ストンワークロゴ古天文話し


銀沙灘と月(東山慈照寺)

 ずっと以前に読んだ本からの記憶に、「京都の銀閣寺には白川砂を盛り上げた銀沙灘があり、これにあたった月の光の反射が銀閣の銀箔天井にほの明るい光を感じさす」と言う事があります。この事をインターネットを始める前に加入していたニフティーサーブの建築ホーラムの雑談コーナーに書き込んだ事があります。その時の反応は、「銀沙灘と銀閣の角度と月の角度から言ってその反射光が銀閣の天井に達することはないと思うと。」言うものでした。確かに銀閣寺を訪れてみると、東側には池があり、銀沙灘は北北東ぐらいの位置にあります。山際(月待山)に位置する境内の月の出はかなり月が高く昇ってからでないと目に入らないだろう。すると建築ホーラムでの意見は確かに正しい。もう一度以前に読んだ本「京の魅力」を読みなおしてみた。因みに、この本はモノクロームの写真とエッセイから構成されていて、写真の横には写真集の様に、レンズ、絞り、シャッター・スピード、フイルム感度のデーターが添えられていると言うすごくシックな本です。 [彼の文化人たろうとする努力と修養は、達せられたのではないか、と思う一つは、銀閣に案外な新工夫のある事を知るからである。銀閣のある土地は東山の直ぐ麓で、この楼上から月を眺めようとすると、相当高く昇ってからの月でないと仰げまい。月が山の端を離れる際の美しさは味わえない。そこで彼は工夫した。銀閣の北脇や・前方に白河砂を盛り上げた台地を構えた。一種の砂丘である凸それを銀砂灘という。そしてその頂部を平らかに掃いた。白河の砂は純白である。花筒岩の崩れた砂である箏この自さは、洛北白河の特産である。若しこの銀砂灘に月光が落ちたとすると、かも瓜かまくわ瓜の花が月光を受けた時のように、透き通るような自さになるであろう。、そこに、アッ、と驚く発明がある。それは、この銀砂灘の上の平面が、本当の水平でなく、銀閣に向って幾分の傾斜を持って居る事である。それに気の附いた私は、思わずコしダと叫んだ。 義政の苦心がそこにあった。 即ち銀砂灘の表面を銀閣に向けて煩ける事によって、この銀砂灘に落ちた月光は反射されて、銀閣そのものの楼上に達し、屋根裏を照らす、楼上の花頭窓を開けば、その中の天井まで達する。 天井には、その中央部僅かな部分であるが銀箔を置いて銀閣の名称に偽りがない事を示したものがある。 その銀箔に当った白砂から反射した光は、銀箔という反射鏡で再び曲折されて、閣内を広く照らす。 要するに東山から登った月光は、月−砂−銀箔と三回転して、閣上に光を取り入れる事に成功した。光線の反射の利用、一大変な発明ではないか。(京の魅力、中村直勝著] この文章を読むと、子供の頃に太陽光を鏡に反射させ友だちの目に当ててまぶしがらせる悪戯の様な強烈な光の反射をイメージするが実際の光は月の光であり仮に反射の角度が合って反射してもこの文章の様にはいかないだろうと思われる。するとこれはなんなんだろう。
銀沙灘
     左に銀閣、右手前から東求堂、本堂、庫裏、宝処関     銀沙灘と向月台

 中村直勝氏は歴史家である。「京の魅力」では京都の名刹にかかわりのあった歴史上の人物を描くことに文章を駆使している。金閣は足利3代将軍の義満によって建てられた。その孫の5代将軍義政によって銀閣は建てられた。覇権を競った先代にくらべて義政になると足利家も屋台がゆらいでいる。また義政の夫人は悪女の筆頭の日野富子で富子のへそくりで銀閣は建ったと言われるくらい義政には政治力も経済力もなく終止、造園や文化人との交流に明け暮れている。こんな義政の才に中村直勝氏は肩入れをしているのではないでしょうか。

 もともと日本人が月を愛でる場合現代の天文学の様に観察するのでなく、月に自分の心の中を託すわけだからぼんやりとした月明かりで十分なのかもしれない。義政晩年の山荘として、彼の好んだ西芳寺の名庭の趣きをうつして造った慈照寺の庭は彼の生きている内には完成しなかった様です。その庭に月が照る様子を[わが庵は月待山の麓にて、かたぶく空の影をしぞおもう]と詠んでいます。     また、万葉集の時代から月は沢山歌に読まれています。  例えば、[春日山おして照らせるこの月は妹が庭にもさやけかりけり]、[ももしきの大宮人のまかり出てあそぶ今夜の月のさやけき]、[山の末にいさよふ月を出でむかと待ちつつをるに夜ぞくたちける]、などなどですが、柿本人麿の歌には、[天の海に雲の波立ち月の船星の林にこぎ隠る見ゆ]の様に空全体を海に喩えた雄大な歌があります。銀沙灘はこの歌に通ずる物が感じられます。

ボウル
 さて、もう一つ銀沙灘について考察した書があります。岡本太郎氏の「日本の伝統」です。岡本太郎氏はこの銀沙灘の事を現代の美術の観点からベラボウなものと絶賛しています。白い砂を、例えば竜安寺の石庭の様に敷き詰める例が通常なんですがこの銀沙灘の曲線に盛り上げられた砂の立体は造形的に実に斬新なものと言うのです。  

その部分を引用して見ます。[だいたい、日本のインテリや趣味人のくせで、あんまりバカみたいに、目の前にさらけ出されているものは、かえってまともに考えないという傾向があります。凡人がただ見たのでは、とうていはかり知ることのできないというような、奥ぶかいもの。何度もひねったもの。さんざんその道に苦労した、専門の眼光によってのみ見ぬけるようなものをこそ、大へんなものだと考えるようです。銀沙灘はあまりにもむきだしだ。だから、ありがたみがないのかもしれないが、それにしてもこれだけ目の前にデンとかまえ、堂々とあるものです。もうすこしまともに取りあげられてもよさそうな、と大いに不満な気がします。どうやら日本庭園史のなかの一つの穴、いや、もっとひろく日本美学の穴のようなものだとも言えるでしょう。なぜ敬遠されるのか。まず第一に考えられることは、茫漠として、大味で、近世日本美学の得意なツボとか、サワリのような引っかかりがないからです。白砂というマチエール(素材)は、どだい、木や石とちがって、ゆがんだり、くすんだり、自然にいためっげられた古色、つまり”さび〃とか”渋み〃などというものとは無縁です。 いつでもサラサラ、よどみなく、新しい。それも、ゆかしく石組みにあしらうとか、地面にほどよく敷く体なら尋常ですが、銀沙灘は分あつく、こってりと、でききたてのようななまなましさをむきだしています。 形態は人工的、幾何学的です。 ヴォリュームにたいして大胆に単純化され、はげしくて、おもい。 いずれにしても、わびてない。 どうもしっくりこない。 近ごろはやりのモダンアートなら笑ってすませるが、ほかならぬ銀閣寺、しかも古くがら伝えられてあるものだから、よくないと言いきるのも、はばかる。 というわけで「意味が分からない。」などと逃げているようです。  意昧が分からないなんてことこそ、意味がありません。いったい、庭石のデコボコや、立木の枝ぶり、また池の形にしたって、いわゆる意味なんてものは一つだってあるわげがない。なるほど、型であり、反復されている。 だから分かる気がする。銀沙灘のほうはユニークで、ほかに裏書きする例がない。 だから分からない、というのはおかしなことです。独自であるからこそ、感動的であり、芸術なのです、つまり「意味」ではなく、美意識に受げいれられるか、られないかの問題です。俗にいうピンとこないということにすぎません。ところで、この箸にも棒にもかからない、ともてあまされている点が、私にはまことに嬉しいし、美しい。現代的センスで受けとめるべきものをここに感じとるのですが、それをお話してゆくまえに、どうしてこのような、ふしぎな美観ができあがったかについて考えてみましょう。・・・後略]  抽象絵画の様な、そう言われて見ると岡本太郎氏の作品はこんな曲線が沢山でてきます。 曲線と直線のぶつかり合いです。  

 

銀沙灘

白川砂を盛り上げたダイナミックな造形

 岡本太郎氏の考察は、銀沙灘が義政の頃からあったかどうかにも触れています。江戸時代に描かれた名所図が掲載されていて、一枚は安永年間に刊行された「都名所図絵」とそれから20年ほど後の寛政11年刊の「都林泉名勝図絵」です。この僅か20年の間でも銀沙灘の形が違って描かれています。安永のものでは、銀沙灘の形は直線的で宝処関(出入り口)からあまり離れていなく、洗月池も本堂近くまで来ている様に見えます。寛政の絵図は現代の物にほとんど近い曲線です。これを見比べてもそうである様に室町時代から向月台や銀沙灘が同じ様な姿であったかどうかはよく分からない様です。義政の時代に完成したものかどうかが不明としても今我々の目の前にはスケール大きな造形として存在しています。岡本太郎氏は、銀沙灘を池に喩えて見ています。  すると回遊式の実際の池と重複して同じ庭園にあるのはなぜか? 水に映る月は「禅」では「真如の月」として悟りの象徴であると言います。虚の存在と実の存在が心の動き一つで変化してしまう凡人の在り方から脱し、色即是空、空即是色、虚と実を無心に一体化した心を表すのが銀閣寺の庭園と太郎氏は言っています。 実の池や築山、虚の銀沙灘の池や向月台の山。こんな思想の庭園が銀閣寺と言う分けです。
向月台

向月台と月待山

 ちなみに、今年の仲秋の名月は、1999年9月24日、京都の月の出は午後5時25分で、午後8時頃のには高度28度くらいに昇っています。また、銀閣寺の案内に書かれている開山の1482年の仲秋の名月は9月26日(現代の暦では)、月の出は午後5時26分、午後8時ころには30度の高さに昇っています。 (いずれのデータも天文ソフトDistant Suns2によります) そして、10月23日も15夜でした。   いつまでも暑さが残る今年の気候でしたが、さすがに10月も下旬になると夜は冷える様になっていて昨夜の月は雲一点もない空に煌々と輝いていました。 19時すぎ山の端をすこし離れたぐらいの月をアトリエにあったバケツの水面に映して見ました。 実際の月よりも水面に映った月の方が鮮明に感じました。その反射の先の壁には微かに月の光を感じる光の揺らめきがありました。このわずかにみとめられる光は、夜でも昼間の様に照明されている都会ゃ家屋の夜になれている現代人の感覚にはあまりにもわずかなものですがもうすこし夜の光に対する感覚が敏感であった人たちにとっては十分に楽しめる光の豊かな変化ではなかったでしょうか。仏像や器、建築に使われた金箔や銀箔の反射光線が暗闇にあって感じる光の変幻を見えるものにしてくれる装置と言えるならば、銀沙灘の白さや銀閣の天井の銀箔は、直接に月光の反射を見るものでなく、山麓の暗闇に月光が照り生える微妙な光の変幻を際出させる増幅装置だと言えます。

月

(上の写真は2007年11月24日の午後5時30分ころ、銀閣寺の近くの南田児童公園から月待山付近に昇る満月(月齢 14.2/十五夜月)を写したものです。)

オブジェクション

服部さんありがとうございました。このページ「銀沙灘と月」を読まれた服部さんから次の様なメールをいただきましたのでここでご紹介します。 皆様はどのように思われますか? コメントがありましたらメール下さい。

Subject: 月の神さん

Date: Tue, 26 Oct 1999 23:13:26 +0900

 銀沙灘の話、全部読ませてもらいました。面白いですね!銀閣寺には、むかしむかしに行った切りなのでよく覚えていませんが、月の光が砂に反射して部屋の天井に届くというのは、考えすぎではないかと思います。おそらく辺りは皎々と照る月で昼間のように明るいはずですから、部屋の中もそれなりに明るいはずで、砂に反射したくらいの光ではそれを見分けることは無理です。

むしろ前の池に映った月の光が、波にゆれてゆらゆらと天井に反射すると言うことは考えられます。(よくテレビでやるやつです)時代は中世の応仁の乱以後の荒れ果てた京都です。河原には死体がごろごろしていたし、街には盗賊がうろつき、それよりなにより、人々が恐れたのは魑魅魍魎が跋扈する「闇」です。実際にもののけの存在を信じていた人々にとっては、「闇」は圧倒的に恐ろしいものだったのです。 それだけに月は人々には有り難いものでした。月を待つ、というのは、勿論風流心もありますが、月を愛でると言う以外に別の気持ちでも、待っていたのです。だから、現代人のように「闇」が無くなってしまった時代に、むしろローソクの光だとか、かすかな月の光などを喜ぶのと同じように、彼らがそれを喜んだかどうかは疑問です。

ギリシャやローマの神話には月の女神が出てきますが、日本には月の神さんはいるのかなあ。古事記に月読というのがでてくるけど、すぐにいなくなってしまいます。  服部正実

*尚、服部さんは「鐘馗」ホームページの作者です。

資料:「京の魅力」中村直勝著、カメラ/葛西宗誠、淡交新社刊。  「日本の伝統」岡本太郎著、光文社刊。    


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