謡曲について 能のことも
能楽鑑賞の手引き 9−−姥捨を例に
今村昌平監督の作品に“楢山節考”があります。ご覧になったでしょうか?原作深沢七郎です。ここでは七十歳を迎えると、楢山参りをして皆亡くなって行くのです。思えば日本も近い過去には農村では生活が苦しくて、村が生き延びていくのには、子供を埋め殺したり、老人を山に捨てたりすることが避けられなかったのです。この映画の終わりの方の白骨累々と重なり散らばる山頂に黒いカラスが舞い、坂本スミ子扮する捨てられた老人が静かに座して、山を降りていく息子の姿を見送る光景はかっての姥捨の現実を見せてくれました。姥捨ての話しは日本各地に伝えられてはいますが、有名なのは大和物語 百五十六段の話しです。その話しというのは
信濃の国の更級という所に、男が住んでいた。若い時に親が亡くなったので、おばが男の親のように若い時から世話して一緒に暮らしていたのだが、この男の妻の心はとても嘆かわしいもので、この姑が老いて腰がかがまっているのを常に気に入らないと思っては、男にもこのおばの心が意地悪だということを言い聞かせていたので、昔のようにもなくおばの世話がいい加減になっていった。
このおばは大層ますます老いて、腰が曲がっている。これをまた、この嫁は厄介がって、今までよくも死なずにいたものだと思って、良くないことを言っては、「持ってらっしゃって、山奥深くに 捨てなさってください。」とばかり責めたので、男は耐えられず、そうしようと思うようになった。
月がとても明るい夜、男が「おばあさん、さあ行きましょう。寺でありがたい法会をするというのを 見せてさしあげましょう。」と言ったので、おばは大変喜んで背負われた。高い山のふもとに住んでいて、その山にどんどん入って行き、高い山の峰で下りて来られそうもないところに男はおばを置いて逃げて来た。おばは「これこれ。」と言ったが、男は返事もせずに逃げ、家に帰って来て思うに、妻に告げ口されて腹が立っていた時には、怒って、あのようにしたが、長い間親のように世話して暮らしてきたので、とても悲しく思われてきた。この山の上から月がとてもとても明るく出ているのを眺めて、一晩と寝られず、悲しく思われたので、
我が心慰めかねつ更級や姥捨山に照る月を見て
と詠んで、また山へ行って迎えて連れて帰ってきた。その後から、姨捨山という。 |
高齢者社会が現実のものとなった今日、姥捨は形を変えて広く日本社会に存在し、養護老人ホームのお年寄りたちが目の光を失って生気なく暮らしておられる姿を目にしますとこれは紛れもなく現代の姥捨なのかも知れません。私たちもこの現実をどのように受け止めていくかが切実な問題として迫ってきています。
能楽の「姥捨」は題こそ同じですが内容は悲惨な棄老物語のかけらもありません。全く異なったものです。
2002年11月2日大阪でも梅若万三郎師の襲名披露公演があり、姥捨が演じられました。今年はまた私の師匠武田欣司師の父君故武田小兵衛先生の十三回忌の年でもあります。小兵衛先生は晩年京都観世会館で姥捨を演じられ、その心準備に夜の信州姥捨山も訪ねられました。欽司先生などは能舞台照明をどのような明るさにするかに心を砕いておられたのも懐かしい思い出です。小兵衛先生の能は写実を基礎にしておられたのでわかりやすいといわれていましたが、桂米朝も「お客さんに不自然さを感じさせたら折角落語の世界に入ってくださっている気持ちを壊して現実世界に戻してしまう」と弟子を指導しておられるので、基本は写実であるに違いありません。それだけにこの能のように精神的なものを湛えているものの場合には写実に精神的な面での表現を要求してきますから難しいと思われます。
小兵衛先生の姥捨を観てから10年以上経ちましたが、わたしのテキスト理解も変わり、その時は月=勢至菩薩の導きで老女も遂に成仏した喜びを舞に表したのかと思ったものでしたが、篠山の能楽資料館「紫明の会」のお誘いを受けて参加しました今回の万三郎師の姥捨の印象はかなり違う印象を受けました。謡曲では「我が心慰めかねつ更級や姥捨山に照る月を見て」は捨てられた老女自身が詠んだ歌になっています。老女の亡霊は秋の名月の夜に未だに生前眺めた名月の美しさが忘れられず,これが妄執となっていまも成仏できず名月の夜、姥捨山に現れるのです。都から名月をここ姥捨山に訪ねてきた旅人を前に月光を全身に受けて月を賛美する言葉と舞。資料館の中西 通先生の御教示によると後シテの面は児玉長右衛門作の銘「優婆」のある「姥」、衣裳の長絹はクリーム色の地に秋の露芝に蜻蛉と鈴虫を何れも金色で配したものでしたが、わたしにはもしも月に顔があればこの顔を持つだろうと思われ、静かに月の金色に輝く衣裳と相俟って老女が即、月であり、月を讃える老女と讃えられる月が同体となりました。「夜も既に白々とはやあさまなりぬれば。我も見えず」の言辞を聞くと、一体化した月も老女の亡霊も共に明るさの中に消えていくことも、さもありなんと受け止めたのです。老女に返ってきた孤独とは月の孤独でもあり、橋掛りを静かに去っていくシテの姿に孤独に西に歩みを進める月を見たのです。この能の主題は「月」だと思います。山姥の主題が「雲」でありましたように。自然のものを人間の形と動きで表現する手法は他の芸能には希にしか見られない能に特徴的な最も注意すべき手法と言えましょう。
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能楽鑑賞の手引き 10−−狂 言
1945年終戦後しばらくというものは、京都にも能楽堂が戦争中の疎開などで少なくなっていました。それで、京都におられるただ一人の家元、金剛さんの能舞台が金剛流だけでなく観世、金春などの他流にも提供されて京都唯一の舞台といっても良い状態でした。気迫に満ちた太鼓の川崎九淵さんの姿などもこの能楽堂で見たのが思い出されます。少し話が変わりますが、当時は食料も乏しく貝谷八百子バレー団の「白鳥の湖」が弥栄会館で公演された時など、登場されるバレリーナのみなさんの脚が全員痩せて細く痛々しいくらいだったのも思い出されます。みんな空腹を抱え、占領下将来への希望も見いだせない日々を送っていたのです。ある日この金剛能舞台で狂言を観ました。舞台は現在の狂言の舞台と変わりはなく、演ずる人はまったく明るく心からの笑いを誘ってくださいました。私の心にはこのとき「こんな明るい笑いの喜劇−−狂言を持つ民族は、決してこのまま暗い打ちひしがれた状態のままではいない、必ず再び立ち直れる」という確信が沸々と湧き上がってきました。狂言は絶望から明るい未来への脱出を約束してくれたのです。
半日に演じられる三番の能楽の間に狂言が一番演じられるのが普通の番組でしょうが、私が良く能楽堂を訪ねていた今から10年くらい前は、能の愛好者の間にこの狂言を一段低い位に見なす風がまだ一般的でした。狂言の始まる前に少時、会場を出るのが「能の通」であるかのような狂言の取り扱いでした。狂言を観る観客は驚くほど少なくなるのです。狂言も狂言会で演じられるような大きな演目ではなかったのですが、それでもみな真剣に演じられ、なかなか良い物が観られました。私など狂言師のみなさんに済まない思いさえ抱いたものです。後年、私がしばらく福井の「県民能」の解説を担当させて頂いたときは、能の解説とまったく同じ重さで当日の狂言の解説をしたのはこの気持ちからでした。
能の中入りの間に演じられる間狂言も多くは同様の扱いを観客から受けていました。「通」の人はこの時間に一度外に出て、用を足したり休息をとります。間狂言はお能の言葉も聞き取れない初歩の内は、能の筋がよく分かって嬉しいのですが、確かに、慣れてくると一種の煩わしさを感じます。しかしみなさん、あの宝生流の名人 野口兼資師でも間狂言を聴かれてこの能が何を演じているのか分かったといわれたことがあるのです。もっとも明治12年生まれの野口師の修練は頭での解釈からではなくて、徹底的に体に覚えこませるものでしたでしょうから、その体で覚えられたものを理屈抜きに忠実に演じておられたことでしょう。それで解釈は間狂言を聴いて始めて納得されたということなのでしょう。能楽「屋島」の間狂言「那須の語り」など一人で義経・後藤兵衛実基・那須与一の三者をめまぐるしく演じ分けて行かれるので、落語を聞くようなドラマが三次元で観られるものもあります。
この10年ほど家内の看護で能楽堂を訪れていませんので、近頃はどういう風になっているか、一度見分したい気持ちです。古くからの慣例を離れてまともな狂言の見方・取り扱いをこれからの若い人たちは是非して欲しいものです。 |
能楽と歌舞伎
2003年になりましたが、年末から新春に掛けて団十郎を中心とした歌舞伎をテレビで見ることが出来ました。ひとつは京都南座顔見世の“勧進帳”、今一つは新春檜舞台の“舟弁慶”どちらも大変結構でした。ことに歌舞伎ならではの舞踊の美しさに心を動かされました。見ていて思ったのはわたしが謡曲を習って「安宅」「舟弁慶」どちらも良く知っていたことのありがたさです。名人野口兼資先生の逸話に能の「中入り」に間狂言を聞かれてこの能はそういうことだったのかといわれたという話があります。真偽のほどはともかく、皆さんも能鑑賞の初めのころは間狂言を聞かれて同じような思いをされた経験もお有りかと思われます。歌舞伎の“勧進帳”“舟弁慶”ともいわゆる松羽目もので、もとは能から題材を取ったもので、台詞も大半は能の言葉をそのまま転用していますから、見ていて自然に言葉がどんどん蘇って来て、全く言葉の上での抵抗がありません。間狂言なみに理解を助けるような台詞も入り込ませてありますから、きっと能のすばらしさには何となく魅力を感じながらも、雲の上の理解しにくいものと思っていた人達にも、歌舞伎の形で初めて素直に受け入れられていったことと思われます。能は極端な言い方をすれば日本芸能の源泉です。歌舞伎・日本舞踊の名作がここからたくさん生まれていきました。すべてのことに通ずることですが、基本的なもの、源泉的なものを理解していると、それから派生したものの理解は容易です。わたしは若いときから能・謡曲に親しんできたことのありがたさをテレビで歌舞伎・日本舞踊(二人猩々など)を鑑賞しながら味わっています。
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”近代の合理性は、人間の本質的な価値を破壊する面があります。一方、身体にも思考というものが備わっています。その思考は、合理的ではないかも知れませんが、真の思考と言えます。植物とか木々が備えている思考と同じようなものです。踊るということは、動物の言葉を話し、石ころとコミュニケートし、海の歌やそよぐ風を理解し、存在の極致に近づくことであり、宇宙の深遠な営みに全身で参加することです。”
−モーリス・べジャール−
(毎日新聞(大阪)夕刊 2000/02/09
【 振付家・べジャール氏に聞く(梅津時比古)】)
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◆神陵文庫第3巻で御覧いただける古典芸能の話は菅 泰男先生が三高会館でされたものですが、能についても蘊蓄の深いことが述べられています。Adobe Acrobat Readerを使うので呼び出しに時間が掛かり、しかもモニター画面ではすこし読みづらいので、プリントアウトされることをお勧めします。
Adobe Acrobatは必要ならダウンロードしてください。 |
◆能の公演日程のページがあります。
◆紀伊國屋書店からビデオ講座 古典芸能シリーズが出ています。
第1巻 入門・能の技と心 \15,000 1999
第2巻 入門・狂言の技と心 \15,000 1999
第3巻 能の音楽 \15,000 2000
第4巻 能・翁 \15,000 2000
第5巻 能・道成寺 \15,000 2000
◆能楽名演集 DVD-BOXTUVがNHKエンタープライズから出ています。
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