという意味で「若いときの苦労」がいるのです。「苦労」を若いときに経験し、それを「克服」した経験のない人は、このバネを持てないという意味で、残念ながら大きな不幸を背負い込んだことになります。自分のペースで好きなように働く「フリーター」の方たちも一見幸せなようですが、この強靱なバネを身につけることは出来ないでしょう。「苦労」は確かに凶器の側面を持っており、人を駄目にしてしまう恐ろしい力をもって迫るのです。大切なのはこれを自分の努力で撥ねのけ克服した経験なのです。
不幸にも若いときに恵まれていてこの強靱なバネを獲得するチャンスの無い人に残された道は、何か一つのスポーツに打ち込み、先輩や監督に叱声を浴びせかけられながら、諦めずに栄光を勝ち取って開眼することも道の一つだと思います。
"Per ardua ad astra"(逆境を越えて栄光へ)
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