ご隠居の知恵袋


 新萬来舎(イサム・ノグチの仕事) 

2003年3月、慶応義塾大学の施設(記念館と庭園)として戦後まもなく復旧した新萬来舎の建て替えに際して、解体前に一般公開がされました。(詳しくは、慶應義塾ホームページ/「萬来舎およびイサム・ノグチ作品保存の試み」、で。)*リンク切れ!

 ご隠居さんは、京都の高校の美術のY先生から次の様なメールをもらいました。

『10日、ノグチルーム見学してきました。 現地で配布されていた資料余分にもらってきたので後日、郵送いたします。      テレビの反響ってすごいですよね平日にも関わらずかなりの人が見学に訪れていました。 が、私が見たところ、彫刻関係者より取り壊される校舎の設計が谷口吉郎氏によるということで建築や写真の関係者がほとんどのように思いましたが・・・。

ノグチルームと庭園に設置されている数点の作品の感想はというと。  新幹線代を払うだけの期待を裏切られずに済みました。 寒空の下、見学の順番を待つ列に2度も並びました。  「百聞は一見に・・・」といいますので下手な説明をするよりは作品の画像を後日、ファイルで送ろうと思いますが、とりあえず慶応大学のページを参考にしてくださいね。  リンクはこちらです。(リンク切れ!)  [Keio Top News]URL:http://www.keio.ac.jp/news/030314.html では。』 2003/3/

 後日、届いた資料や写真を見ましたが、実際に見学会へ行かなかったご隠居さんには180枚もある画像がどれがどれだか理解する事が出来ませんでした。 イサム・ノグチさんの作品は石彫が主なものというイメージが出来上がっていて、それ以外の作品の印象は薄くなっています。 このYさんからのメールを貰うまで新萬来舎のことは良く知らなかったのです。 作品集(Isamu Noguchi/ by sam Hunter)を見ても、中央の”囲炉裏”に火が入っているモノクロームの写真が一枚あるだけです。 

 興味が沸いてきて、よく分からないでは気がすまないのでご隠居さんは、まずは画像の中にあった新萬来舎の模型を写した写真を元に図を描いて見ることにしました。 そして、web上にも関連記事(近代建築探訪家倶楽部/新萬来舎におわかれ)を見つけて参考にするなどしてゆっくり見てみると、それぞれの部分がつながって全体の配置が理解でるようになりました。 それに加えて、「評伝 イサム・ノグチ」(ドーレ・アシュトン著/笹谷純雄訳)と「イサム・ノグチ(上巻・下巻)/宿命の越境者」(ドウス昌代著)を読むことにしました。 2册とも大変に面白かったのですが、”評伝”の方は評論文の感じで論考的な内容が多く、20世紀の美術史の中でのイサム・ノグチ作品を理解するのに役立ちましたし、”宿命”の方は書簡を中心に展開する伝記小説のようでどんどん興味を惹かれて読み進んでいけました。 ビデオも「イサム.ノグチ/地球を彫刻した男」(札幌テレビ放送制作)を見てみました。  そう言えば「知ってるつもり」とか言うTV番組にイサム・ノグチさんが取り上げられていたこともありましたが、この番組ではアメリカと日本、精神的な帰属感のはざまのイサム・ノグチさんの心境にスポットが当てられていた様におもえます。 このように世界的な彫刻家のことはその時々の話題が強烈なのでその記憶は残ってはいるもののイサム・ノグチさんの”生涯”はなかなか知る機会がなかった事を思いしりました。 これもYさんのお陰なんですが・・・・。

                           

   「新萬来舎/ノグチルームの俯瞰図/当時の模型写真より」

 (A)の「無」と(B)「若い人」の彫刻は模型写真には登場しません。        

 

 誰にとっても苦難の大平洋戦争が1945年に終結し、敗戦のショックから不死鳥の様に蘇りつつある1950年にイサム・ノグチさんは十数年ぶりで再来日しました。 この頃の東京は目を見張る様な活気に溢れていたそうです。 美術界においても、美術家も自分達の出来ることで日本の復興になんとか貢献しようと意欲を燃やす人たちでいっぱいだったそうです。 アメリカからの新しい息吹を感じとろうとする人たちからの要請でイサム・ノグチさんは連日、会見やパーティー、講演会、展覧会の準備などで引っぱりだこの忙しさを味わったようです。 

 来日4日目にイサム・ノグチさんは父(ヨネ・ノグチ)が40年間教鞭をとっていた慶應義塾大学を訪れて戦災復興の依頼を受けている建築家の谷口吉郎氏に出会っています。 この出合いから意気投合した二人の仕事として”新萬来舎”が生まれました。 

 イサム・ノグチさんはこのノグチルーム(ヨネ・ノグチの記念館)の床を三つの高さに設計しました。 それは、左の図の(イ)、(ロ)、(ハ)の部分なのですが、(イ)はテッペイ石らしい敷石の床で、(ロ)はフローリングの床、(ハ)は少し高くして藤筵敷きです。 (イ)は歩く為、(ロ)は歩くことも座ることも出来るところ、(ハ)は疊の床で、日本式にも西洋式にも座ることができる床、であると言う考えです。

 近代化の中の日本人としては初めて英語による詩集を西欧社会で出版し評価を受けていたヨネ・ノグチの国際性とイサム・ノグチのそれを上回る世界的な活動をうちに含む様な室内の設計として新萬来舎があります。 しかし、この部屋を「英雄を称えるものや、追とうするもの」にはしたくなかったそうです。 学生達がここに集い、息抜きをし、詩を読み、思索と反省によって満ち足りた気持ちになる空間になって欲しいと願っていたそうです。 

 web上で新萬来舎の記事を探している時に、「萬来喫茶イサムカフェ」の記事を見つけました。 慶應の美学のゼミの学生が取り壊されるノグチルームを喫茶室として集ってみたいという考えから喫茶店を自分達の手で開店したレポートが掲載されているのです。 中央の暖炉、テーブル、座敷き、など沢山の人が食べ物や飲み物と一緒で、庭の彫刻もライトアップされて窓越しにいい風景を作っているし、いききとしたノグチルームの有り様がそこにあります。 こうした生きた空間はイサム・ノグチさんの望むところであったのだろう思います。

(イ)の敷石の床と中央の 暖炉

 

(ハ)のトウ筵敷きの壇と瓦の壁、茶室のおもむきが感じられる

外の庭に彫刻が見える

(ロ)の板敷きの床、角には(ニ)読書コーナー、その内側にはベンチと三角の照明器具がかわいい

 これらの写真はどれもYさんの撮ったものですが、良く見てみると実に沢山の素材が使われているのが写真でもわかります。 柱や外の藤棚の仕切り壁(C)がコンクリートの打ち放し仕上げと言うのも当時としては斬新だったことでしょう。 壁のタイルは桂離宮の瓦と同じやりかただそうです。 囲炉裏(暖炉)は宮城県の白川石、フードは銅板でしょうか、トムシロが敷いてあるし、読書コーナーの細い板の壁は竹の壁のようでもあります。 ここには写っていませんが曲げわっぱの様な照明器具も天井からぶらさがっています。 そして、ほぼ四角い部屋の対角線上にある角と角に読書コーナー(ニ)と茶室風コーナー(ハ)があります。 部屋のコーナーがこの非対称の形となって部屋に”動き”をつくり出している様に見えます。

 この仕事をかかえている時にもイサム・ノグチさんは京都に行ったり精力的に動いていたそうです。 そうした中から凝縮してきた形がこの新萬来舎に出てきているのでしょう。 原初的なものに対する興味は若い時からおおせいであったようで、マチュピチの遺跡、インドのジャイプールの天文台遺跡、ランドアートの様なインド、マリエッタの先史時代の古墳、中国の文物、日本の庭園など作品におおくのインスピレーションをもたらしているようです。 

 パリ留学の時、ブランクーシに魅せられたイサム・ノグチさんは、弟子入りを申し入れてしばらくはその元で一生懸命に勉強したそうですが、あまりに入れ込み過ぎて、これでは自分がブランクーシになってしまうと、数カ月でその元を去ったと言うエピソードがあります。 ブランクーシから、”素材に語らせる事ができる”という事を学んだ、と言ってもいます。 このことは後に、四国、庵治の牟礼でよきパートナーとなる和泉さんに出会い石の彫刻家として知られる下地がここにあったとも言えそなんだなぁ。  

 ・・・と、ご隠居さんは独りうなずきながら、”そうそうこの頃にイサム・ノグチさんは女優の山口淑子さんと出会い結婚したんだった。 それで世間の人はこの彫刻家のことをよく知るようになったんだ。 ・・と、昔の思い出の映画「迎春花」の中で李香蘭がアイススケートをクルクルと上手く滑る姿を思い出していました。 


その他の資料: 

・「ISAMU NOGUCHI RETROSPECTIVE 1992/イサム・ノグチ展」図録                     (1992.3.東京国立近代美術館.1992.5.京都 国立近代美術館)

・「PLAY MOUNTAIN イサム・ノグチ+ルイス・カーン」 1996年マルモ出版                            

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