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カール・プランテル (Karl Prantl)
1923年 オーストリア、プッチング生まれ)
私は1991年にカールさんに会ったんだ。 いや驚いたのなんのって、飛行場の出口で待ってたら、洗い晒してハゲチョロケのTシャツと半パンにゴムぞうりで現れたからさ。 オーストリアを代表するような彫刻家だと聞いていたからそらもう緊張して待ってたのにすっかりあてが外れちまったんだ。 けど、あっちはすっかりカールさんのファンになっちまっと言うことさ。 驚きついでを言うと、宿舎ではゴムぞうりも脱いじまって畳の上も床も裸足ででかまっちゃいないんだ。 こんな所が自然児と言うか、石が大好きで何十年も石を彫ってきた男というか、たまんないね。 こん時は「`91小豆島国際彫刻シンポジュウム」に奥さんのウタさんと一緒に招待されたんだけどね。
今年(1998年)の春には、サッカーのW杯で賑わったパリで個展をしたらしんだけど、随分大きな石の作品も展示されていたようなんだ。 もう結構なお年なんだろうけど元気なもんだ。
カールさんの石の仕事は石をだいじにだいじにしてるって感じが見てると伝わってくるようだ。 石は地球の骨のようなものだし、我々人類や生物よりももっと古くから存在していて生命を育んでくれたものと言ってもいいかもしれないんだ。 そんな石と話をしているかの様に注意深く石の表面に形を付けていくのだけど、彫るって感じじゃないんだよ。 丸い出っ張りや凹みや線なんかのような極わずかな変化しか石に付けないんだ。 そして石全体を丁寧に磨きあげるんだ。 自分と石とが出会った印を残しているって感じだね。 そおとか、想像力を働かせて作品の表面を見ていると起伏して広ろがる大地にも見えるさ。
1956年にハンガリー動乱があって、それから2年後にカールさんは「境界石」と言う大きな石の作品を作って、ハンガリーとオーストリアの国境に置いたんだけど、これがカールさんがその後も考え続けているコンセプトに繋がる石の作品の初めだそうだ。 この作品はサンクト・マルガレーテンと言う古代ローマ時代から石材を切り出している石灰岩の石切り場で制作されたんだけど、この時石を彫りながら、西側と東側と言うイデオロギーの対立で出来た人々の交流を遮る壁と言う不幸な状況を開かれたものにしたいと思ったんだって。 ここがカールさんの偉いとこでさ、次の年には東側にいる彫刻家にも呼び掛けてサンクト・マルガレーテンの石切り場で数人が生活を共にしながら石を彫って、作品を展示すると言うマニフェストをやったんだ。 これを「ヨーロッパ彫刻家シンポジュウム」と呼んだんだって。 それでね、そん時のカタログには「この夏、我々の時代を示す形を石に彫刻するために、始めて、アティスト達は集まった。」と書いてあるんだけど、短いながらなんかこう熱いものが伝わってくるようだね。
「境界石」 1958年サンクト・マルガレーテン石切り場
その後「国際彫刻家シンポジュウム」と呼ぶようになったし、参加した彫刻家の手で彫刻シンポジュウムは次第に各地、各国で開催される様になって行ったんだ。 ユーゴスラビアからだって一回目の彫刻シンポジュウムにレナーシという作家が参加していて、その後ユーゴスラビアでも彫刻シンポジュウムが毎年開催される様になって、日本人の作家も参加した人は多いのだけど、国があんな風になちっまって今はどうなったんだろうね。 政治家だか軍人だかしんないけど国をめちゃくちゃにしちまうだからまったくしょうがないたらありゃしないんあだ。 せっかく開かれた精神で始まった彫刻シンポジュウムもこれでは踏んだり蹴ったりだよ。 偉いさんなんかいやだね。
1959年の初めての彫刻シンポジュウム風景 作品が展示されているサンクト・マルガレーテンの丘
ウイーンから南へ70キロメートルほどの、ハンガリーとの国境近くにサンクト・マルガレーテンの石切り場はあるそうだ。 石は石灰岩で石の中に化石なんかが含まれるような柔らかい石でさ、石切り場の後ろにはなだらかな丘がまだ石を切り出されずに残っていて、この丘をカールさんは99年間無償で持ち主から借り受けて作品の展示場にしているってことさ。 上の絵の中心にある作品は「ヨーゼフ・マティヤス・ハウアーに捧げる石」1966年のカールさんの作品だけど、この題名はカールさんの尊敬する音楽家に捧げた作品と言うことで、石には幾つもの丸い窪みが水平に列をなして彫りつけてあり、石が置いてある岩盤にも同じ様に窪みが彫ってあるんだって。 大きな大地につながっていく感じだね。
1960年は第2回目のサンクト・マルガレーテンの国際彫刻家シンポジュウムで飯田さんという日本人の彫刻家が参加しているし、1961年になるとオーストリアで2ケ所、ドイツで2ケ所、ユーゴで2ケ所ととたんに開催地が増えるんだ。 そして、ベルリンにも参加した飯田善国さんは’70年大阪万博の時に鉄鋼彫刻シンポジュウムと言うでっかい彫刻シンポジュウムを企画してカールさんを招待したんだって。 その時のカールさんの作品は、神戸市の中央公園の噴水池の横に今は設置されていて見ることができるよ。 「川崎への道」と題名の作品だけど川崎製鉄所でつくったからそんな題名にしたらしんだ。 ステンレスのインゴットをグラインダーで削って形をだしたという大変に労力を費やした作品らしいよ。 普通はカールさんの作品は「瞑想の石」と言う題名が多いんだ。 なにか東洋的な精神性見たいなものが感じられるんだ。 だから作品を目で見るだけでなく手でも触れて感じてほしいとカールさんは言っていたよ。 なんかこう言った所が芸術作品だから手をふれてはいけないとか言うバリヤーを作らない態度と言うんだか、カールさんの開かれた精神性なんだろうね。
Up:2007/10/
カール・プランテル氏について四方山話
○ 昨年('05)のこと石楽亭はカール・プランテルさんに、あなたの作品「マティアス・ハウアーに捧げる石」のマティアス・ハウアーはあなたにとってどの様な存在ですか?と言ったような意味の手紙を書きました。 この作品に付いては画像を見てもらうと分かる様に、作品が置かれている自然石の上にも形が刻まれていて石彫の宿命でもありまた石彫の良さでもある量塊性を超える表現と思っていました。 それで、その題名の人名が気になっていたためです。 返事はマティアス・バウアーの曲の入ったCDと息子さんの奥さん(ピアニスト)のCDとカールさんの作品集が送ってきました。 コメントは在りませんでしたがそのことからマティアス・ハウアーはブルゲンランド州出身の作曲家だと分かりました。 石楽亭が無知でしたが、ここでネット検索で得た知識を受け売りします。
『ヨーゼフ・マティアス・ハウアー(Josef Matthias Hauer, 1883年3月19日 〜 1959年9月22日)は、シェーンベルクよりも早く、独自に12音技法を発展させていたことで知られる。
ウィーナー・ノイシュタット(ブルゲンランド州、サンクト・マルガレーテンの石切場の近く)生まれ、ウィーンに没する。父親は公務員であったが、アマチュア音楽家でもあり、早くからヨーゼフにチターを教えた。その後、生地の師範学校に学び、チェロ、合唱の指揮、オルガンなどの音楽教育を受けたが、理論や作曲は独学であった。
1918年にゲーテの色彩論に基づいた色聴についての音楽理論書を出版。1919年8月に12音による作曲技法を発明する。彼の作曲技法は、作品を追う毎に変化しており、1音1音を積木を積むように構築された作品もあれば、12音の並びから和声の連結を生成する手法を用いたもの、易学に基づくもの、図形楽譜まであり、非常に多彩である。中でも、いわゆる「44のトローペの理論」は彼の12音技法を語る上で欠かせない。なお、1919年作曲のピアノ曲「ノモス」は、世界最初の12音音楽と見なされている。 1918年頃からシェーンベルクと交流を持ちはじめ、親交を深めるが関係は長続きせず、ハウワーは、音楽家は芸術的な表現を志向するのではなく12音のそれぞれが持つ霊的な真実を代弁することにのみ尽力すべきという「新しい音楽」を主張してシェーンベルクとはげしく対立し、袂を分つこととなった。
1920年代はハウアーの絶頂期であり、トローペ理論に基く楽曲が数多く発表された。1932年には、ゴットヘルフの原作による大作オペラ「黒い蜘蛛」を完成させた。しかし、ナチスの擡頭により彼の作品は頽廃芸術の烙印を押され、1938年以降は公的な活動の場を全く奪われてしまった。彼はナチ時代を通じてオーストリアに留まったが、作品を公表することもなく、やがてその存在はほとんど忘れ去られた。』
○ 彫刻シンポジュウムの発祥の地、オーストリア、サンクト・マルガレーテンのシンポジュウムの作品集がまとめられました。 題名は「Gehen uber den Hugel von st.Margarethen von Stien zu Stien」(注:ウムライトが表示で来ていません)"ISBN3-85165-657-1" 出版社はPassagen Verlag Ges.m.b.H.[A-101 Wien,Walfischasse 15/14. Fax:+43(1)512 63 27. E-mail: lektorat@passagen.at] 編集をカール・プランテル氏のお嬢さんでウイーンで画家として活躍されているカテリーナ・プランテルさんがされています。 写真は継続してマルガレーテンの写真を撮りつづけているエバ・チョンさんです。 立てが16cmで横が15cm、3センチ数ミリの厚いが可愛い感じの体裁で中のページは袋とじになっています。 作品の写真ばかりでなく、マルガレーテンの丘に雪が積もっているところなど風景や、1959年から始まったシンポジュウムらしく重機なしで2m以上もの高さに作品の部分である石材を積み重ねている作業風景の写真があったりもします。 あたかもストーン・ヘンジの梁石を組み立てているようです。 そうした昔の記録写真、シンポジュウム開催中に参加彫刻家の寝泊まりする彫刻家の家(Bildhaurhous)の内部の写真などなど、作品は57点が収録されています。 彫刻家の家はマルガレーテンの石灰岩製の石積で、すごく雰囲気のある内装が印象的です。 石楽亭は直接に出版社にEメールを出して送ってもらいました。 本は29ユーロ、送料が15ユーロでした。 支払いはvisaカードで良いというので3册注文したのですが、(送料がいくぶんか安くなると思って)1册しか届きませんでした。なんか呑気な感じがしますネ。
○ 一時のバブル景気の頃は一夏に幾つものシンポジュウムが日本の各地で開催されもしましたが近年はかなりその数は減っています。 このマルガレーテンの初期のビルドハウワ・シンポージョンには飯田善国と言った彫刻家が参加されて後になって、大阪万博の鉄鋼シンポジュウムの開催となりました。 現在では、トルコ、スペイン、中国、韓国、インド、イスラエル、アイスランド、などの国で石彫シンポジュウムの開催がされています。 イスラエルのシンポジュウムに参加した人の話だとその開催に周囲の人々の関心は高く会場を訪れる観衆の数は驚くほどの多さだそうです。 ちょっとしたスター気分になるほどだそうです。 国際交流の側面を持ったシンポジュウムが開催地の現在の国状に合ってその機能が十分に発揮されているのでしょう。
「彫刻家シンポジュウム --その発端--展開--変遷」と言うタイトルの論文が印刷されて出版されています。 ドイツ語で書かれた本です。 クリスチャン・アルベレヒト・キール大学哲学部博士論文でユタ・ヴォルトマンさんが2004年に書いたものです。 これは、1958年にオーストリー ウイーンの郊外、サンクト・マルガレーテン石切り場で始まった彫刻家シンポジウムを、主にヨーロッパの実例と沢山の参加者のインタビューから論じたものです。 インタビュー記事は付録のCDに納められていいます。 出版社は「Peter Lang」著者:Jutta Birgit Wortman, 題名:[Bildhauersymposien: Entstehung - Entwicklung - Wandlung.] ISBN 3-631-55273-4. 購入は出版社ホームページにある注文ホームから出来ます。
この論文にはドイツ語のほかに英語と日本語の”まとめ”が付いています。日本語翻訳はドイツ在住の日本人女性があたっておられます。 この”まとめ”をさらにまとめて引用します。
『ユタ・ヴォルトマン2004年キール市にて
論文の趣旨
年々数多くの彫刻家シンポジウム、芸術家シンポジウム、芸術家ワークショップ等、多数のイベントが世界各地で開催されている。これらのイベントはそれぞれの芸術家の一グループに特定の期間内にその開催地でアートプロジェクトを実現させ、発表する場を提供するものである。当研究調査は主として彫刻家シンポジウムがいかにして始まったか、その発端と背景に取り組み、さらに、我々の文化生活におけるこの入り組んだ現象のその後の展開と変遷をも指摘せんとするものである。
彫刻シンポジウムの発端
ハンガリー国境に近いブルゲンランドに在住のカール・プランテルは1958年ウイーンの南東に位置するザンクト・マルガレーテンのローマ採石場で作品「境界石」制作に取り組んでいた。その制作作業中、多くの芸術家たちが苦難状態にある時代に、彼の仕事現場の周囲にふんだんに存在する大型の石塊、石切場の職人たちの協力的な姿勢や運営者の寛容さなど、彼はここが理想的な制作環境を提供していることを発見したのである。プランテルの最初の構想はウイーンに住む精神医のフリードリッヒ・ツァガン及びウイーンの彫刻家ハインリッヒ・ドイチとの脇力のもとに具体化され、実現をみることになる。全ヨーロッパの、西欧と東欧を連合せんとする彫刻家の採石場での共同制作へのアイディアが開発され、その趣旨をマニフェストに謳いあげた。かくして1959年、周到な準備の末、最終的には11名の彫刻家が欧州8カ国(ベルギー、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、オーストリア、スイス、スロベニア)から集まり、12週間にわたってマルガレーテンの石灰砂岩採石場での制作活動に入った。出来上がった大型の石彫作品に関しては、その石切場を展示会場として一般公開されたあと、従来の慣例であった画廊や美術館を通して芸術作品を売買するという束縛からは脱して、あちこちから一ヶ所に集合して制作したのとは逆方向に、つまり参加者の国々に夫々作品の買い手あるいは公の空間に展示される場を見出そうという構想であった。中には何年か経過するうちに欧州内外に展示の場を得た作品が何点かあるとはいえ、構想のこの部分に関しては期待ほどの実現は見られなかった。石切場に彫刻家が集まり、一緒に仕事をするという、その当時にはセンセーショナルなイベントは報道関係にも強い反響と関心を呼んだ。民族間の友好、結びつきへの強力な推進力であることを強調して報道し、ことに彫刻家たちが通常の孤立した仕事場ではなく、意見やアイディアを交換しながら特定の期間一所に集まって制作すること、また一般人の立ち入りも可能であるその仕事場環境に言及した。さらにまた当時芸術作品の展示会場として極めて特異な舞台状況一採石場と風摩な景槻がかもし出す特殊な雰囲気一に大いに関心をしめした。この劇的な第一回目のシンポジウムのあと、ザンクト・マルガレーテンでは1974年までの間、彫刻家シンポジウムは殆ど毎年開催された。
彫刻シンポジウムの継続
長年の継続の結果、作業現場は石切場に隣接する丘陵にまで拡張された、その結果一部の彫刻はここに常設作品として残されたものもある。当初『自然』な雰囲気の中での体験を通して追求しようとした芸術制作課程や作品と環境との一体性は、いまや自然の景観をも作品の一部であるとする概念のもとでの制作へと変化することによってさらに高められ、拡大されていったのである。その意味で1964年から1966年にかけて制作された「ヨーゼフ・マティアス・ハウアーに捧げる石」という作品を通してカール・プランテルはザンクト・マルガレーテンに限らず以後のシンポジウム活動においての方向づけに大いなる刺激を与えたのである。また5人の日本人の彫刻家により岩壁に切り刻まれた1970年の作品「目本の溝」も同じく重大な意義をもつものである。この「自然一芸術」に属すと見るべき作品は、プランテルの「ヨーゼフ・マティアス・ハウアーに捧げる石」でもって踏み出された道がさらに徹底した形での前進をみたという事実だけではなく、複数の作家による共同制作様式の試みへの顕著な実例を呈するものである
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彫刻シンポジウムの展開
1972年、ウイーンのシュテファン広場を共同制作の場にするというアイディアに彫刻家たちは大いに意気込んだ。いよいよ新しい課題を持つ制作の場が他の都市にも開かれていくかのようであった。その後の2年間彼らはコンセプトづくりに取り組み、著しく豊富なアイディアが生み出されたが、このプロジェクトは実現に至らなかった。この企画の挫折は、明らかにザンクト・マルガレーテンにおけるその後の展開にはっきりした区切りをつけることになった。それまで彫刻家のみに限られていた制作場は1979年には建築、陶芸、絵画の分野にも窓が開けられた。こうした条件下で開発された「カルチャー・ランドスケープ・ザンクト・マルガレーテン」プロジェクトは、そのコンセプトから最初の作品に至るまで1979年から1981年にわたって多数の刊行物に紹介され、殊に陶芸分野においてはまさに「手に取れる」成果をもたらした。80年代には1986年まで幾度ものセラミック・シンポジウムが開催された。
彫刻シンポジウムの拡散
今日、いまも存在する団体「ヨーロッパ彫刻家シンポジオン」は、彫刻作品群の保存と展示を目的として近年立案されたコンセプト「ザンクト・マルガレーテン彫刻ランドスケープ」のための資金確保に努めている。60年代初頭のシンポジオン開催地概覧が示すようにその開催場は石切場以外にも鉄鋼工場でも空き地とか街のある特異な一角などでもよかった。扱う材料も種々の石材のみならず、金属、木材やコンクリートまで現場での制作の可能性が試された。開催された彫刻家シンポジウムの数は見通しもきかないほどに至る70年代においてはさらなる変化が顕著にみられる。市街地で開催された多くのシンポジウムはテーマ付けする方向に関心が強まり、社会文化的観点に特徴づけられ、80年代から90年代にいたりそれまで以上に広範囲に地域や背景、コンテクストが芸術制作プロセスに考慮されるようになった。
彫刻シンポジウムの総括
総合的にみて「彫刻家シンポジオン」の現象は次の五つのクリテリアにより特徴付けできる。まづ第一に共同体の形成である。プロジェクトの企画の段階から始まり、制作段階での共同作業から最終的にはその作晶の発表にいたるまで一貫して相互に援助していくという組織上の課題に対応する制作現場での作家たちの共同生活と共同作業である。第二に、素材と開催地の関連及び芸術作品の形成プロセスとの繋がりを通してそれがさらに強化される意義である。第三に、大なり小なりテーマ付けられたシンポジウムの方向付けである。第四に、芸術作品の出来上がるまで根本的な公開指向であるというその社会的意義及び第五に彫刻家シンポジウムの実験的な基本構造である。これらのクリテリアは常に存在しているとはいえ、個々にはかなり重点のおき方に差がある。それはまた彫刻家シンポジウムの評価する上での基礎を提供するものである。どこまでそれで足りうるかは将来が示すべきだろう。「彫刻家シンポジオン」の総合的現象を展望してみて、カール・プランテルのいまでは殆ど伝説的といえる「父親的役割」の存在をみとめるか否かの問いには、こと石彫家シンポジウムの領域においては確かに彼の親的役割は認められるものといえよう。だが、その後の展開や変遷は、プランテルの見解とは矛盾しながらも、多くの熱心な芸術家たちがもたらし、影響を与えてきたものといえる。またこうした可変力こそが彫刻家シンポジウムを、たとえ美術史上殆ど注目されていないとはいえ、20世紀後半のカルチャー・ライフにおいての一っの重要なファクターにならしめたのである。また将来にもたらす意義も汲み尽くされたわけではない。』
○2007年の10月、旧ユーゴスラビアのポルトローチェの石切り場で80才前後の石彫家が集まって彫刻シンポジウムを開いているそうです。 勿論カール・プランテルさんは中心メンバーでユーゴの彫刻家のレナーシ氏がオルガナイザーではないでしょうか。 でもスゴい物です。
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資料: 彫刻シンポジュウムに関する論文(松尾豊)
「DAS BILDHAUERSYMPOSION」 1988 Hatje
Stuttgart
「Karl Prantl Sculpture/Schlosspark
Ambras,Yorkahire Sculpture Park」Edition Stemmle
「SYMPOSION EUROPANISCHER BILDHAUER
1959」カタログ
[Bildhauersymposien: Entstehung - Entwicklung - Wandlung.] ISBN 3-631-55273-4.
「サンクト・マルガレーテン彫刻家シンポジウム1957とカール・プランテルとその仲間達」 ホームページ
[ARIGATO PRANTL SAN] 2008年、カールさん85才の誕生日プレゼントに、彫刻シンポジウムに参加した日本人彫刻家有志の手で
作成された彫刻シンポジウム記録集に関するHP。
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